Tuesday, November 23, 2010

『熊野集』 (中上健次著:講談社文芸文庫)

文芸評論家の小谷野敦氏によれば、文壇において十年ごとに登場する新しい流派に対する命名は微かに命脈を保っており、昭和五十年代に台頭した中上健次、村上龍、三田誠広は「内向の世代」(古井由吉、黒井千次、高井有一、小川国夫、阿部昭、後藤明生、大庭みな子、富岡多恵子など。いわば政治に関心を持たず自己の内部に向かっている文学)につづく「青の世代」と呼ばれていたらしい。(*1)


 この「内向の世代」は古井由吉に代表される(石川達三は古井の作品「杳子」を読んで「目標喪失の文学」を書き銓衡委員を退いた)「物語の解体」と呼ばれる手法で自己の世界を描いている。 


「物語の解体」とは小説の物語性を拒否し、近代の世界を一つの仕組みとしてながめる発想を避け、主人公の身体の生理と一つになった言葉で目にみえるもの、聞こえるものをなぞってゆき、同時代を生きる小説家の身体や生活の実感、社会の空気を表現する手法で作品を描いてゆく手法である。(*2)


 私が久々に中上氏の作品を手に取ったのは、肉体的な躍動感や雄々しさ、生きるうえで必要な野性味を求めていたからに他ならない。中上氏の言葉を借りれば「切って血の出る物語」、何か現実味の感じられない世界と対極にある極限状態においつめられた人間の生命の呼吸のようなものを味わいたかったからかもしれない。


「暗闇の中での跳躍」。一つ一つの作品に中上氏の移動、ジグザグ試行、揺れ、跳躍があり、その世界が予定調和的でない世界(*3)。泉鏡花を思わせる文体に自らの雄々しい文体を駆使して自己の世界を描く、近年の作家にはみられない肉体をかけた文学、作風は粗いのですが、生理的な欲求から読まされてしまいます。また、幽玄といって良いのでしょうか、死の淵に立つからこそ新鮮に映えてみえる自然の美しさの描写に驚きを覚えます。



(参考文献:(*1)『現代文学論争』(小谷野敦著:筑摩書房)、(*2)『日本文化の源流を求めて2』から「小説の困難と可能性」高村薫、(立命館大学文学部著:文理閣)、(*3)『坂口安吾と中上健次』(柄谷行人著:講談社文芸文庫)



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Sunday, November 07, 2010

『日蝕』(平野啓一郎著:新潮文庫)

 本書の紹介文は以下の通りである。


「現代が喪失した「聖性」に文学はどこまで肉薄できるのか。舞台は異端信仰の嵐が吹き荒れる十五世紀末フランス。賢者の石の創生を目指す錬金術師との出会いが、神学僧を異界に導く。洞窟に潜む両性具有者、魔女焚刑の只中に生じた秘蹟、めくるめく霊肉一致の瞬間。華麗な文体と壮大な文学的探求で「三島由紀夫の再来」と評され、芥川賞を史上最年少で獲得した記念碑的デビュー作品。」


平野啓一郎氏の作品は初めてだが、読み終えて、ともかく1999年(平成十一年)以降の十二年後くらいの「世界の腐敗と堕落」を予見した出色の作品という印象を受けた。


 内容の検証にはミシェル・フーコーの「性の歴史(知への意志)」と「世界宗教史」を読みこなさないと不可能かなとも思った。十五世紀末のフランスを舞台にしながら、擬古文調でさらに漢字を彫琢したところがこの作品の奥行きの深さを感じさせる要因になっているのではないか。


勿論、ある評者のいうように「人間は理解不能な神秘への憧れを止められない」ということを敢えて難解な表現でしるしたかった、という欲求もあるかもしれないが、私は平野氏がキリスト教グノーシス派を採りあげたことを彼の文学的な意志表明として注目したい。


話は変わるが、経済的な飽和状態ならびに物質的な発明の行き詰まりを人々が感じる現在、人びとは内面的(=精神的)充足を求めて西田哲学における精神的鉱脈、西田哲学における「純粋経験」の再評価が行われているらしいのである。


西田哲学を身近な例でいえば、読書において作家の秘めたる意図あるいは難解な描写の情景が読者にとどき理解されたときに感じる純粋な感動、それは個人的であり、かつ生々しく簡単には言葉で言い表せない純粋な塊ではなかろうか。西田哲学においてはこの大きな塊が如何に人間の言語、非言語として取捨選択され再生産されてゆくかの意識の過程をも追求してゆく学問である。


平野氏がモチーフを現代社会ではなく、十五世紀のフランスおよびグノーシス派に依るのは、この宗派の「厳密な意味でのではなく、当時、広範囲に流布していた神話や思想や神観念に対する、大胆で、奇妙なほど悲観的な再解釈なのである」。「(前略)ついには肉体の牢獄から解放されるであろうことを学ぶのである。要するに彼は、誕生は物質への堕落にひとしいが「再生」は純粋に霊的なものになることを発見するのである」。「世界は偶発的なできごとや災難の結果生じたものであり、無知に支配され、邪悪な力によって統治されていると考えているため(中略)規範と制度のすべてを拒絶する。彼らは霊知によって獲得された内面的な自由の力によって思うままにふるまい、望みどおりに行為することができるのである」といった性質にあると考える。


つまり、私は彼が言語的に不可知な領域へおも踏み込む表現上の決意表明のために、もっともそれに適した教えであったグノーシス派を選択したのではないかと思うのである。もっとも本人曰く「(歴史的な軸で眺めると)逆に今っていう時代がどういう流れのなかに位置付けられているかもわかる」そうだ。 つまり享楽的な時代に生きる節操のない朋輩たちに対して、復古主義、現代に生きる人の聖なるもの、つまり自らの志操とは何か、を強烈に問いかけた作品であると思う。また、社会とは自己と他人の領域の交差点である。「自己の領分」を明確に位置づけておかないと後に自らの志向性と異なった領域への逸脱や侵犯を起こしたり受けたりして、それこそ収拾のつかない事態に陥る、という警鐘であると考える。



(参考文献:『世界宗教史』(ミルチア・エリアーデ著:ちくま文芸文庫)



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Monday, November 01, 2010

謝 辞

過日、直木賞設定について偉そうなことを述べましたが、私の知識は直木賞設定の初期のものだけでして、今回、五木寛之著の「僕の出会った作家と作品」を読んで本格的に直木賞作家の作品を読んだことがあるか、といえば皆無に等しいと自覚しました。


 また、私は好きな作家の全作品を通読したことがあるのか、と問われれば、残念ながら歴史・推理小説作家以外は読んだことがありません。今回新進作家の方の数の多さ、作品数の多さを見るにつけ、話題がなくなったと思っておりました文学の世界も随分才能のある人がいるのだ、とわかりました。結論としては、賞をとるも作家としての地位を得るも、作家自身の自己の作風に対する強い執念にあると考えました。


私のような素養のない者が差し出がましく、感想文めいたものを発表してきたことに罪悪感を感じ、また批評家ならびに作家の方の仕事にご迷惑をおかけしておりましたらお詫び申し上げます。


当書評のなかで図書館で是非読んでいただきたいのは、1983年(昭和58年)11月「小説現代新人賞 第41回」の「該当者なし」に書かれた、「軽薄短小を排す」という銓評です。


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「軽薄短小を排す」



(前略)投げ銭目あての大道芸とて、その陰には人に言えない血の涙が流されているはずだ。その苦しみを観客に気取られることなく、はた目に遊びと見える芸こそ、プロのスピリットなのではあるまいか。


こんな文句を選評の場で書きつらねるのも年とって小うるさくなっただけのことなく、最近じつに安易な遊び半分のアマチュア小説を読まされている事に閉口しているせいである。


なにもアマチュアリズムを否定しているわけではなく、たとえ新人賞への応募作品であっても、そこにプロをもひしぐ面構えと気組みがあってしかるべきだと思うのだ。



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Wednesday, October 13, 2010

『されど われらが日々―』(柴田翔著:新潮文庫)

当ブログは我慢強い方のお陰と、冷やかしも交ったアクセスで、かろうじておおよそのべ40名の日々のアクセス、閲覧数70前後を保っております。


今回は私が読んでみたいと思っていた柴田翔氏の『されど われらが日々―』を紹介したいと思います。そして『芥川・直木賞受賞者総覧』(教育社)の内容と当時の学生気質について私が感じたところを述べてみたいと思います。


当作品は同人誌「象」に掲載された同氏の作品「ロクタル菅の話」で芥川賞候補になった後に書かれた作品で、工学部の応用化学科から独文科助手となった最後の年に書かれたもので柴田氏のいわば青春の墓名碑的作品として書かれた作品です。


ところがこの作品の文体は非常に平明で読みやすく、思想に殉じて死んでいった親友や付きあっていた女友達の死に対する苦悩や同情の念はあまりなく、むしろ冷めた様子で青春の日々を淡々と綴っておられます。


銓衡委員のなかには「以前の作品の方がよかったのではないか」という声も多かったと聞きますが、「書物はその書物が書かれた時の時代状況を考えながら読まなければならない」という格言にしたがえば、ストイックに生きている主人公に対してさらにストイックな人間があらわれて、自らの高校時代から関与してきた活動の些細な過失にここを痛め、あるいは自らの結婚観について「恋愛は、それがどんなに周囲に祝福されているようにみえても、本質的に反秩序的なものです」という厳しい人生観を持っている人がいる。


そんな似た者同志のなかでの何となく予定調和の人生というもの―大学時代に全ての人生設計を終えていなければならないことに対する漠然とした億劫さが、この文章の欠伸(あくび)でるような退屈さ、人間を踏みしめて歩んでゆく時代風潮に対する冷ややかな怒りにつながっているのではないかと思います。この作品の受賞時期は1964年上半期で、全共闘が本格的に始まる4年前に書かれています。


柴田氏はこの後エッセイや武田泰淳、小川国夫、野間宏、加藤周一、大江健三郎との対談。小田実、開高健、高橋和巳、真継伸彦との同人誌を残されております。


(引用:『芥川・直木賞受賞者総覧』(教育社)



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Wednesday, September 22, 2010

『回想の芥川・直木賞』(永井龍男著:文藝春秋社)

 この本にふれる前に、私なりの回想の芥川・直木賞をさせていただければ、当時は遠藤周作、北杜夫、吉行淳之介、近藤啓太郎、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三などの<第三の新人>と呼ばれる作家の円熟期にあたり、遠藤氏や北氏、安岡氏の晩年期にどんな渾身の作品が出版されるのかを楽しみにしていた時代で、当時の芥川・直木賞受賞者は寡作の人が多く今よりも注目度は高かったものの、新進作家の作品はあまり読まなかったような気がする。


 その後、文学と無縁の時代が長く続き、たまたま買い込んだ「芥川賞全集―十九巻―」の町田康氏の「きれぎれの」銓評を深夜に読んだ時に「文学いまだに死なず」といった観を強め、「せめて今の流行や世の中の空気を知るために読んでおこう」と僅かばかりの元手で本を買いいれだしたのが当該賞に入れ込みだした始まりである。


 私は作品もさることながら、当該作品が選ばれた時代背景や銓衡委員の銓評の辞を読むのが楽しみでならない。今回は1971年(昭和46年)上半期で石川淳氏とともに「小説がわからなくなった」という言葉とともに銓衡委員を辞任した石川達三氏の銓評「目標喪失の文学」と回想録「芥川賞の内外」の一部を紹介したい。



目標喪失の文学


小説が変わって行くという事については、賛成である。変わらなくてはいけないと思う。しかし変わり方に問題がある。現在、たしかに変わって来たと思うが、この変わり方に私は賛成できない。(中略)
 是はどういう事だろうかと隣席の中村光夫に訊いたら、彼は「流行だよ」と言った。大岡君も大体その説のようであった。流行だとすれば、嫌な流行である。舟橋君はノイローゼ小説という言葉を使った。小説がノイローゼによって書かれる傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつけて、もはや私が芥川賞の選に当たるべき時期は過ぎたと思った。(後略)



芥川賞の内外

 
 (前略)この事は逆に、小説というものが色彩にも音響にも立体性にも一切拘束されることなしに、活字を間にして、作者と読者が一対一になれる・・・・・・ということである。映画やテレビはすべてを見なくてはならず、ラジオはすべてを音にしてしまわなくてはならない。文学はそのような拘束を受けていない。作者はその事を最大の強味とし、その事の特色を発揮すべきではないかと私は思う。
 私の一つの理想を言えば、映画や演劇やテレビなどに原作を提供する。そういう(原作的)な小説ではなく、映画でも劇でもテレビでも表現できない、読者が机の前で独りきりで味わい楽しむよりほかないという、そういう意味での純粋な小説が多く書かれることを望んでいる。そういう小説だけが今後は小説としての命脈を残して行けるものであって、それ以外のものはみんな(原作)にされてしまうのではないかと思う。



(参考文献:『芥川賞の研究』(日本ジャーナリスト専門学校部:みき書房)



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Tuesday, August 17, 2010

『働くことと生きること』(水上勉著:東京書籍)

 皆さんは、少年青年期に、どうも社会になじめそうにないのでいっそ出家してお坊さんになろう、あるいは社会で悩みに悩み、その悩みを肉親や弁護士さんでなく、お坊さんに悩みを打ち明けたいと思ったことはないでしょうか。

 私も三十近くに悩みに悩んで、人生の先輩のところにぶらりと足を運び話をしたところ「会社を人生の修業の場と考えてやればいいじゃないか」といさめられたことがあります。


最近の文学者のなかでは、新進作家の京極夏彦氏が仏教に興味を持ちお寺の跡取りに嘱望されたいた、あるいは玄侑宗久氏がお寺の跡取りは嫌だと新興宗教をわたりあるいた等、文学者と日本文化の根底に横たわる仏教のかかわりは切っても切り離せないものがあると思います。


 本書の紹介に戻りますと水上勉氏というと初めに記憶違いがあり、『金閣炎上』という作品を書かれたということで、新聞の文藝欄に書かれた三島由紀夫氏の『金閣寺』の主人公である寺僧が服役後自らの心境を綴った手記と思い違いをしたせいか、「寺で働きながら苦学して大学を出た人」というイメージからか、何か暗く見てはいけない世界をのぞき込むようで、後輩にもすすめられたことがありましたが避けていた作家の一人です。



 本作品は水上氏の自伝的随筆で、葬儀用のお棺を造ることを家業とする実家の話から始まり、「むぎわら膏薬」というわずかな分量のもぐさを叩いて粉にして京都のあらゆる薬局に売り歩く行商の話に続きます。水上氏はその後、立命館大学を出て京都職業安定所に勤め、学校の先生になったりしてどんどん大家になられていくという水上氏にしては珍しく明るい内容です。



 その中に商人の心得として忘れられない言葉が「当世職業談」にあります。その言葉を読んで、何となく仏教もキリスト教も似ているではなないかと想いました。

Tuesday, August 03, 2010

『自然学の展開』(今西錦司著:講談社学術文庫)

 エッセイストのムツゴロウ先生こと畑正憲氏が、1978年に日本の自然開発の在り方に対する不満を「純情日暮れ」という随筆で述べています。また、今西錦司氏の『自然学の展開』は私が唯一専攻以外で深い感銘を受けた本で非常に懐かしく思います。


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 車は右に折れた。折れると同時に草原の名残が消え失せ、白樺の老樹が並ぶ登りであった。すでに羅臼の山麓。
 

なめらかなエンジンの音に、ときどき、タイヤが砂を噛む音が混じる。行き交う車は一切ない。宇登呂から羅臼をめざすこの道は、ちょうど半ばの尾根に達したばかりで、一般の通行を許していないからだ。(中略)
 

しかし私は突然、
「行こう。あそこへ行こう」
叫ぶように言った。


あそこーとは羅臼岳を目指す新道。ブルドーザが頻繁に通っていた頃、何度か行ってみた道。Mよ。
私は言いたかった。何故、あそこに大きな道がつけられねばならないのかと。たまさか人が歩く、けもの道程度のものがあるので何故いけないかと。(中略)


いま、夕日は大地に平行な光を送りつつあった。もし原野に一本だけ木があれば、その影が東へと無限に伸びる刻だ。
道をはさんだ林の底にはすでに夜がある。青さが澱み始めていて、それが、波頭が崩れる感じで道の上に落ち込んでくる。車の中はぼうっと暗い。


だが、左側の白樺の幹はその半分から上の部分が、しゃっきりと白い。いや、白と言ってはいけないのかもしれない。夕日に染まっている。
朱。
けれども朱くはない。朱く染まっているからいっそう、私に白さを感じさせる。そんな大気の澄み方だった。むろん車の窓は開けてあり、そこから知床十一月の寒気がまともに吹き込んでくる。痛いほど、その痛さは、街の空気にはない清潔なものだ。(中略)


「羅臼の新道の、掘削した道の両側に、雑草の根を機械で吹きつけているじゃないか。あれはなんとかならないかな。雑草の種をもちこめば、そこにある草が犯されてゆく」


「林には体温があるというじゃないか。その林のどまん中に道をつくれば、そこから体温が失われてゆく。これをどうすればよいのだろう」


 再び元へは戻るまい。この観光道路の新設が罪悪であることは、誰も否めない。それでいて、反対するには遅すぎる。自然への関心が薄い時代に決定し、観光地として脚光を浴びる夢を託して開かれ始めたのだ。



 この後、京都大学教授であった今西錦司氏が、宮崎大学の上野昭氏の「照葉樹林文化を考える会」の協力依頼に賛同し、自分なりの照葉樹林に関する考え方を綴ったのが本書である。


 その冒頭にある「混合樹林考」は、以下の通りである。


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 照葉樹林というのは西日本一円にひろがった植物社会で、クス、タブ、シイ、それに数種類のカシを含んだ濃密な常緑広葉樹林であり、これが西日本の極相林であるということになる。太古の西日本はどこもかしこの鬱蒼とした照葉樹林におおわれていたと考えられる。


 極相林に対置されるものとして、二次林という言葉がある。言葉の意味は極相林を伐採したあとに生えてくる林だから、二次林といったのであろう。二次林といえども自然にまかせておいたら、時間がかかってもやがてもとの極相林にもどるというのが、単極相論者の主張だから、そう信じていてもやむえない。


 ところが事実はそうでないのである。自然の中には、いつまでたってもいわゆる極相林にならない部分が、かなり大幅に存在する。私は十九三二年にいま住んでいる土地に家を建てた。そこは京都市を貫流している加茂川の氾濫原の一角で、私が家を建てる前は空地であり、カジノキ、エノキ、ムクノキなどという野生の樹木が生えていた。私はその後、家の周辺に、クスノキ、シラカシ、アラガシなどを植えた。これらの樹木の中で、カジノキは寿命がきて枯れたけれども半世紀のあいだに亭々たる大木になった。二次林向きのエノキの稚樹なんて理に合わないことかもしれない。


 今、科学の方でカタスロフ理論というのがありますね。これがまあそういう役を扱うものらしい。なだれのおこるのんが、あれがそうですがなちゅうたら、なだれなら僕も何べんも見ているから「ああそうか」と、それでまあ分かったような気がしたと、返事をしときましたがね。カストロフィ-・セオリーいうものがあります。


 個人的なことをいえば、私は5年前に円山川の氾濫に遭遇した。私のいた社員寮は木造でしたが、安全山という粘土質の塊のおおきな山が東側にそびえ、寮の外には防風林がたくさん立っていたため、偶然助かりました。私は阪神大震災のおりも何もせず、実に気まずい思いをしました。ようやく自分の身に危険がふりかかってきて、その重要性に気付いた次第です。



(引用抜粋:『ムツゴロウの純情詩集』(畑正憲著:中公文庫)



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Saturday, July 17, 2010

『山頭火』(石寒太著:文春文庫)

或る識者の本に、

「これはあくまで平均の話であるが、大学卒業年代でいうと昭和43、44年頃を境にして、学生の体質に目立った変化があったように思う。理工系の学生でいうと、この時期以降は問題の処理能力が平均的に向上し、知的好奇心は反対に低下した」

とあり、その要因として「感性」の問題があり、

「研究室で若い人達をみていると、科学者の最も重要な資質は、自然の不思議さ、美しさ、それをみつけた喜び、そういうものに戦慄する能力なのではないかと思われてくる。この知的感受性とでもいうべきものを多量に持っている人が結局はよい仕事をするからである。

問題はこの要素だけは教師が学生に与えてやれないという事実である」

その「話してもわからない部分」として次のような俳句を挙げている。


  とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら


この俳句は作者の加賀の千代女の「幼い子供に先立たれた慟哭の句である」がこの句を実感として受け取ることのできる若い母親は今いるだろうか、と疑問を投げかけている。


われわれの世代が、漂泊流転のジプシーのような旅にあこがれるのは、「低エントロピー生活」、秩序や年長者が造り出した生活環境が盤石たる礎(いしずえ)の歯車でしかあり得ない「高エントロピー生活者」が予定調和の世界に対する反感と破壊衝動を抱く。それとともに、昔の人は「ネゲエントロピー生活」にしたいという欲望を抱く。すると昔の人に比べて本質的に自然に対する理解と適応能力が欠如していることに気が付いた、われわれは脱走し結局「低エントロピー生活者」となって帰還する。山頭火は地方の有力な政治家のタニマチの長男として生まれ「家」は生涯の重荷となり、また父譲りの溢れんばかりの情念が災いし破滅に向ってゆく破滅的な性格の遺伝子を自ら律しきれずに出奔したと考えられます。



ゆえに、山頭火のように睡眠薬を大量に飲んで昏睡状態に陥ったあと蘇生したり、虚名を売り物にして俳句の宗匠として地方を放浪したり、絶食状態で倒れていて犬から餅をもらうといった僥倖にめぐりあったりする、森羅万象や自然の神秘と合一するよろこびを体験したいのではないか。山頭火の一生は、何かのひょうしに自戒の念にかられ、自戒の言葉を吐き、酒を飲み騒ぎを起こし、再び反省して孤独な旅に出て、人里恋しくなり庵を結び、これではイカンと再び旅に出る。そんな一生だったといいます。私は三十半ばにしてようやくこの俳句を噛みしめるように読めるようになりました。




(引用抜粋:『柘植の「反秀才論』を読み説く(上巻)』(井口和基著:太陽書房)

Sunday, May 16, 2010

『物語の森へ』(五木寛之著:東京書籍)

 トルストイに「幸福な家はみな一様に似通ったものだが、不幸な家はいずれもとりどりに不幸なのである」という言葉があるそうです。



 安岡章太郎氏はこの言葉を受けて「つまり、幸福という“みな一様に似通ったもの”を僕らは共有することは出来ず、家によって個人によって“いずれもとりどり”であるところの不幸によって、僕らは共通の体験―歴史というもの―に、参画することになるわけであるわけだ。ここに個人史による現代史というもののムツかしさがある」と述べています。



 作家と読者の関係もこれと似たところがあるのではないでしょうか。私と五木寛之氏との出会いは、1996年(平成八年)「文藝春秋」で石原慎太郎氏との「自力と他力か」という対談を読んでから始まります。それまで、私は五木寛之氏というと『青春の門』からくる印象がが強く「軟弱にして意志薄弱な党派」である私が入り込む余地のない作家だと思っていたからです。



 この作品集は五木氏が作家になるまでの紆余曲折がしのばれる短篇が集まっています。学費未納で六十まで「中退」ではなく「除籍」処分となっていた早稲田大学での日々を綴った「黄金時代」。都会での仕事がうまくいかず齢三十三にして早稲田の同級生の妻と(奥さんはその後、東邦医大に編入し医者をしていた)故郷金沢に隠遁した時の「小立野刑務所裏」、金沢の名士の義父の了解を得て自費でお金を工面しようやく渡航できたロシア、東欧旅行の体験を小説化した「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」等が掲載されています。



 私は五木寛之氏の小説のよさは物語の構成ではなく、言葉や情景から描写から醸し出される「青年期に喪失した筈の幼年期の純粋さが、作品中にふっとあらわれる」ところ、あるいは「人生のどん底で噛みしめる密やかな愛」であると思います。時代々々の空気をよみいち早く作品化してしまう衰えない感性に頭がさがります。




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Wednesday, April 28, 2010

『佃島ふたり書房』(出久根達郎著:講談社文庫)

 第108回、1992年上半期(平成4年)直木賞受賞作。


 直木賞は菊池寛氏によって昭和十年制定され、大正十二年に創刊された雑誌「文藝春秋」に亡くなる昭和九年まで同誌に精力的に執筆された直木三十五氏をしのんで、大衆作家の登竜門として年二回もうけられました。


私は文学とは、純文学が「その時代の人々の息吹や情操を適切にとらえたもの」ならば、大衆文学は「近代化にともない滅びゆく風情や人情をとらえて写実した」ものにも与えられてしかるものではないかと思っています。


出久根氏は既に「文藝春秋」のコラム欄の常連ということで「知ってる人は知ってるよ」という反応がかえってきそうなのでご紹介しなかったのですが、この作品は東京築地の魚市場を描いた森田誠吾氏の「魚河岸ものがたり」や、大阪九条の商店街を描いた宮本輝氏の「夢見通りの人々」を彷彿とさせる「庶民派の下町文学」としてながく私のこころに残りそうなので紹介させていただきます。


ところは東京佃島。豊臣方の侍ながら徳川家康につき従い、その功により埋め立てた島と自由な漁業権を獲得した三百年の歴史をもつ漁師町。佃新橋開橋と市町村合併をひきかえに消えゆく佃島の古本屋を継ぐ決意をした高校をでたばかりの少女澄子。古本屋の仲介業をいとなむ梶田郡司が駿河台の古書会館でのセリ市につれて行きながら四十五年にわたる古本屋人生を回想します。


生年月日が同じ六司とともに「ふたり書房」を営むうちに、書店の小僧たちがだれにも相手にしようともしない鼻梁が溶けた遊女で社会主義の本の編集責任者である女にひかれた郡司。損得ぬきで「大逆事件」であげられる女の心意気にひかれ社会主義の本を買い漁る郡司。やがて郡司は六司に店をまかせ満州に。明治末期から昭和三十六年まで、ふるきよき下町の風情をしのぶことのできる傑作。



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Friday, March 12, 2010

『狂人日記』(色川武大著:講談社文芸文庫)

 <スケジユール、6:30起床、7:15~50朝食、服薬、9:30まで自由時間、12:00~50昼食、服薬、3:00まで昼休み、レクリエーション、4:45~5:50夕食、服薬、6:10まで自由時間、9:30消灯、就寝(一般)、10:30まで勉強(特殊)消灯、全員就寝。>


 飾職人、薬品会社社員、国鉄臨時職員、警備員として世にでるも社会とうまくゆかず療養所に入る五十路の男。


 前ぶれもなく和太鼓のような音とともに烈しい発作や痙攣が起こり、さまざまな幻視、幻覚や幻聴を聴いて無意識のうちに大声で吼えてしまう癲癇とおもわれる病気を持つ主人公。同室の唇を絶えず小さく動かしぶつぶつ呟く男(さざえ)、「廻り灯籠の一部の絵が破損しているかのように周期的に訪れる狂気」とたたかいながら、療養者にいて健常者として働きたがつている寺西圭子と同時に退院しあたらしい生活を始める。



 発作ととともに自分の幼少期の鮮やかな記憶がよみがえる。破産とともに「バイバイー!」と私たち兄弟を捨てた母。生家の前の道路を自分の世界と思っていた犬のボビー。学童疎開で行つた山梨での梅干を食べて蕁麻疹ができた記憶。紙で力士をつくり独りで相撲の星取表をとつて興じていた頃。全額貯金して飾職人仲間でケチと呼ばれていたとき。弟との国鉄政治デモ。「僕のはじめての家族―!」園子との結婚生活。


 神経細胞の襞(ひだ)の生物的なうねりが、社会から遠ざけられてなにもできない男のことばにできない悲哀と哀愁の情感が、あたらしい生活を始める准健常者とりとめのない対話として圭子や弟の正吾に向かって投げかけられています。「病院の方が、休めるね。それだけさ」「休める方がいいんだろう。兄貴の場合」これらの対話は、時代のエア・ポケツトに入つて昏迷するわれわれに、安らぎやわずらわしい肉親の温かさを再確認させてくれるのではないでしようか。



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Wednesday, February 10, 2010

『裸の王様』(開高健著:文藝春秋社)

 或る心理学者の本を読んでいて、戦後の高度成長期を支えてきた人たちは「失われたものを取り戻す」という執着のつよいパラノイア的人間は、鬱病前性格者ともいえる人が多いという、というくだりがありました。


また、この種の人間は、仕事にエネルギーを投入し現実から逃避する傾向があり、カレン・ホルナイという精神分析医が「驚異的な働き手」という名称を付けたくらい、仕事ばかりしていて性的に不能であるとか仕事依存症で私生活が破壊されいても平気な人々が多いという。彼らが何故、私生活やこころの豊かさを代償にしてまで、仕事にアイデンティティーを求めるかといえば、高度成長期時代の「仕事イコール社会的豊かさへの貢献」というイメージが未だ残存していたからだといいます。そしてこの心理学者は「今の日本人の価値基準を変えない限りこころの豊かさをともなう生活はできない」と結論づけます。


 表題の『裸の王様』は、1958年(昭和三十三年)に発表された作品で、大量生産時代に適合する均質な人間の確保を主眼とする抜け目のない経済社会の風潮に浸食されて空しく消えてゆく人間的な美徳の消滅を自嘲する作品です。


 登場人物は個人で児童画塾を開く主人公、小学校の教師で画家の山口、絵具会社社長の大田、後妻の大田夫人、先妻の子太郎である。話は画を描かせることによって、子供の抑圧されたこころの開放と画の背後にある子供の個性を導きだそうとする塾を経営する主人公のもとに、実母が死んだ後こころを開こうとしない太郎が預けられることから始まります。


 主人公は個人的にデンマークのコペンハーゲンにあるアンデルセン振興会の事務局と手紙のやりとりを通じて信任を得、アンデルセン童話という共通のテーマで子供に空想画を描かせて交換し、風土や慣習の相違がもたらす認識の違いを比較検討する約束をとりつけます。しかしながら、この話の進捗具合を知っていたかのように大田が経営する絵具会社の横槍が入り、この個人的な慈善活動だった筈のアンデルセン振興会との画の交換の約束は、全国的な美術家や教育評論家を巻き込んだ公募の児童画コンクールとなってしまいます。太郎もじょじょに絵画塾の仲間と遊んだり絵を描きだすようになって他人にこころを開きだします。そして「裸の王様」の物語から太郎が想起した画を鑑た主人公は、主人公密かに怖れていたある事態が進行していることを太郎までも知っていることに気が付きます。


コンクールの会場には主人公が嫌悪していた、教師が気に入るように描かれた、出来合いの絵本をそのまま描いた画が山積みされてしまいます。現代の物質主義の前に敗れ去った主人公は、コンクールを発案した見返りに、如才なく実社会と理想のあいだを立ちまわって生きていた友人の山口の実社会への入口までも遮断してしまいます。



(参照:『日本型うつ病社会』(加藤諦三著:PHP文庫)


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Saturday, January 09, 2010

『風媒花』(武田泰淳著:新潮文庫)

 或る識者の随筆に「現代の勇気」と題されたものがあり、ある兵士が憶病であったがため一言も上官の命に反抗せず、好まない仕事も憶病のためとうてい否とはいえず引き受けてしまい、その職責を全うして勇敢なる兵士として死んでいった。彼の勇気は憶病の別名であった、というくだりがありました。


 さらにこの識者は、「戦後の日本を支配した価値体系は、平和、寛容、協調、社会性であり、勇気は、ほとんど徳の中の主要な徳にはいることができなくなってしまいました。」と述べています。たしかに、私が会社に入ってから身に付けたのは「社内での議論はイケナイ」、「議論を白熱させて喧嘩をおこすような人材は論外である」、「上司の命令に少しでも批判めいた言葉をはさむと、そんなことは言わないでくれといわれる」等、理性とはいいませんが自分なりの価値観をさしはさむと、社内で生きにくくなる、という体験にもとづく処世術でした。


 この武田泰淳氏の『風媒花』は、戦後日本 - 戦後処理が未決の占領下、日本の国体さだまらぬなか、社会主義のソヴィエト連邦、共産主義の中華人民共和国、自由民主主義のアメリカ、戦前の国体を維持しようとする少数の日本人が、4つの異なるイデオロギーの脅威のもと、どの理念が覇権をにぎり、戦後日本の国是となるかという不安定な政情のなか、生死をかけてうごめく群像の姿を当時の風俗を交えながら描いた作品です。



 日中戦争に従軍し日本に帰国した峯三郎。官憲の眼をくぐり「中国研究会」に所属し大衆小説を書き妻の蜜枝を養う。そこに妻の弟でロシアの覇権を信じる守、峯の元情婦桃江、富豪で中国人の母を持つ蜜枝の元夫三田村が、この研究会を自らのイデオローグのおき場所として生活しています。中心は帝大に籍をおいていた支那研究の老大家鎌原智雄、父の名声に押されて政治活動にかりだされようとする文雄。陸軍刑務所で兵士生活の大半を過ごしアジテーションが得意な評論家軍地。新聞社の西と高校教師の原、大学講師の梅村、失業者の中井、会社員の黒田などが雑居します。



 話は老大家鎌原智雄の死とその長男文雄の墜落死から急展開します。老大家鎌原や峯の知らないうちに会員の誰かが秘密裏にどんどん膨らませていった新中国反対に対する攻撃的な「中国研究会」の示威活動。その一環とも思えるPD工場における青酸カリ混入未遂事件。軍地が画策する台湾上陸作戦。日本の中ロアの占領下にあった日本において生きる峯とその妻たちは一市民として如何に行動しこの事態をくぐりぬけてゆくか。



 それぞれの人々がさまざまな予兆に基づいて独善的でとんでもない行動をするのだけれども、最後にはその脈絡のないめいめいの行動が、ある一人の人物の良心によって収束して未然に事件が処理される。おおきな騒動と紙一重のところで生きている会員相互のこころがどこかでつながっていた、というような感動を最後に呼び起こしてくれるような作品です。




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