1.
『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著:講談社新書)を読んでいて、愕然とする事実に数多くぶち当たった。
最近、「正当な権利」と「個人の身勝手」の境界線が引けない人が多くなってきたそうだ。
これは筆者の言うとおり「他者の立場にいることを想像して、他者に配慮する」ことが出来なくなっている証拠でもある。
つまり、現代人に想像力が徐々に乏しくなっていることを示唆している。
これは何に起因するのだろうか、と考えてみた。
すると、コンテンツ産業が国家戦略となった途端、ファイナル・ファンタジーやドラゴン・クエストなど壮大な物語性のあるものがなくなった、というくだりに当たった。
昔、アメリカ人が忙しさのあまり、壮大な長編小説を読まず、短編小説しか読まなくなったという“Quick Lunch Literiture”という現象が起こったが、ゲーム界にもそれと同じような事象が起こりつつあるそうである。
現代における物語性の喪失である。
評論家の中村雄二郎氏によると、「物語」はいろいろな面で人と人とを「つなぐ」はたらきをもっているという。
「物語の知」の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味を持ったものとしてとらえたい、という根源的な欲求」である、と指摘している。
つまり、物語を鑑賞し思索するという行為の喪失が、現代人の他者の立場にたって考えるという、想像する力の欠如につながっているのではないかと、私は考える。
2.
「週刊文春」の清野徹さんは、本が売れない現状をこう分析している。
「本というものはフィクション・ノンフィクションを問わず「社会的他者という」存在を教示してくれる。
本がまったく売れないということは、現在ここにいる人が他者を欲せず自己の領域にとじこもることを意味する」
(「週刊文春」清野徹のドッキリTV語録より引用)
人間は読書によって自分の体験できない世界を仮想体験し、人間はその行為によって、他人のものの見方や考え方、自分の所属する社会以外の社会の存在や仕組みがわかるようになる。
もはや日本人は日々の生活に忙殺され、他者を理解するために物語に触れるこころの余裕も失っているのか、と考えさせられてしまう。
先日の寶田時雄さんのDVD講義の「人間の座標軸に情緒(=歴史、文化的存在)をすえよ」という言葉が浮かんできた。
私はその時、とっさに「何故、座標軸に情緒? 論理ではないのか?」と考えたが、それは間違いであることに本書を読んでいて気が付かされた。
世の中にはいくら論理的に説明しようと言葉を尽くしても説明できない事項が数多く存在するのである。
例えば、今朝フジテレビに出演していた藤原正彦さんが幼少時代に命ぜられたという「卑怯なことをするな」という父親の言葉。
仮に「弱いものを大勢でいじめるのは卑怯である」と言われた子供が「何故?」と問い返したとする。
親は「それがまっとうな人間のおこなう行動であり、正義であると脈々たる歴史が証明している」としか説明できない。
もし子供がその言葉に小賢しい論法で反論してきたら、それこそ張り倒すしかないだろう。
人間の社会には論理では説明できない、人間が悠久の歴史をかけて築き上げてきた道徳と倫理というものがあるのだ。
物語に触れて、情操を涵養するという行為は、若年期にしかできない行為である。したがって、その行為が人間を人間らしくあらしめ、劣化する日本人を救ってくれるのではないか。
3.
しかしながら、小説を読むことは非常に億劫な行為である。こころと時間に余裕がないと決して読む気にならない。
かく言う小生も最近は物語性のある小説ではなく、論旨が明確な新書ばかり読んでいる。
昔、理科系の友人に「何故、本を読まないのか?」と質問したら、
「だって時間の無駄って感じがするじゃん」と言われた。
島田雅彦氏が大学に講演に訪れた際、大江健三郎氏との対話で、
「小説ってのは林の木を一本、一本描くのではなく森全体を漠然と描いていくものじゃないですかねぇ」という結論で一致したと言った。
確かに小説を読むという行為は、鬱蒼とした森を探検するのに似て、小説から何かを感じとることは出来ても、その感動や不気味さを言葉で表現することは難しい。
作品のメッセージや意図は作者によって巧妙に隠され、問題点は小説の各所に散りばめられている。
読者は作者の意図するところを論理ではなく、情感で感じとることを要求される。
小説をたくさん読んで何を得たのか? と聞かれても答えられない。
でも、物語を読むことによって世知辛い世の中から一時(いっとき)離れることができて、救われてきた感じがしないでもない。
それ故に、小生は読書を奨めるのである。
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