文芸評論家の小谷野敦氏によれば、文壇において十年ごとに登場する新しい流派に対する命名は微かに命脈を保っており、昭和五十年代に台頭した中上健次、村上龍、三田誠広は「内向の世代」(古井由吉、黒井千次、高井有一、小川国夫、阿部昭、後藤明生、大庭みな子、富岡多恵子など。いわば政治に関心を持たず自己の内部に向かっている文学)につづく「青の世代」と呼ばれていたらしい。(*1)
この「内向の世代」は古井由吉に代表される(石川達三は古井の作品「杳子」を読んで「目標喪失の文学」を書き銓衡委員を退いた)「物語の解体」と呼ばれる手法で自己の世界を描いている。
「物語の解体」とは小説の物語性を拒否し、近代の世界を一つの仕組みとしてながめる発想を避け、主人公の身体の生理と一つになった言葉で目にみえるもの、聞こえるものをなぞってゆき、同時代を生きる小説家の身体や生活の実感、社会の空気を表現する手法で作品を描いてゆく手法である。(*2)
私が久々に中上氏の作品を手に取ったのは、肉体的な躍動感や雄々しさ、生きるうえで必要な野性味を求めていたからに他ならない。中上氏の言葉を借りれば「切って血の出る物語」、何か現実味の感じられない世界と対極にある極限状態においつめられた人間の生命の呼吸のようなものを味わいたかったからかもしれない。
「暗闇の中での跳躍」。一つ一つの作品に中上氏の移動、ジグザグ試行、揺れ、跳躍があり、その世界が予定調和的でない世界(*3)。泉鏡花を思わせる文体に自らの雄々しい文体を駆使して自己の世界を描く、近年の作家にはみられない肉体をかけた文学、作風は粗いのですが、生理的な欲求から読まされてしまいます。また、幽玄といって良いのでしょうか、死の淵に立つからこそ新鮮に映えてみえる自然の美しさの描写に驚きを覚えます。
(参考文献:(*1)『現代文学論争』(小谷野敦著:筑摩書房)、(*2)『日本文化の源流を求めて2』から「小説の困難と可能性」高村薫、(立命館大学文学部著:文理閣)、(*3)『坂口安吾と中上健次』(柄谷行人著:講談社文芸文庫)
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