「ヨーロッパ語においては、教養イコール文化であり、教養というものは、文化的存在としてその人の全人格的なあらわれそのものである」といいます。
やはり、「教養」=「文化的資本の蓄積」=「人格」であると思わざるを得ません。
おそらく、私はこの人は損な人生を歩んでいるな、とか、不運な人だな、と思われるに違いありません。
しかし、私はむしろ幸運であったし意義の有る人生だった、と言うことが出来ます。そう言う事が出来るのは、さまざまな会社での苦い経験を差し引いても余りある豊かな精神世界を持てたということです。
私はさいわいにして高い教養のある人に巡りあうことが出来ました。
時には打ちのめされますが、そのことに触発され、その人の住む広い世界を知ることによって私の精神世界が広がったことに対して感謝にたえないのです。
私は教養人ではありませんが、その方々とたまに会って、すぐに特定の分野について共通の基盤に基づいてコミュニケーションできるという快感は何物にも変えがたいものです。
最近、
「学校で教えることが何の価値があるのか」
という子供が増えているそうですが、彼らは学校という学びの場で学習した共通言語、そしてその場で経験した友情、喧嘩、恋愛、苦悩、試練など人生の諸体験が、その後のコミュニケーションの形成の基盤となることを知りません。
外国語が堪能になれば、その国の人と精神世界を分かち合うことができます。数学が得意になれば数学の言葉で数学の世界を分かち合うことができます。豪華な食事をしなくても、立派な車に乗らなくても、お互いの世界観が通じ合えばそれで幸せを感じることが出来ます。
コミュニケーションの基盤が脆弱であれば脆弱であればこそ、コミュニケーションが通じる相手の数が少なくなり、やがてその人は自らの貧弱なコミュニケーションしか通じない世界に閉じこもるか、孤立してしまうことでしょう。
ましてや、日本は経済的な合理性を優先してきたため、地縁共同体も血縁共同体、宗教共同体などもほとんど壊滅状態です。こういった状況の中、義務教育による共通の基盤を大切にして守ってゆくことが大切な生命線であるのに、と思わざるを得ません。
私は日本における最後のセーフティーネットの砦は、こういった共通の体験に基づく相互のコミュニケーションであると思います。
ですから、これからの若い人たちには、読書やインターネットを通してさまざまな世界を知り、その人の他の何者にも代えがたい自我、人格を高めていっていただきたいのです。
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