一
大坂の市は海の香りに満ちている。
山間に生まれ育った左衛門之尉幸村はそう思った。
信州の曇よりとした空気をそのまま持ち越したような上田城の城下町の静寂さとは異なる、大坂城下の喧騒を左衛門之尉は海のせいだと考えた。城下の市の姦しい商人の声から逃れるように、馬上の左衛門之尉は中天を仰いで雲を見た。
紅白の梅が咲き乱れる中、澄みわたる空はぬけるように青かった。生暖かい微風が吹くと潮の薫りが一瞬漂うように思えるのは気のせいではあるまい、と左衛門之尉は後ろの家臣をかえりみて思った。
紅白の花びらが散乱する天満橋を越えると、大坂城の壮麗な石垣が左衛門之尉の眼を圧倒した。灰色の瓦屋根がつらなる遥か彼方に、五層の黒い屋根瓦の天守閣が雲ひとつない快晴の青い空と一体となり、それでいて自らの存在を誇示するかのように厳然と佇立していた。
(いやはや、なんと人の多いこと)
太閤自慢の本丸の千畳敷にとおされた左衛門之尉は、その畳敷の広大なことは言うにおよばす、そこに集う日本全国から集まった雑多な武士の群に戸惑いをおぼえた。
そこには円座を組み左衛門之尉などが到底理解できぬ方言で語らう集団がいるかと思えば、主(あるじ)が帰るのを待っているのであろう庭のみえる座敷の縁にジッと正座している小姓もいた。一瞥してこの国の者でないとわかる漆黒の衣装を身にまとった異国の者もいた。
左衛門之尉はどこに視線を落としてよいかわからず、ただ中庭の砂浜に点々とはえている松の木々といやに巨大な池をみていた。
(諸国の大名とはこんなにいるものか)
果たして自分の眼通りの沙汰は本当なのだろうか、とふとした不安が左衛門之尉の頭をよぎった。
「真田源ニ郎殿」
自分を呼びとめる声で左衛門之尉はわれにかえって視線を上げた。そこには常々自分に好意を寄せたびたび文を交している大谷刑部吉継と、日焼けした赤ら顔に鉢のような頭をもった人物が微笑みを浮べながら立っていた。大谷刑部は左衛門之尉の前に座ると、傍らの人物に、
「こちらは信州の真田弾正殿のご二男、源ニ郎幸村殿」
と紹介すると、こちらに向きなおり、
「こちらは小西摂津守行長殿で御座る」
左衛門之尉は一瞬、驚ろいた視線をその人物にあてると、この方が朝鮮の役で先鋒をつとめられた五奉行のひとり小西摂津守行長殿か、とあわてて平服しようとした左衛門之尉を摂津守行長は手で制し、
「いやいや真田殿、このような場所で堅苦しい挨拶はぬきじゃ。して、この千畳敷の居心地は如何で御座るか」
と、問うた。
「ははあ。あまりの雄壮さに眼の眩む思いで、先刻より松の生えた砂浜ばかりをみておりました」
摂津守行長は左衛門之尉は正直さを快く思ったか、大谷刑部と顔を見合せるとあっはっはっはと、愉快そうに笑った。
「なるほど。この千畳敷は海千山千の者がうろうろしておるからのう。さながら虎を野放図に飼い放しにしているようなものだ。見てみよ、あの鬱然としたを向いて首を扇子で叩いておるのが長束大輔正家。あの円座の中で大声で語らっている長髯の男がわしの仇敵加藤主計頭清正じゃ」
行長は再び呵々大笑しながらもつぶさに、動く左衛門之尉の表情を観察していた。
ニ
「真田弾正殿のご二男、源ニ郎幸村。面を上げい」
室(へや)に秀吉の側近で五奉行のひとりである増田右衛門之尉長盛の凛とした声が響きわたった。
わずかに左衛門之尉が頭を起こすと、畳の遥か遠くに美々しい太刀持ちの小姓をしたがえ、黒い烏帽子に白装束の太閤秀吉の姿がみえた。
(おおきい)
左衛門之尉は思った。巷間つたえ聞く太閤は猿ににた小男であったが、左衛門之尉にはそうは見えなかった。太閤にはいいのしれない巨大なものが取り付いているかのように、その体から周囲を威圧するかのような何かがほとばしっていた。大坂の開放的な雰囲気も、明朗な文化も、かしましい海の市も、全て太閤の肉体から派生して出てきたのではないか、と左衛門之尉は思った。が、残念ながら太閤が発した大声が何事か左衛門之尉には理解できなかった。その雰囲気を察した右衛門之尉長盛が、
「真田源ニ郎幸村殿。朝鮮出兵の際の名護屋城での働き見事であった、と仰せでご座います」
太閤の声は大きい。ピンと張りつめた一座の空気を太閤の一語一語がゆれ動かした。
「真田源ニ郎幸村殿。従五位下左衛門佐ならびに豊臣の姓を名乗ることを許す、との仰せでご座います」
雉の鳴き声がした。
左衛門之尉はあまりの光栄に呪縛にかかったように、しばらく動くことができなかった。太閤がまた何事か大声で叫んだ。すると一座の空気が和んだ。右衛門之尉長盛がすこし弛緩した声で、
「真田殿。従五位下左衛門佐では不足か、との仰せでご座います」
空気が和んだのを見計らうと、太閤は艶やかな扇子を開くと立ち上がり、ズカズカと大股で左衛門之尉の方へ近づいていった。後を右衛門之尉長盛が追った。太閤は平服する左衛門之尉の肩をつかむと何事か呂律のまわらない声で話かけてきた。
「こなたの父は稀代の横着者と呼ばれておるが、そなたは兄と一緒にこの太閤のために働いてくれよ、と仰せで御座います」
太閤の声は鳥のようにすばしっこく雲間を流れて雲海に没した。
三
(やれやれ、いつの間にやら寝てしもうた)
幸村はだらしなく寝入っていた自分に呆れつつ、朝夕の畑仕事と堆肥のせいで日焼けして赤茶け節くれだった手の甲を見て、今さらのようにもう若くない自分の年齢に気付かされるのである。
時はもう夕刻にちかいらしく、烏の物悲しい鳴き声が聞こえ、障子も赤く色付くと、現在の九度山での境遇の寂しさを一層際立たせた。
(「未」 新入生歓迎 創刊10周年記念号 1997年4月発行一部改訂 同志社文学研究会)
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