人間は教育によってさまざまな事をインプットされます。
そして、人間はインプットされた情報に基づいて、なんだかの情報をアウトプットします。
アウトプットされ生産される情報の中には、言葉によって表現されるものもあれば、書き言葉によって表現されるものもあります。
しかしながら、必ずしも人間はインプットする量に比例して、アウトプットする量が増加する訳ではありません。
かつて荻野アンナ女史が、テレビ上で、ある大学人を「インプットばかりが多く、アウトプットが少ない人間」を車に例えて「ガソリンの給油は多いんだけれども、燃費の悪い人間」と揶揄したことがあります。
私もその例に漏れず、インプットする情報量は多いけれども、それをアウトプットして活用する術を知らない「燃費の悪い人間」かもしれません。
情報の生産物が厄介なのはその客観的な価値の測定手段が存在しないからです。
情報の生産物ほど、客観的な測定が難しいものはありません(ホワイトカラーの生産性の測定の難しさはそこにあります)
それでは情報の成果物はどのようにしてその価値を測るべきなのでしょうか。
私は情報のアウトプット(生産物)は2つのパターンがあると思います。
まず、第1にインプットされた情報を正確に伝達する能力。
そして第2にインプットされた情報を他のさまざまな情報と関連付けて、新しい成果物を創造する能力。(これは、Reference能力といいます。オタク研究家で、元東京大学講師の岡田斗司夫さんが提唱されています。何の関連のないものを結び付けてはいけません)
それでは、現代の情報化社会において、第1の能力と第2の能力どちらが価値があるのでしょうか?
かつてYMCAで英語を教えてもらっていた大学の先生が
「君、僕の大学院時代の友人に引き出しというあだ名の人物がいてね、そいつに聞いたら何でも情報が引き出しみたいに出てくるんだ」
と語ったことがありますが、これは第1の能力を持つ人物に該当するでしょう。
しかしながら、インターネット万能の時代に最早、このような辞書のような能力を持つ人間の重要性は薄れてくるでしょう。
これからは、むしろ第2の能力、インプットされた情報を他のさまざまな情報と関連付けて、新しい成果物を創造する能力が高く評価される時代が来るでしょう。
人の思っていないような視点から全く関連のないような事柄をリンクさせ、論理的にその事柄を関連付ける能力。
このような思考訓練をすることがこれからの時代、必要ではないでしょうか?
最後に筆者が懸念していることを一つ述べさせていただきます。
ある司法修習所の教官の述懐ですが、最近の若い司法修習生は問題の回答をすぐに求める傾向があり、問題をじっくりと考えてそのプロセスを楽しもうとしない、と嘆いておられる。
受験勉強においては、初めての問題を解こうとしたとき、じっくりとその回答プロセスを考えるより、すぐに回答のページをめくって正解を暗記してしまったほうがてっとり早く、要領がよいというのは事実です。
これも“Quick Lunch Study“ともいえる現代教育のもたらした弊害でしょうか。
しかし、じっくりと回答へのプロセスを思考するという段階を素通りしてしまった人には何かが欠落しているように思えてなりません。
一般社会に正解など存在しません。
人間は与えられた断片的な情報を手がかりに、さまざまな試行錯誤を繰り返しながら正解に近い何かを求める動物です。
思考の試行錯誤を繰り返したことのない人間はいつかその罠にはまってしまいます。特にきれいな正解が必ず参考書の巻末に存在する、という幻想を抱いている、受験エリートはこの罠にはまりやすいと考えます。
(後日譚)
学者の方にも色々な役割の方がいらっしゃり、いろいろなものを蓄積して充電中の人もいれば、色々吸収したものを放出し放電中の人もいます。あまり象牙の塔のことに一般市民および学生が口をはさむべきではないと思います。
以上が、私の「インプットとアウトプット +α (アルファ)論」です。
ご清聴有難う御座いました。
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