Wednesday, June 11, 2025
驟雨の時(3)
或る日、ひとみちゃんという年長組の女の子が遊びに来た。何故一つ年上の彼女が、わざわざ僕の家を訪ねてきたのかは分からない。幼稚園の行き帰りに一緒に帰ったことがあっただろうか。ひとみちゃんは物怖じしない快活な女の子で平気でコガネムシの幼虫を触った。 ひとみちゃんはおどおどと蝉の抜け殻をつかむ私とは対照的に、堂々と抜け殻やミノムシを採った。また、彼女は不器用な私の世話をやくのが楽しいようでもあった。そういうところに私は彼女に対してかなわないものを感じた。 私たちは庭先に止めてある大人用の青い自転車に乗ってみようということになった。 「スタンドが外れたら危ないよ。ひとみちゃん止めよう」 と言うと彼女は、 「タダシ君て男のくせに意気地がないんだから」 と、言うや否や青い自転車のサドルに飛び乗ってしまった。 彼女は余裕の表情で私の顔をうかがうと、空に顔を向けてペダルから足をはなして宙にブラブラとさせた。不器用なあなたとは違うのよ、とでも言いたげな態度だった。私は何も出来ない自分を再認識させられて悔しかった。 どうやって自分のプライドを保とうかと考えているうちに、私の視線はサドルに乗ったひとみちゃんの白い足の前で止まった。青い小さな靴と白い靴下の下からみえるくるぶしの膨らみが眼に入った。そして再び視線を上げて彼女の全体像を確認した。 1呼吸と時間が止まった。 不思議なときめきを感じた。私はどうやら彼女の魅力に引き込まれてしまったらしい。彼女も私の視線を感じたらしく、自転車に乗ったまま動かなかった。 甘美な時間が流れた。 今や彼女は競争相手でも、プライドを傷つける憎むべき存在でもなかった。私はもっと彼女を見つめていたかったが、同時に湧きあがってきたうしろめたさ、彼女を友達以外のものとして見てしまったやましさが視線をそむけさせた。 「乗ってみたら」 「危ないって」 ひとみちゃんと遊び始めてから、上津君とはあまり遊ばなくなった。ひとみちゃんが遊びにこないと分かっている日も、上津君の誘いを断った。雨の日もひとみちゃんが来るかもしれないと思い、家で待った。 しかし恐れていた事が起こった。ひとみちゃんと遊んでいる時に上津君が来たのだ。 「ひとみちゃんが先に遊ぼうと言ってきたから」というと上津君は、 「タダシは女好きだ。女の腐ったような奴だ」 と言ってきたのだ。そう言われると断る訳にもいかず扉を開けた。 上津君が得意な、堀を流れる小川に下りてのさわ蟹採りをすることになった。ひとみちゃんは嫌がって庭で遊ぶことを主張したが、私は「女の腐ったの」と言われた手前、「川へ行くんだ」と強引に押し切って小川に三人で行った。 ひとみちゃんは橋の上でつまらなそうにさわ蟹をとる私たちを見ていた。上津君はさわ蟹をとりながら橋の上にいるひとみちゃんに「だから女は駄目なんだ」と繰り返し言っていた。 私はさわ蟹を探すふりをして腰を屈めて川面を凝視していた。 さわ蟹を入れたバケツを持って意気揚々と帰る私たちの後ろを、ひとみちゃんは、 「こんな汚い蟹をとって何が楽しいのよ」 と言いながら不満げについてきた。 その後は、社宅と電電公社の局長さんの敷地の間にある竹林のなかにある鳩の巣のなかの卵をとろうという事になり、竹藪をかき分けて強引に竹林に入り込んだ。上津君は先に先に奥へ入っていった。 本当に鳩の巣などあるのかと不審に思いながら、繁茂している竹の葉が間断なく頬に当たってきて嫌な気分になった。その時「痛い」という声がしたので、振り返るとひとみちゃんが膝がしらをおさえてかがんでいた。何かの拍子に膝を切ったらしい。 「ひとみちゃん大丈夫」 と駆け寄ろうとすると、後ろから上津君の声がした。 「タダシ。女なんかにかまうなよ。お前は女の腐った男か」 私はその声を振り切ってひとみちゃんに駆け寄った。私は女の腐ったのでいいんだ。ひとみちゃんの方が大事だった。 或る曇った日にひとみちゃんが自宅に誘ってくれた。 ひとみちゃんは一階が倉庫になっているプレハブの二階に住んでいた。赤錆びた鉄の階段を上り、薄暗い玄関に入ると布で作った赤い服を着たピエロが壁に掛かっていた。 部屋に入り、しばらくテレビを見ていると、ひとみちゃんのお母さんのヒステリックな声が聞こえてきた。 「ひとみ。また下着をぬらして。乾くまでそのままでいなさい」 「いやよ。こんな恰好じゃ恥ずかしいでしょ」 「今日も2枚洗濯したのよ。かえがないのよ」 しばらくして、うちしおれたひとみちゃんが私の横に座った。いつもの颯爽とした面影はなかった。私はひとみちゃんを正視できず、そっぽを向いた。一刻も早くこのなんともいえない気まずい淫靡な雰囲気から逃れたかった。 「ねえ、こっち向いてよ」 「帰る」 玄関を出て階段を下りてゆくと、ポツンポツンと雨が降りだし、やがて家が見えてくる頃には雨はよこなぐりに強く降りだした。もう、ひとみちゃんとは会うことはないだろうと思った。 それから一カ月後、父は再び転勤を命じられ、私たち家族は東灘に引っ越すことになった。引っ越しを見送る人混みの中に、ひとみちゃんの姿はなかった。それ以来ひとみちゃんに会ったことはない。 今でも、むせかえる夏の日に木にとまるハンミョウ虫を見ると、尾道の山上にある千光寺や古びた漁船のとまる漁港を思い出したりする。勿論、あの甘美な時間の事も忘れずに。(終わり)
Subscribe to:
Post Comments (Atom)
No comments:
Post a Comment