■弥縫(びほう)
鎧をつけた平清盛は、息子の重盛がやってきたので、あわてて法衣をそのうえから着こんでごまかそうとした。かきあわせた襟元から、鎧の端がちらりとのぞく。―そんなのが弥縫の一例である。
(中略)
左氏とは左丘明という人物のことで、『史記』の作者司馬遷の文章によれば、失明したことで発奮して、著作活動をしたという。目が見えないのである。左氏本人は、自分の目が縫い合わされているとかんじたのであろうか。そのために、「弥縫」ということばを愛用したのかもしれない。
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「一字(いちじ)の師」(99頁)
現在の文壇には師弟関係といったものはもう存在しないようだ。秘書を使っている人はいるが、「お弟子さん」ということばをきいたことがないから、それに類する人を抱えている作家はいないのであろう。画壇や劇壇の世界では、いまでもちゃんと師弟関係があるらしい。
某展覧会へ行ってびっくりした。会場で羽織袴白足袋の老人は、そばにいた婦人に、最敬礼をしていた。彼らは老人を「先生」と呼び、先生と呼ばれた老人は、そばにいた婦人に、「うちの弟子たちでしてな」などと言っていた。これは敬老精神といった上等のものではなく、封建思想を絵にしイヤらしいシーンであった。いまの文壇にそんな恥ずかしい雰囲気がないのは、まったく幸いといわねばならない。
絵画の世界では、「先生」が「弟子」の絵を直すことがよくある。さすがは先生で、さっと一筆くわえただけで、その絵が見ちがえるほどよくなる。そんな実例をみれば、最敬礼をしてもよいから、先生が欲しくなってくる。詩文では一字を直しただけで、ぜんたいがぐっとよくなることがあり、むかしの人はそれを「一字の師」と呼んでいた。
晩唐の鄭谷という詩人は、僧斉己(せいき)の「早梅詩」の一字を直して、それをみちがえるほど良くしたというので、一字の師といわれるようになったそうだ。どんなところを直したのか、そういわれると興味がわいてくる。
前村、深雪の裏(うら)
昨夜 数枝開く
の句のなかに「数」を「一」にしただけである。早咲きの梅をよんだ詩だが、早咲きであるから、数枝より一枝のほうがたしかにしまったかんじがする。種明かしをすれば、なぁんだ、そんなことか、と思えるのがこのテのエピソードの特徴であろうか。
「一字の師」については、どんな小さなことでも教えてくれた人はみな自分の師である、という解釈もある。
旧時代の中国では、児童の教師は「千字文」といって、基本的な千個の文字をおしえることになっていた。千字を教えてくれた人も先生なら、一字を教えてくれた人もおなじく先生であるはずだ。
ある大学者が一字読みまちがえ、小役人にそれを指摘され、相手を「一字の師」と呼んだ故事がある。吉川英治はよく、「我以外みな我が師」といったことばを色紙にかいたが、それに似たことであろう。謙虚であれ、という意味がこめられているようだ。日本のコトワザにも、
―負うた子に教えられて浅瀬を渡る
というのがある。
われわれは、いつ、どこで、誰に、どんなことを教えられるかわからない。いつでもそれをうけいれる態勢をもたねばならない。そのためには謙虚であるべきだ。一筆で全体もよみがえらせるようなすぐれた師匠、と解するよりは、負うた子も師匠、とするほうがおもしろいように思う。
清末の詩人龔自珍(きようじちん)の詩に、
― 本無一字是吾師(もと一字として是れ吾が師は無し)
という句がある。ほかの解釈もあるが、
「私は一字として先人の文章を師として借用したりしない。すべて独創である」
と読みたい。誇高き文人の自負に、こころよいめまいをかんじるではないか。
(出典:『弥縫(びほう)録-中国名言録』(陳舜臣:中公文庫))
(後日譚)
平清盛と重盛の親子の関係について触れた文章を発見したので付け加えておきます。
忠ならんと欲すれば則ち孝ならず。
孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。
重盛の進退ここに窮(きわま)る。
(出典:頼山陽の『日本外史』(上)
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