夜中になるとわたしと女は道路を眺める。
象が通るかも知れないからだ。
「一億年前には」と神奈川新聞に書いてあった。「ここに象がいた」
象たちが帰ってくるとしたら、きっと人目につかない夜中にちがいないというのが女の説なのだ。
まだ象は現れない。やつらが通りかかったら起こして、とことづけて女はねむってしまった。
象は通らないが伊藤整の「日本文壇史」ならいつも歩きまわっている。ベレー帽を目深にかぶり、マスクをし、軍手をはめ、首からは双眼鏡、尻のポケットには懐中電灯。
わたしは一九八〇年代の深夜に伊藤整の「日本文壇史」がそんな格好でラブ・ホテルの周りを徘徊する理由を考えてみた。
もしかしたら、やつは死に場所をさがしているのかもしれない。
ビールを飲みたくなって精神病院から脱走した伊藤整の「日本文壇史」。長く生きすぎた。もう死にたいよ。ビールはまだか? そして、何かの拍子に、自分自身のページをめくってしまった。ハンカチと自分をとり違えてしまったのだ。何だこれは?あっ、おれか。
(『虹の彼方に』(高橋源一郎著:新潮文庫より引用抜粋)
(フォルマリズムとは何か)
内容はよくわからない、けれどもなんとなく文学的な雰囲気を醸し出していることがわかるから不思議な気分に襲われる。
こういったことばのことをロシア・フォルマリストたちは『異化』と呼んでいます。
われわれが普段、なんの気なしに使っている日常のことば、つまり『みなさん、わたしの講義録はご自身のお手元に配られていますか』『わたしの予約した席はあいていますか』だとか『この新しい歯ブラシは誰のものだ』とか『風呂をわかしてくれ』『ビールを一杯くれ』『とっとと食器を片付けろ』『オラァ先に寝るよ』など、慢性的に、誰もが使って使い古されて手垢がついた言葉を表現の一つとして使うと、新鮮味に欠け、読者に対するインパクトがたいへん鈍くなります。
フォリマリストはこれらの言葉を『自動化された』と呼びます。そんな日常用語を、ちょっとした、あるいは徹底した文学的な技巧でもって、異質なものに変えてしまうこと、これを『異化』といいます。
ただことばを変えるだけでなく、その言葉をもって日常の見なれた住みなれた世界までも、突然見なれないものに変えてしまって、安心していられないものにしてしまう。
これが要するに『異化効果を持っている』ということになります。
ロシア・フォルマリストの代表ローマン・ヤコブソン(ロシア・アメリカ言語学者)の言うところの『日常言語への組織的暴力行為』です。
ロシア・フォルマリズムの活動は1910年代からで、いちばん華麗だったのは1920年代、スターリンに弾圧されるまで続きます。
中心になったのは、既出のヤコブソンのほか、ヴィクトル・シクロフスキイ(ソヴィエト文芸批評家)、ユーリイ・トゥイニャーノフ(ソヴィエト作家批評家)、トマシェフスキー、ブリーク、エイヘンバウム、プロップ、ヴィノグラードフなどが挙げられます。
(フォルマリズムの主張)
フォルマリズムは言語学を文学の研究に応用したもので、文学の内容ではなく文学の形式の面を重くみました。
フォルマリズムは、文学作品を、言語の技法が組み合わさったものだと考えました。
この技法の例を二つ挙げると、クライマックスがやってきそうでやってこない状態をつくりだして読者を緊迫した苛立たしい状態にもってゆく『遅延』。
あるいは、話が面白くなってきたときにその話からいったん逸れて別の話をして、改めて本編がどれだけ面白いかを再確認させてくれる技巧を『妨害』があります。
このフォルマリズムの代表作とされるのがローレンス・スターン(イギリス小説家)の『トリストラム・シャンディ』という小説があります。
つまりフォルマリズムとは、このように日常なんの気なしに経験していることを、言語の技法でもって、現実をびっくりするほど新鮮なものに変えてしまうのが文学だ、と主張しました。
また、文学を作っているのは言葉であって、作者が何を言おうとしているのかを読み取ろうとするのは間違っていると主張しました。
1930年代になって社会主義リアリズムが全盛をむかえ、マキシム・ゴーリキー(ソヴィエト作家)、ニコライ・オストロフクキイ(ソヴィエト小説家)、イリア・エレンブルグ(ソヴィエト小説家)、ミハエル・アレクサンドロヴィチ・ショーロフ(ソヴィエト小説家)などが共産党と国民を結びつけようとする文学をたくさん書いていました。
その中にあって小説の内容を軽視したフォルマリズムは弾圧を受けました。
スターリン(*1)から睨まれたロシア・フォルマリズムの面々は20年代の終わりからあちこちへ亡命して、アメリカへ亡命した連中が新批評(ニュークリティシズム)(*2)に影響をあたえ、フランスに亡命した連中が構造主義(*3)に影響をあたえ、やがて60年代後半から再評価されはじめました。
(フォルマリズムの限界)
フォルマリズムへの疑問は、それでは小説を日常言語で書いてはいけないのか、という疑問です。
耽美派の作品にも日常言語は頻繁に使われていますし、逆に古典的な作品に使われている言葉が現代人であるわれわれに異様な印象を与えたとしても、その当時の日常言語である筈です。
また、小説の最初から最後まで、異化された言葉で書かれた小説があれば読者は疲れてしまうでしょうし、異化効果もなくなってしまいます。
異化効果を高めるのならば、むしろ日常言語の中へ異質な非慣習的な言葉(=例えば業界用語、その業界でしか使われない隠語)を挟みこんだ方が効果は上がる訳です。
例えば、田舎の中で標準語を使っている青年がいれば、その異質性がくっきりと浮かび上がることでしょう。
最終的な結論を言えば、異化効果を持っているかどうかをわれわれに教えてくれるのは言語ではなく文脈(コンテクスト)の中でとらえられると言うことです。
したがって、フォルマリズムは小説を研究するためにあるのではなく、詩を研究するために用いられるものであるといえます。
(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(*1)1930年代初めからその死の53年まで独裁を続けた。その歴史的役割と評価についても、非人間的・反社会主義・反マルキシズムなどの全面否定論から、“誤りはあったが偉大な社会主義者”とする立場まである。
(*2)「真面目な文学部唯野教授 第2講 新批評」参照
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-08-27)
(*3)「第8講 構造主義」に譲る
次回は第4回「現象学」
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お陰さまで「爽秋の春風駘蕩ならざる日々」が100号を迎えることができました。
小生は生来何事にも飽きっぽく継続することが苦手で、造っては止め造っては止める、という行為を人生において何度も繰り返してきました。しかしながら、今回は9ヶ月ものあいだ連載を続けることができ、無事100号を迎えることができました。
当初は会社に缶詰状態で視野狭窄になりがちな自分を戒めるため、就寝前の3時間と土曜、日曜に読んだ新書の備忘録としてこのブログを綴りはじめました。
アクセス数が増えるにつれ、次第にわたしのつたない随筆や読書感想文が、子どもや学生の知的好奇心をひきだすきっかけとなり、忙しいサラリーマンの方々の読書選択のひとつの指標となりうるのではないかと考え、回をかさね、現在に至ります。
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