当ブログは我慢強い方のお陰と、冷やかしも交ったアクセスで、かろうじておおよそのべ40名の日々のアクセス、閲覧数70前後を保っております。
今回は私が読んでみたいと思っていた柴田翔氏の『されど われらが日々―』を紹介したいと思います。そして『芥川・直木賞受賞者総覧』(教育社)の内容と当時の学生気質について私が感じたところを述べてみたいと思います。
当作品は同人誌「象」に掲載された同氏の作品「ロクタル菅の話」で芥川賞候補になった後に書かれた作品で、工学部の応用化学科から独文科助手となった最後の年に書かれたもので柴田氏のいわば青春の墓名碑的作品として書かれた作品です。
ところがこの作品の文体は非常に平明で読みやすく、思想に殉じて死んでいった親友や付きあっていた女友達の死に対する苦悩や同情の念はあまりなく、むしろ冷めた様子で青春の日々を淡々と綴っておられます。
銓衡委員のなかには「以前の作品の方がよかったのではないか」という声も多かったと聞きますが、「書物はその書物が書かれた時の時代状況を考えながら読まなければならない」という格言にしたがえば、ストイックに生きている主人公に対してさらにストイックな人間があらわれて、自らの高校時代から関与してきた活動の些細な過失にここを痛め、あるいは自らの結婚観について「恋愛は、それがどんなに周囲に祝福されているようにみえても、本質的に反秩序的なものです」という厳しい人生観を持っている人がいる。
そんな似た者同志のなかでの何となく予定調和の人生というもの―大学時代に全ての人生設計を終えていなければならないことに対する漠然とした億劫さが、この文章の欠伸(あくび)でるような退屈さ、人間を踏みしめて歩んでゆく時代風潮に対する冷ややかな怒りにつながっているのではないかと思います。この作品の受賞時期は1964年上半期で、全共闘が本格的に始まる4年前に書かれています。
柴田氏はこの後エッセイや武田泰淳、小川国夫、野間宏、加藤周一、大江健三郎との対談。小田実、開高健、高橋和巳、真継伸彦との同人誌を残されております。
(引用:『芥川・直木賞受賞者総覧』(教育社)
(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
Wednesday, October 13, 2010
Wednesday, September 22, 2010
『回想の芥川・直木賞』(永井龍男著:文藝春秋社)
この本にふれる前に、私なりの回想の芥川・直木賞をさせていただければ、当時は遠藤周作、北杜夫、吉行淳之介、近藤啓太郎、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三などの<第三の新人>と呼ばれる作家の円熟期にあたり、遠藤氏や北氏、安岡氏の晩年期にどんな渾身の作品が出版されるのかを楽しみにしていた時代で、当時の芥川・直木賞受賞者は寡作の人が多く今よりも注目度は高かったものの、新進作家の作品はあまり読まなかったような気がする。
その後、文学と無縁の時代が長く続き、たまたま買い込んだ「芥川賞全集―十九巻―」の町田康氏の「きれぎれの」銓評を深夜に読んだ時に「文学いまだに死なず」といった観を強め、「せめて今の流行や世の中の空気を知るために読んでおこう」と僅かばかりの元手で本を買いいれだしたのが当該賞に入れ込みだした始まりである。
私は作品もさることながら、当該作品が選ばれた時代背景や銓衡委員の銓評の辞を読むのが楽しみでならない。今回は1971年(昭和46年)上半期で石川淳氏とともに「小説がわからなくなった」という言葉とともに銓衡委員を辞任した石川達三氏の銓評「目標喪失の文学」と回想録「芥川賞の内外」の一部を紹介したい。
目標喪失の文学
小説が変わって行くという事については、賛成である。変わらなくてはいけないと思う。しかし変わり方に問題がある。現在、たしかに変わって来たと思うが、この変わり方に私は賛成できない。(中略)
是はどういう事だろうかと隣席の中村光夫に訊いたら、彼は「流行だよ」と言った。大岡君も大体その説のようであった。流行だとすれば、嫌な流行である。舟橋君はノイローゼ小説という言葉を使った。小説がノイローゼによって書かれる傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつけて、もはや私が芥川賞の選に当たるべき時期は過ぎたと思った。(後略)
芥川賞の内外
(前略)この事は逆に、小説というものが色彩にも音響にも立体性にも一切拘束されることなしに、活字を間にして、作者と読者が一対一になれる・・・・・・ということである。映画やテレビはすべてを見なくてはならず、ラジオはすべてを音にしてしまわなくてはならない。文学はそのような拘束を受けていない。作者はその事を最大の強味とし、その事の特色を発揮すべきではないかと私は思う。
私の一つの理想を言えば、映画や演劇やテレビなどに原作を提供する。そういう(原作的)な小説ではなく、映画でも劇でもテレビでも表現できない、読者が机の前で独りきりで味わい楽しむよりほかないという、そういう意味での純粋な小説が多く書かれることを望んでいる。そういう小説だけが今後は小説としての命脈を残して行けるものであって、それ以外のものはみんな(原作)にされてしまうのではないかと思う。
(参考文献:『芥川賞の研究』(日本ジャーナリスト専門学校部:みき書房)
(免責事項)
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その後、文学と無縁の時代が長く続き、たまたま買い込んだ「芥川賞全集―十九巻―」の町田康氏の「きれぎれの」銓評を深夜に読んだ時に「文学いまだに死なず」といった観を強め、「せめて今の流行や世の中の空気を知るために読んでおこう」と僅かばかりの元手で本を買いいれだしたのが当該賞に入れ込みだした始まりである。
私は作品もさることながら、当該作品が選ばれた時代背景や銓衡委員の銓評の辞を読むのが楽しみでならない。今回は1971年(昭和46年)上半期で石川淳氏とともに「小説がわからなくなった」という言葉とともに銓衡委員を辞任した石川達三氏の銓評「目標喪失の文学」と回想録「芥川賞の内外」の一部を紹介したい。
目標喪失の文学
小説が変わって行くという事については、賛成である。変わらなくてはいけないと思う。しかし変わり方に問題がある。現在、たしかに変わって来たと思うが、この変わり方に私は賛成できない。(中略)
是はどういう事だろうかと隣席の中村光夫に訊いたら、彼は「流行だよ」と言った。大岡君も大体その説のようであった。流行だとすれば、嫌な流行である。舟橋君はノイローゼ小説という言葉を使った。小説がノイローゼによって書かれる傾向、そういう作品が読者から歓迎されるらしい傾向を見聞するにつけて、もはや私が芥川賞の選に当たるべき時期は過ぎたと思った。(後略)
芥川賞の内外
(前略)この事は逆に、小説というものが色彩にも音響にも立体性にも一切拘束されることなしに、活字を間にして、作者と読者が一対一になれる・・・・・・ということである。映画やテレビはすべてを見なくてはならず、ラジオはすべてを音にしてしまわなくてはならない。文学はそのような拘束を受けていない。作者はその事を最大の強味とし、その事の特色を発揮すべきではないかと私は思う。
私の一つの理想を言えば、映画や演劇やテレビなどに原作を提供する。そういう(原作的)な小説ではなく、映画でも劇でもテレビでも表現できない、読者が机の前で独りきりで味わい楽しむよりほかないという、そういう意味での純粋な小説が多く書かれることを望んでいる。そういう小説だけが今後は小説としての命脈を残して行けるものであって、それ以外のものはみんな(原作)にされてしまうのではないかと思う。
(参考文献:『芥川賞の研究』(日本ジャーナリスト専門学校部:みき書房)
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Tuesday, August 17, 2010
『働くことと生きること』(水上勉著:東京書籍)
皆さんは、少年青年期に、どうも社会になじめそうにないのでいっそ出家してお坊さんになろう、あるいは社会で悩みに悩み、その悩みを肉親や弁護士さんでなく、お坊さんに悩みを打ち明けたいと思ったことはないでしょうか。
私も三十近くに悩みに悩んで、人生の先輩のところにぶらりと足を運び話をしたところ「会社を人生の修業の場と考えてやればいいじゃないか」といさめられたことがあります。
最近の文学者のなかでは、新進作家の京極夏彦氏が仏教に興味を持ちお寺の跡取りに嘱望されたいた、あるいは玄侑宗久氏がお寺の跡取りは嫌だと新興宗教をわたりあるいた等、文学者と日本文化の根底に横たわる仏教のかかわりは切っても切り離せないものがあると思います。
本書の紹介に戻りますと水上勉氏というと初めに記憶違いがあり、『金閣炎上』という作品を書かれたということで、新聞の文藝欄に書かれた三島由紀夫氏の『金閣寺』の主人公である寺僧が服役後自らの心境を綴った手記と思い違いをしたせいか、「寺で働きながら苦学して大学を出た人」というイメージからか、何か暗く見てはいけない世界をのぞき込むようで、後輩にもすすめられたことがありましたが避けていた作家の一人です。
本作品は水上氏の自伝的随筆で、葬儀用のお棺を造ることを家業とする実家の話から始まり、「むぎわら膏薬」というわずかな分量のもぐさを叩いて粉にして京都のあらゆる薬局に売り歩く行商の話に続きます。水上氏はその後、立命館大学を出て京都職業安定所に勤め、学校の先生になったりしてどんどん大家になられていくという水上氏にしては珍しく明るい内容です。
その中に商人の心得として忘れられない言葉が「当世職業談」にあります。その言葉を読んで、何となく仏教もキリスト教も似ているではなないかと想いました。
私も三十近くに悩みに悩んで、人生の先輩のところにぶらりと足を運び話をしたところ「会社を人生の修業の場と考えてやればいいじゃないか」といさめられたことがあります。
最近の文学者のなかでは、新進作家の京極夏彦氏が仏教に興味を持ちお寺の跡取りに嘱望されたいた、あるいは玄侑宗久氏がお寺の跡取りは嫌だと新興宗教をわたりあるいた等、文学者と日本文化の根底に横たわる仏教のかかわりは切っても切り離せないものがあると思います。
本書の紹介に戻りますと水上勉氏というと初めに記憶違いがあり、『金閣炎上』という作品を書かれたということで、新聞の文藝欄に書かれた三島由紀夫氏の『金閣寺』の主人公である寺僧が服役後自らの心境を綴った手記と思い違いをしたせいか、「寺で働きながら苦学して大学を出た人」というイメージからか、何か暗く見てはいけない世界をのぞき込むようで、後輩にもすすめられたことがありましたが避けていた作家の一人です。
本作品は水上氏の自伝的随筆で、葬儀用のお棺を造ることを家業とする実家の話から始まり、「むぎわら膏薬」というわずかな分量のもぐさを叩いて粉にして京都のあらゆる薬局に売り歩く行商の話に続きます。水上氏はその後、立命館大学を出て京都職業安定所に勤め、学校の先生になったりしてどんどん大家になられていくという水上氏にしては珍しく明るい内容です。
その中に商人の心得として忘れられない言葉が「当世職業談」にあります。その言葉を読んで、何となく仏教もキリスト教も似ているではなないかと想いました。
Tuesday, August 03, 2010
『自然学の展開』(今西錦司著:講談社学術文庫)
エッセイストのムツゴロウ先生こと畑正憲氏が、1978年に日本の自然開発の在り方に対する不満を「純情日暮れ」という随筆で述べています。また、今西錦司氏の『自然学の展開』は私が唯一専攻以外で深い感銘を受けた本で非常に懐かしく思います。
====================================================================
車は右に折れた。折れると同時に草原の名残が消え失せ、白樺の老樹が並ぶ登りであった。すでに羅臼の山麓。
なめらかなエンジンの音に、ときどき、タイヤが砂を噛む音が混じる。行き交う車は一切ない。宇登呂から羅臼をめざすこの道は、ちょうど半ばの尾根に達したばかりで、一般の通行を許していないからだ。(中略)
しかし私は突然、
「行こう。あそこへ行こう」
叫ぶように言った。
あそこーとは羅臼岳を目指す新道。ブルドーザが頻繁に通っていた頃、何度か行ってみた道。Mよ。
私は言いたかった。何故、あそこに大きな道がつけられねばならないのかと。たまさか人が歩く、けもの道程度のものがあるので何故いけないかと。(中略)
いま、夕日は大地に平行な光を送りつつあった。もし原野に一本だけ木があれば、その影が東へと無限に伸びる刻だ。
道をはさんだ林の底にはすでに夜がある。青さが澱み始めていて、それが、波頭が崩れる感じで道の上に落ち込んでくる。車の中はぼうっと暗い。
だが、左側の白樺の幹はその半分から上の部分が、しゃっきりと白い。いや、白と言ってはいけないのかもしれない。夕日に染まっている。
朱。
けれども朱くはない。朱く染まっているからいっそう、私に白さを感じさせる。そんな大気の澄み方だった。むろん車の窓は開けてあり、そこから知床十一月の寒気がまともに吹き込んでくる。痛いほど、その痛さは、街の空気にはない清潔なものだ。(中略)
「羅臼の新道の、掘削した道の両側に、雑草の根を機械で吹きつけているじゃないか。あれはなんとかならないかな。雑草の種をもちこめば、そこにある草が犯されてゆく」
「林には体温があるというじゃないか。その林のどまん中に道をつくれば、そこから体温が失われてゆく。これをどうすればよいのだろう」
再び元へは戻るまい。この観光道路の新設が罪悪であることは、誰も否めない。それでいて、反対するには遅すぎる。自然への関心が薄い時代に決定し、観光地として脚光を浴びる夢を託して開かれ始めたのだ。
この後、京都大学教授であった今西錦司氏が、宮崎大学の上野昭氏の「照葉樹林文化を考える会」の協力依頼に賛同し、自分なりの照葉樹林に関する考え方を綴ったのが本書である。
その冒頭にある「混合樹林考」は、以下の通りである。
====================================================================
照葉樹林というのは西日本一円にひろがった植物社会で、クス、タブ、シイ、それに数種類のカシを含んだ濃密な常緑広葉樹林であり、これが西日本の極相林であるということになる。太古の西日本はどこもかしこの鬱蒼とした照葉樹林におおわれていたと考えられる。
極相林に対置されるものとして、二次林という言葉がある。言葉の意味は極相林を伐採したあとに生えてくる林だから、二次林といったのであろう。二次林といえども自然にまかせておいたら、時間がかかってもやがてもとの極相林にもどるというのが、単極相論者の主張だから、そう信じていてもやむえない。
ところが事実はそうでないのである。自然の中には、いつまでたってもいわゆる極相林にならない部分が、かなり大幅に存在する。私は十九三二年にいま住んでいる土地に家を建てた。そこは京都市を貫流している加茂川の氾濫原の一角で、私が家を建てる前は空地であり、カジノキ、エノキ、ムクノキなどという野生の樹木が生えていた。私はその後、家の周辺に、クスノキ、シラカシ、アラガシなどを植えた。これらの樹木の中で、カジノキは寿命がきて枯れたけれども半世紀のあいだに亭々たる大木になった。二次林向きのエノキの稚樹なんて理に合わないことかもしれない。
今、科学の方でカタスロフ理論というのがありますね。これがまあそういう役を扱うものらしい。なだれのおこるのんが、あれがそうですがなちゅうたら、なだれなら僕も何べんも見ているから「ああそうか」と、それでまあ分かったような気がしたと、返事をしときましたがね。カストロフィ-・セオリーいうものがあります。
個人的なことをいえば、私は5年前に円山川の氾濫に遭遇した。私のいた社員寮は木造でしたが、安全山という粘土質の塊のおおきな山が東側にそびえ、寮の外には防風林がたくさん立っていたため、偶然助かりました。私は阪神大震災のおりも何もせず、実に気まずい思いをしました。ようやく自分の身に危険がふりかかってきて、その重要性に気付いた次第です。
(引用抜粋:『ムツゴロウの純情詩集』(畑正憲著:中公文庫)
(免責事項)
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車は右に折れた。折れると同時に草原の名残が消え失せ、白樺の老樹が並ぶ登りであった。すでに羅臼の山麓。
なめらかなエンジンの音に、ときどき、タイヤが砂を噛む音が混じる。行き交う車は一切ない。宇登呂から羅臼をめざすこの道は、ちょうど半ばの尾根に達したばかりで、一般の通行を許していないからだ。(中略)
しかし私は突然、
「行こう。あそこへ行こう」
叫ぶように言った。
あそこーとは羅臼岳を目指す新道。ブルドーザが頻繁に通っていた頃、何度か行ってみた道。Mよ。
私は言いたかった。何故、あそこに大きな道がつけられねばならないのかと。たまさか人が歩く、けもの道程度のものがあるので何故いけないかと。(中略)
いま、夕日は大地に平行な光を送りつつあった。もし原野に一本だけ木があれば、その影が東へと無限に伸びる刻だ。
道をはさんだ林の底にはすでに夜がある。青さが澱み始めていて、それが、波頭が崩れる感じで道の上に落ち込んでくる。車の中はぼうっと暗い。
だが、左側の白樺の幹はその半分から上の部分が、しゃっきりと白い。いや、白と言ってはいけないのかもしれない。夕日に染まっている。
朱。
けれども朱くはない。朱く染まっているからいっそう、私に白さを感じさせる。そんな大気の澄み方だった。むろん車の窓は開けてあり、そこから知床十一月の寒気がまともに吹き込んでくる。痛いほど、その痛さは、街の空気にはない清潔なものだ。(中略)
「羅臼の新道の、掘削した道の両側に、雑草の根を機械で吹きつけているじゃないか。あれはなんとかならないかな。雑草の種をもちこめば、そこにある草が犯されてゆく」
「林には体温があるというじゃないか。その林のどまん中に道をつくれば、そこから体温が失われてゆく。これをどうすればよいのだろう」
再び元へは戻るまい。この観光道路の新設が罪悪であることは、誰も否めない。それでいて、反対するには遅すぎる。自然への関心が薄い時代に決定し、観光地として脚光を浴びる夢を託して開かれ始めたのだ。
この後、京都大学教授であった今西錦司氏が、宮崎大学の上野昭氏の「照葉樹林文化を考える会」の協力依頼に賛同し、自分なりの照葉樹林に関する考え方を綴ったのが本書である。
その冒頭にある「混合樹林考」は、以下の通りである。
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照葉樹林というのは西日本一円にひろがった植物社会で、クス、タブ、シイ、それに数種類のカシを含んだ濃密な常緑広葉樹林であり、これが西日本の極相林であるということになる。太古の西日本はどこもかしこの鬱蒼とした照葉樹林におおわれていたと考えられる。
極相林に対置されるものとして、二次林という言葉がある。言葉の意味は極相林を伐採したあとに生えてくる林だから、二次林といったのであろう。二次林といえども自然にまかせておいたら、時間がかかってもやがてもとの極相林にもどるというのが、単極相論者の主張だから、そう信じていてもやむえない。
ところが事実はそうでないのである。自然の中には、いつまでたってもいわゆる極相林にならない部分が、かなり大幅に存在する。私は十九三二年にいま住んでいる土地に家を建てた。そこは京都市を貫流している加茂川の氾濫原の一角で、私が家を建てる前は空地であり、カジノキ、エノキ、ムクノキなどという野生の樹木が生えていた。私はその後、家の周辺に、クスノキ、シラカシ、アラガシなどを植えた。これらの樹木の中で、カジノキは寿命がきて枯れたけれども半世紀のあいだに亭々たる大木になった。二次林向きのエノキの稚樹なんて理に合わないことかもしれない。
今、科学の方でカタスロフ理論というのがありますね。これがまあそういう役を扱うものらしい。なだれのおこるのんが、あれがそうですがなちゅうたら、なだれなら僕も何べんも見ているから「ああそうか」と、それでまあ分かったような気がしたと、返事をしときましたがね。カストロフィ-・セオリーいうものがあります。
個人的なことをいえば、私は5年前に円山川の氾濫に遭遇した。私のいた社員寮は木造でしたが、安全山という粘土質の塊のおおきな山が東側にそびえ、寮の外には防風林がたくさん立っていたため、偶然助かりました。私は阪神大震災のおりも何もせず、実に気まずい思いをしました。ようやく自分の身に危険がふりかかってきて、その重要性に気付いた次第です。
(引用抜粋:『ムツゴロウの純情詩集』(畑正憲著:中公文庫)
(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
Saturday, July 17, 2010
『山頭火』(石寒太著:文春文庫)
或る識者の本に、
「これはあくまで平均の話であるが、大学卒業年代でいうと昭和43、44年頃を境にして、学生の体質に目立った変化があったように思う。理工系の学生でいうと、この時期以降は問題の処理能力が平均的に向上し、知的好奇心は反対に低下した」
とあり、その要因として「感性」の問題があり、
「研究室で若い人達をみていると、科学者の最も重要な資質は、自然の不思議さ、美しさ、それをみつけた喜び、そういうものに戦慄する能力なのではないかと思われてくる。この知的感受性とでもいうべきものを多量に持っている人が結局はよい仕事をするからである。
問題はこの要素だけは教師が学生に与えてやれないという事実である」
その「話してもわからない部分」として次のような俳句を挙げている。
とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら
この俳句は作者の加賀の千代女の「幼い子供に先立たれた慟哭の句である」がこの句を実感として受け取ることのできる若い母親は今いるだろうか、と疑問を投げかけている。
われわれの世代が、漂泊流転のジプシーのような旅にあこがれるのは、「低エントロピー生活」、秩序や年長者が造り出した生活環境が盤石たる礎(いしずえ)の歯車でしかあり得ない「高エントロピー生活者」が予定調和の世界に対する反感と破壊衝動を抱く。それとともに、昔の人は「ネゲエントロピー生活」にしたいという欲望を抱く。すると昔の人に比べて本質的に自然に対する理解と適応能力が欠如していることに気が付いた、われわれは脱走し結局「低エントロピー生活者」となって帰還する。山頭火は地方の有力な政治家のタニマチの長男として生まれ「家」は生涯の重荷となり、また父譲りの溢れんばかりの情念が災いし破滅に向ってゆく破滅的な性格の遺伝子を自ら律しきれずに出奔したと考えられます。
ゆえに、山頭火のように睡眠薬を大量に飲んで昏睡状態に陥ったあと蘇生したり、虚名を売り物にして俳句の宗匠として地方を放浪したり、絶食状態で倒れていて犬から餅をもらうといった僥倖にめぐりあったりする、森羅万象や自然の神秘と合一するよろこびを体験したいのではないか。山頭火の一生は、何かのひょうしに自戒の念にかられ、自戒の言葉を吐き、酒を飲み騒ぎを起こし、再び反省して孤独な旅に出て、人里恋しくなり庵を結び、これではイカンと再び旅に出る。そんな一生だったといいます。私は三十半ばにしてようやくこの俳句を噛みしめるように読めるようになりました。
(引用抜粋:『柘植の「反秀才論』を読み説く(上巻)』(井口和基著:太陽書房)
「これはあくまで平均の話であるが、大学卒業年代でいうと昭和43、44年頃を境にして、学生の体質に目立った変化があったように思う。理工系の学生でいうと、この時期以降は問題の処理能力が平均的に向上し、知的好奇心は反対に低下した」
とあり、その要因として「感性」の問題があり、
「研究室で若い人達をみていると、科学者の最も重要な資質は、自然の不思議さ、美しさ、それをみつけた喜び、そういうものに戦慄する能力なのではないかと思われてくる。この知的感受性とでもいうべきものを多量に持っている人が結局はよい仕事をするからである。
問題はこの要素だけは教師が学生に与えてやれないという事実である」
その「話してもわからない部分」として次のような俳句を挙げている。
とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら
この俳句は作者の加賀の千代女の「幼い子供に先立たれた慟哭の句である」がこの句を実感として受け取ることのできる若い母親は今いるだろうか、と疑問を投げかけている。
われわれの世代が、漂泊流転のジプシーのような旅にあこがれるのは、「低エントロピー生活」、秩序や年長者が造り出した生活環境が盤石たる礎(いしずえ)の歯車でしかあり得ない「高エントロピー生活者」が予定調和の世界に対する反感と破壊衝動を抱く。それとともに、昔の人は「ネゲエントロピー生活」にしたいという欲望を抱く。すると昔の人に比べて本質的に自然に対する理解と適応能力が欠如していることに気が付いた、われわれは脱走し結局「低エントロピー生活者」となって帰還する。山頭火は地方の有力な政治家のタニマチの長男として生まれ「家」は生涯の重荷となり、また父譲りの溢れんばかりの情念が災いし破滅に向ってゆく破滅的な性格の遺伝子を自ら律しきれずに出奔したと考えられます。
ゆえに、山頭火のように睡眠薬を大量に飲んで昏睡状態に陥ったあと蘇生したり、虚名を売り物にして俳句の宗匠として地方を放浪したり、絶食状態で倒れていて犬から餅をもらうといった僥倖にめぐりあったりする、森羅万象や自然の神秘と合一するよろこびを体験したいのではないか。山頭火の一生は、何かのひょうしに自戒の念にかられ、自戒の言葉を吐き、酒を飲み騒ぎを起こし、再び反省して孤独な旅に出て、人里恋しくなり庵を結び、これではイカンと再び旅に出る。そんな一生だったといいます。私は三十半ばにしてようやくこの俳句を噛みしめるように読めるようになりました。
(引用抜粋:『柘植の「反秀才論』を読み説く(上巻)』(井口和基著:太陽書房)
Sunday, May 16, 2010
『物語の森へ』(五木寛之著:東京書籍)
トルストイに「幸福な家はみな一様に似通ったものだが、不幸な家はいずれもとりどりに不幸なのである」という言葉があるそうです。
安岡章太郎氏はこの言葉を受けて「つまり、幸福という“みな一様に似通ったもの”を僕らは共有することは出来ず、家によって個人によって“いずれもとりどり”であるところの不幸によって、僕らは共通の体験―歴史というもの―に、参画することになるわけであるわけだ。ここに個人史による現代史というもののムツかしさがある」と述べています。
作家と読者の関係もこれと似たところがあるのではないでしょうか。私と五木寛之氏との出会いは、1996年(平成八年)「文藝春秋」で石原慎太郎氏との「自力と他力か」という対談を読んでから始まります。それまで、私は五木寛之氏というと『青春の門』からくる印象がが強く「軟弱にして意志薄弱な党派」である私が入り込む余地のない作家だと思っていたからです。
この作品集は五木氏が作家になるまでの紆余曲折がしのばれる短篇が集まっています。学費未納で六十まで「中退」ではなく「除籍」処分となっていた早稲田大学での日々を綴った「黄金時代」。都会での仕事がうまくいかず齢三十三にして早稲田の同級生の妻と(奥さんはその後、東邦医大に編入し医者をしていた)故郷金沢に隠遁した時の「小立野刑務所裏」、金沢の名士の義父の了解を得て自費でお金を工面しようやく渡航できたロシア、東欧旅行の体験を小説化した「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」等が掲載されています。
私は五木寛之氏の小説のよさは物語の構成ではなく、言葉や情景から描写から醸し出される「青年期に喪失した筈の幼年期の純粋さが、作品中にふっとあらわれる」ところ、あるいは「人生のどん底で噛みしめる密やかな愛」であると思います。時代々々の空気をよみいち早く作品化してしまう衰えない感性に頭がさがります。
(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
安岡章太郎氏はこの言葉を受けて「つまり、幸福という“みな一様に似通ったもの”を僕らは共有することは出来ず、家によって個人によって“いずれもとりどり”であるところの不幸によって、僕らは共通の体験―歴史というもの―に、参画することになるわけであるわけだ。ここに個人史による現代史というもののムツかしさがある」と述べています。
作家と読者の関係もこれと似たところがあるのではないでしょうか。私と五木寛之氏との出会いは、1996年(平成八年)「文藝春秋」で石原慎太郎氏との「自力と他力か」という対談を読んでから始まります。それまで、私は五木寛之氏というと『青春の門』からくる印象がが強く「軟弱にして意志薄弱な党派」である私が入り込む余地のない作家だと思っていたからです。
この作品集は五木氏が作家になるまでの紆余曲折がしのばれる短篇が集まっています。学費未納で六十まで「中退」ではなく「除籍」処分となっていた早稲田大学での日々を綴った「黄金時代」。都会での仕事がうまくいかず齢三十三にして早稲田の同級生の妻と(奥さんはその後、東邦医大に編入し医者をしていた)故郷金沢に隠遁した時の「小立野刑務所裏」、金沢の名士の義父の了解を得て自費でお金を工面しようやく渡航できたロシア、東欧旅行の体験を小説化した「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」等が掲載されています。
私は五木寛之氏の小説のよさは物語の構成ではなく、言葉や情景から描写から醸し出される「青年期に喪失した筈の幼年期の純粋さが、作品中にふっとあらわれる」ところ、あるいは「人生のどん底で噛みしめる密やかな愛」であると思います。時代々々の空気をよみいち早く作品化してしまう衰えない感性に頭がさがります。
(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
Wednesday, April 28, 2010
『佃島ふたり書房』(出久根達郎著:講談社文庫)
第108回、1992年上半期(平成4年)直木賞受賞作。
直木賞は菊池寛氏によって昭和十年制定され、大正十二年に創刊された雑誌「文藝春秋」に亡くなる昭和九年まで同誌に精力的に執筆された直木三十五氏をしのんで、大衆作家の登竜門として年二回もうけられました。
私は文学とは、純文学が「その時代の人々の息吹や情操を適切にとらえたもの」ならば、大衆文学は「近代化にともない滅びゆく風情や人情をとらえて写実した」ものにも与えられてしかるものではないかと思っています。
出久根氏は既に「文藝春秋」のコラム欄の常連ということで「知ってる人は知ってるよ」という反応がかえってきそうなのでご紹介しなかったのですが、この作品は東京築地の魚市場を描いた森田誠吾氏の「魚河岸ものがたり」や、大阪九条の商店街を描いた宮本輝氏の「夢見通りの人々」を彷彿とさせる「庶民派の下町文学」としてながく私のこころに残りそうなので紹介させていただきます。
ところは東京佃島。豊臣方の侍ながら徳川家康につき従い、その功により埋め立てた島と自由な漁業権を獲得した三百年の歴史をもつ漁師町。佃新橋開橋と市町村合併をひきかえに消えゆく佃島の古本屋を継ぐ決意をした高校をでたばかりの少女澄子。古本屋の仲介業をいとなむ梶田郡司が駿河台の古書会館でのセリ市につれて行きながら四十五年にわたる古本屋人生を回想します。
生年月日が同じ六司とともに「ふたり書房」を営むうちに、書店の小僧たちがだれにも相手にしようともしない鼻梁が溶けた遊女で社会主義の本の編集責任者である女にひかれた郡司。損得ぬきで「大逆事件」であげられる女の心意気にひかれ社会主義の本を買い漁る郡司。やがて郡司は六司に店をまかせ満州に。明治末期から昭和三十六年まで、ふるきよき下町の風情をしのぶことのできる傑作。
(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
直木賞は菊池寛氏によって昭和十年制定され、大正十二年に創刊された雑誌「文藝春秋」に亡くなる昭和九年まで同誌に精力的に執筆された直木三十五氏をしのんで、大衆作家の登竜門として年二回もうけられました。
私は文学とは、純文学が「その時代の人々の息吹や情操を適切にとらえたもの」ならば、大衆文学は「近代化にともない滅びゆく風情や人情をとらえて写実した」ものにも与えられてしかるものではないかと思っています。
出久根氏は既に「文藝春秋」のコラム欄の常連ということで「知ってる人は知ってるよ」という反応がかえってきそうなのでご紹介しなかったのですが、この作品は東京築地の魚市場を描いた森田誠吾氏の「魚河岸ものがたり」や、大阪九条の商店街を描いた宮本輝氏の「夢見通りの人々」を彷彿とさせる「庶民派の下町文学」としてながく私のこころに残りそうなので紹介させていただきます。
ところは東京佃島。豊臣方の侍ながら徳川家康につき従い、その功により埋め立てた島と自由な漁業権を獲得した三百年の歴史をもつ漁師町。佃新橋開橋と市町村合併をひきかえに消えゆく佃島の古本屋を継ぐ決意をした高校をでたばかりの少女澄子。古本屋の仲介業をいとなむ梶田郡司が駿河台の古書会館でのセリ市につれて行きながら四十五年にわたる古本屋人生を回想します。
生年月日が同じ六司とともに「ふたり書房」を営むうちに、書店の小僧たちがだれにも相手にしようともしない鼻梁が溶けた遊女で社会主義の本の編集責任者である女にひかれた郡司。損得ぬきで「大逆事件」であげられる女の心意気にひかれ社会主義の本を買い漁る郡司。やがて郡司は六司に店をまかせ満州に。明治末期から昭和三十六年まで、ふるきよき下町の風情をしのぶことのできる傑作。
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