そして極め付きは、日本人の変遷に関する言説である。(=寶田先生はこの計画は二百年前に計画されたものだが、誰が「われわれ」なのかには言及しなかった)
寶田先生の激しい言葉をそのまま速記させていただくと、
「われわれは全ての信仰を破壊し、民衆のこころから神と精霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える」
この言葉はニューチェが26歳の時に執筆した『悲劇の誕生』に出てくる記述と同じです(以下、引用)
「日々の祈りにかわる新聞、鉄道、電信。巨大な量のさまざまの関心のただ一つの魂のうちへの集中化。そのためにはこの魂はきわめて強く転変自在でなければならない」(引用終わり)
「思索と鑑賞の暇を与えないために、皆の気持ちを商工業(ビジネス)に向けさせる」
「自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤に置かなければならない」
「商工業が大地からとりだした富は民衆の手から投資家を通してわれわれの金庫に収まる」
(確かに、日本はアメリカの国債に投資し、そのお金でアメリカ人は日本株に投資している。これを偉い人は「デット・エクイティ・スワップ(債券と株式の交換)」と呼ぶ)
「経済的生活で優越を得るために激しい闘争と市場での投機は、人情薄弱な社会をつくりだす」
「高尚な政治や宗教に嫌気がさし、金儲けだけの執念が唯一の楽しみとなる」
「民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。民衆は高邁な目的で財を蓄えるわけではなく、ただ錯覚した上流階級への嫉妬にかられ、われわれに付き従う」
これ程、直截に戦後の日本の姿の変容を言い表した言葉があるだろうか。
作家の五木寛之さんは、
「戦後の日本人はウェットな涙やら人情やらを意識的に遠ざけて、カラカラに乾いた世界に閉じこもるようになってしまった」
と述べる。
また、現代人は「科学の知」の有用性とその合理性をよく知っており、その恩恵によって現在の便利で快適な生活を享受している。
しかしながら、経済大国になった今、この「科学の知」は袋小路に入り、「科学の知」偏りすぎた「現代の知」がかえって社会に閉塞感を生んでいるのではないだろうか。
中村雄二郎氏によると、人間は科学の知のみに頼るとき、人間は周囲から切り離され、まったくの孤独に陥るという。科学の「切り離す」力は実に強い。
人間的な情緒が失われ、日本人同志でさえ信じえなくなってしまった日本社会のさみしい帰結が表現されている。
人間は容(かたち)あるハンディなら認識できるのだが、表面上からは容易にうかがい知れない社会の構造上の欠陥による、人間のこころの停滞が起きていることには気が付くことが出来ない。
日本経済は見かけ上、繁栄を取り戻したかのようにみえるが、内的な制度上もしくはこころの「見えざる危機」が未解決のまま山積している、と感じさせられた。
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