Sunday, May 24, 2026
Intergeneration Equity
Intergeneration Equity(世代間の公平)は概念であって制度ではないのですね。アメリカではAffiamative Actionのような制度もあるのでてっきりアメリカでは実施されているのではないかと勝手に考えていました。
毎日新聞を読むと2050年には団塊の世代ジュニア世代が76歳になり、高齢単身世帯が20.6%になる、と書いてありました。国はこういった世代を援助するため住宅確保と見守り支援の制度を拡充している、とあった。
民主主義が機能せず独裁主義に陥るのであれば、トマス・ピケティのいうように参加型社会主義のもと新しい権力配分(選出された従業員代表が大企業の取締役会の議席の半分を占めることができる)に変えるのもいいのではないかとも思っています。
これは万が一のことですが、ハイパー資本主義が崩壊してしまうのであれば統制経済に移行してしまうのではないでしょうか。
トマス・ピケティ曰く「1990年に、2020年になったらあなたは「来たれ!社会主義」という題した時評集を出版するとことなると言われていたら、悪い冗談だと思った事だろう。
日本でもベトナム戦争を止めた小田実さん率いるベ平連のような団体が出てきて戦争反対を主導してれることを願います。
Thursday, May 21, 2026
「萬晩報」と「国際派日本人養成講座」
東に伴武澄氏主宰の「萬晩報」あれば西に伊勢雅臣氏主宰の「国際派日本人養成講座」あり。会社を辞めて手持無沙汰であったので、伊勢雅臣氏を囲む会に出席してみた。
神戸のハローワークの近くのビルの一室で質疑応答が行われた。伊勢氏は本名は布施といい、住友電工の部長で米国のカリフォルニア大学のバークレイ校で経営学修士を取得したエリート・サラリーマンだった。デザイナーで本の装丁に関わった女の子が「こんな表紙でいいでしょうか」と伊勢氏に「国際派日本人養成講座」をまとめた一冊の本を手渡した。あれ「萬晩報」でも同じことがあったなあと思った。
参加者は10名くらいで禿げ頭の教育関係の仕事をしているというお爺さんが穴のあくほど私の顔をみていた。あと奈良で酒を造っている社長の息子さんが「いやあ、取締役になりましてね、取り締まっているのか取り締まられているのか分からないですよ」といっていた。あとは豊田通商の人と禿げ頭のお爺さんが連れて来た自慢の教え子だという柳川出身で阪大工学部に通っている学生と、大阪経済法科大学に通っているという青年とその恩師など雑多な人が集まった。伊勢氏に経営学修士(MBA)をとるのは大変だったでしょうと問うと「いやー楽でしたよ。ゴルフ三昧の日々を送りました」と言っていた。
会が始まると「国体について」というお題が出された。私はそんな大それたことは考えらえなかったので「先生はどうお考えになるのですか」と伊勢氏に質問すると「いやーTさん国体なんてみんな同じなんですよヴェルサイユ宮殿を見てください」ととうとうと話していた(残念ながらそれ以上の話は覚えていない)最後に「萬晩報の伴さんを知っていますか」と言うと、「伴さん知ってますよ。萬晩報の」と答えたので「一度お会いになりませんか」というと「勿論、お会いしたいです」と言ったので、後日大塚寿昭氏にメールを打って、メールマガジンの東の横綱と西の横綱が会うことになった。正直に言うと「両雄並び立たず」でうまくいかないんじゃないかと思ったのだが、案の定その後、交友が芽生えるほど深くはつながらなかったようだ。愛国主義で保守的な伊勢さんとリベラルな伴さんが合うはずがないじゃないかと後で悔やんだ。大塚寿昭氏は「貴台の行動は坂本龍馬を思わせる」とメールをくれたが、余計なことをしたかなと思って残念な気がした。
Saturday, November 22, 2025
宝田時雄氏の語る統制経済
宝田時雄氏とは萬晩報の集まりでご一緒させていただきました。それ以来、さまざまな資料や講義録を送っていただいき個人的な相談にも乗ってもらったこともあります。今回はブログ「まほろばの泉」から印象に残ったコラムを紹介させていただきます。=======================
統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。
かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となっている。しかして今やアメリカにおいても、政府の議會にたいする政治的比重がづつと加わり、最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。その掲げるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。
かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、實質は統制主義國家に変貌し來たのである。專制から自由へ、自由から統制への歩みこそ、近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。
もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、日本の再建は遲々として進まず、アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。日本は今次の敗戰によって、世界に先驅けた平和憲法を制定したが、一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。
繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。日本は世界の進運に從い、統制主義國家として新生してこそ過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。
Wednesday, June 11, 2025
驟雨の時(3)
或る日、ひとみちゃんという年長組の女の子が遊びに来た。何故一つ年上の彼女が、わざわざ僕の家を訪ねてきたのかは分からない。幼稚園の行き帰りに一緒に帰ったことがあっただろうか。ひとみちゃんは物怖じしない快活な女の子で平気でコガネムシの幼虫を触った。 ひとみちゃんはおどおどと蝉の抜け殻をつかむ私とは対照的に、堂々と抜け殻やミノムシを採った。また、彼女は不器用な私の世話をやくのが楽しいようでもあった。そういうところに私は彼女に対してかなわないものを感じた。 私たちは庭先に止めてある大人用の青い自転車に乗ってみようということになった。 「スタンドが外れたら危ないよ。ひとみちゃん止めよう」 と言うと彼女は、 「タダシ君て男のくせに意気地がないんだから」 と、言うや否や青い自転車のサドルに飛び乗ってしまった。 彼女は余裕の表情で私の顔をうかがうと、空に顔を向けてペダルから足をはなして宙にブラブラとさせた。不器用なあなたとは違うのよ、とでも言いたげな態度だった。私は何も出来ない自分を再認識させられて悔しかった。 どうやって自分のプライドを保とうかと考えているうちに、私の視線はサドルに乗ったひとみちゃんの白い足の前で止まった。青い小さな靴と白い靴下の下からみえるくるぶしの膨らみが眼に入った。そして再び視線を上げて彼女の全体像を確認した。 1呼吸と時間が止まった。 不思議なときめきを感じた。私はどうやら彼女の魅力に引き込まれてしまったらしい。彼女も私の視線を感じたらしく、自転車に乗ったまま動かなかった。 甘美な時間が流れた。 今や彼女は競争相手でも、プライドを傷つける憎むべき存在でもなかった。私はもっと彼女を見つめていたかったが、同時に湧きあがってきたうしろめたさ、彼女を友達以外のものとして見てしまったやましさが視線をそむけさせた。 「乗ってみたら」 「危ないって」 ひとみちゃんと遊び始めてから、上津君とはあまり遊ばなくなった。ひとみちゃんが遊びにこないと分かっている日も、上津君の誘いを断った。雨の日もひとみちゃんが来るかもしれないと思い、家で待った。 しかし恐れていた事が起こった。ひとみちゃんと遊んでいる時に上津君が来たのだ。 「ひとみちゃんが先に遊ぼうと言ってきたから」というと上津君は、 「タダシは女好きだ。女の腐ったような奴だ」 と言ってきたのだ。そう言われると断る訳にもいかず扉を開けた。 上津君が得意な、堀を流れる小川に下りてのさわ蟹採りをすることになった。ひとみちゃんは嫌がって庭で遊ぶことを主張したが、私は「女の腐ったの」と言われた手前、「川へ行くんだ」と強引に押し切って小川に三人で行った。 ひとみちゃんは橋の上でつまらなそうにさわ蟹をとる私たちを見ていた。上津君はさわ蟹をとりながら橋の上にいるひとみちゃんに「だから女は駄目なんだ」と繰り返し言っていた。 私はさわ蟹を探すふりをして腰を屈めて川面を凝視していた。 さわ蟹を入れたバケツを持って意気揚々と帰る私たちの後ろを、ひとみちゃんは、 「こんな汚い蟹をとって何が楽しいのよ」 と言いながら不満げについてきた。 その後は、社宅と電電公社の局長さんの敷地の間にある竹林のなかにある鳩の巣のなかの卵をとろうという事になり、竹藪をかき分けて強引に竹林に入り込んだ。上津君は先に先に奥へ入っていった。 本当に鳩の巣などあるのかと不審に思いながら、繁茂している竹の葉が間断なく頬に当たってきて嫌な気分になった。その時「痛い」という声がしたので、振り返るとひとみちゃんが膝がしらをおさえてかがんでいた。何かの拍子に膝を切ったらしい。 「ひとみちゃん大丈夫」 と駆け寄ろうとすると、後ろから上津君の声がした。 「タダシ。女なんかにかまうなよ。お前は女の腐った男か」 私はその声を振り切ってひとみちゃんに駆け寄った。私は女の腐ったのでいいんだ。ひとみちゃんの方が大事だった。 或る曇った日にひとみちゃんが自宅に誘ってくれた。 ひとみちゃんは一階が倉庫になっているプレハブの二階に住んでいた。赤錆びた鉄の階段を上り、薄暗い玄関に入ると布で作った赤い服を着たピエロが壁に掛かっていた。 部屋に入り、しばらくテレビを見ていると、ひとみちゃんのお母さんのヒステリックな声が聞こえてきた。 「ひとみ。また下着をぬらして。乾くまでそのままでいなさい」 「いやよ。こんな恰好じゃ恥ずかしいでしょ」 「今日も2枚洗濯したのよ。かえがないのよ」 しばらくして、うちしおれたひとみちゃんが私の横に座った。いつもの颯爽とした面影はなかった。私はひとみちゃんを正視できず、そっぽを向いた。一刻も早くこのなんともいえない気まずい淫靡な雰囲気から逃れたかった。 「ねえ、こっち向いてよ」 「帰る」 玄関を出て階段を下りてゆくと、ポツンポツンと雨が降りだし、やがて家が見えてくる頃には雨はよこなぐりに強く降りだした。もう、ひとみちゃんとは会うことはないだろうと思った。 それから一カ月後、父は再び転勤を命じられ、私たち家族は東灘に引っ越すことになった。引っ越しを見送る人混みの中に、ひとみちゃんの姿はなかった。それ以来ひとみちゃんに会ったことはない。 今でも、むせかえる夏の日に木にとまるハンミョウ虫を見ると、尾道の山上にある千光寺や古びた漁船のとまる漁港を思い出したりする。勿論、あの甘美な時間の事も忘れずに。(終わり)
驟雨の時(2)
私たち家族は東京から来たので、尾道の人には物珍しかったらしい。 兄は中学校の全校集会の朝礼で、転校の挨拶をしたら、体育館から静かなどよめきがあがったと言った。 黒縁のロイド眼鏡をかけ始終しかめっ面をしているような兄にとって迷惑だったのだろう。
母も近所の米屋に買い物に行くと、 「奥さん。東京から来たんですってね。田舎やおもうたん違いますか。はよう旦那さんの都落ちがとけるといいねえ」 と言われた。 父は40になり公庫の決まりのコースである地方支店巡業の旅に出るふり出しの地点にきたのだ。
私は眼の大きさの事ばかりいわれた。 「まあ、なんて大きな眼なんでしょう」 奥様連中が集まると、何度も私の眼のことが話題になるのでうんざりして、 「タダシ君の眼は何の眼?」 と問われると、 「ビー玉の眼」 と答えて奥様連中をワッと笑わせたこともあった。
母は30の後半になって産まれた私を可愛がり、外出するときはいつも連れて歩いた。 「あら、奥さん。また坊ちゃんとお出掛けですか」 とからかわれると、 「うちのおちびちゃんが、せがむものですから」 と言った。私は口元をゆがめてみて抗議の意を表した。
駅前で薬局を開いている隣の家のおばあさんにも可愛がられた。 昼食が終って、キューピー3分クッキングのテーマソングが流れ始めると私はもう我慢できなくなって裏口から庭にとびだしていく。それを見計らっておばあさんはお菓子や飴を用意して待ち構えていた。
裏庭のブロック塀の隙間から、
「坊ちゃん、ちょっときな」
と呼んでは、子供が喜びそうな話をしてくれた。
「坊ちゃんねぇ、昨日花壇のある方のお庭をイタチが歩いていたよ」 「イタチ? 本当」 「本当さ。花壇の隅をそーっと歩いてみせてはサッと姿を隠して」
上津君という私と同じ幼稚園に通う子供たちと遊び始めたのは、いつの頃からだっただろうか。 彼らは道路に面した入り口の扉を開けて、玉砂利の敷かれた石畳を走り抜けて、二つ目の扉から顔をのぞかせて、「おばちゃん、タダシ君いる?」と、尋ねてくるのだ。
上津君たちとはよくうちの庭に穴を掘ってコガネムシの幼虫を捕ったり、竹林の中のミノムシの蓑をはぎとったりして遊んだ。昆虫の抜け殻も集めた。さわ蟹を捕りに上津君一党とお堀のちかくまで出掛けることもあった。そして時々上津君の家にお邪魔した。
その日はあいにく長屋の入り口にいる白く大きな凶暴な犬が暴れくるっており、私はその入口を通ることが出来なかった。 「いまだ。チャンスだ」と上津君はしきりに私をけしかけてくれるのだが、私はその犬が恐ろしくて中に入ることが出来ない。
すると上津君がちかくに落ちていたボロ切れの布をスペインの闘牛士よろしく縦横無尽にふりまわし、犬がひるんでいる間に奥にいけと言った。 私は彼の好意に感謝しつつ犬のかたわらを走り抜けた。
上津君の家は長屋の一番端っこにあった。屋外の物干し竿に絵柄入りのTシャツやシーツなど雑多なものが干されていた。入り口には三輪車が二台、それぞればらばらに放置されていた。
上津君は四人兄弟の長男で、家にあげてもらうと三人の弟や妹が醤油や泥んこ遊びで汚れたTシャツを着て元気に走りまわっていた。薄暗い部屋の中のテレビが純色のアニメーションを映し出していた。
昼食時になり帰ろうとすると、上津君の弟や妹が手を引っ張って、 「ウチで食べてきなよ」 というので、自分より幼い子供に甘えられるというのも初めての経験で嬉しかったので、その好意に甘えることにした。
縁側のひだまりで、ダルマ落としをしているといつになく機嫌のよい兄がやってきた。 「タダシ、ちょっとこいよ」 黒い門扉に通じる小路の木造の塀を指さすと、 「見てみろよ」 見上げると茶色い巾着袋のようなものが塀に張り付いていた。 「カマキリの卵だよ」
「こんなちっちゃい袋から、カマキリが出てくるの?」 「昆虫図鑑に載ってるよ。ちょっと来な」 兄の部屋に入ると、兄は昆虫図鑑の該当ページを開いた。 すると図鑑のページいっぱいに、巾着袋を破って小さくて透明なカマキリが大量に出てくる光景が写っていた。
兄から図鑑を借りると、私は暫くのあいだじっと写真を見つめていた。あまりにも長いので、兄が、 「ハイ。もうお終い」 といって図鑑を私の手から奪った。
Friday, May 02, 2025
驟雨の時(1)
夕暮れ時に雨が降りだした。
雨が降ると不思議なことに、遠く海から離れた高台の家にも海峡を行き交う汽船の鋭く物悲げな音色がしきりと聞こえてくるのだ。 私は読書を中断し眼鏡を外すと、汽笛の音にさそわれるように、白いカーテンを開けてヴェランダに出てみた。
すると、さっきまで見えていた淡路島の島影はかき消え、雨に煙る海峡の中にうかぶ汽船の明かりが幾つもほのかにうかびあがっているのが見えた。
急な夕立に海辺の市街地は灰色にくすんだ。
屋根に打ちつける雨音がしだいに強くなり、やがて雨は遠慮なく私の顔や衣服を濡らした。ガラス戸を閉めて再び窓をのぞくと、隣家の柳の枝が突然の夕立になす術もなく枝垂れていた。 私は汽笛の蒸気が噴出する音が好きだった。
霧や見通しの悪い海上で安全確認のために鳴らされる汽笛だが、私には船に乗船している人々からの特別な合図、陸上の私たちへのエールであるような気がした。 いまではその音に郷愁を感じる。 幼年時代、尾道で暮らした。その時の淡い記憶が蘇えってきた。
ジリジリと照り付ける灼熱の真夏の太陽。太陽の光が反射して白光りしてはるか彼方までそびえてみえる石の階段。その階段のはてに青い空を背景に白い入道雲がわきあがっている。
ロイド眼鏡をかけた中学生の兄と友人のブーちゃん。そして虫取り網を持った幼稚園園児の私がゆっくりと石段を登っていく。稚園児の私がゆっくりと石段を登ってゆく。空から間断のない油蝉の鳴き声が降り注ぎ、階段の途上の杉に白い斑点と黒い胴体を持つハンミョウムシの金属色の光沢が不気味にギラリと光る。
1ハンミョウムシを捕まえようと虫取り網を構えると兄から、 「コラッ。余計なことするな」 という叱責の声がとぶ。 尾道というと私は夏にお寺に行ったこの一コマを思い浮かべる。
公庫に勤めていた父が尾道へ転勤となったのは、私が幼稚園に通いだした頃だった。
東京と比べると尾道は古くひなびた町だった。 年中潮風が吹いているせいか、市場の鉄柱は錆つき町の石垣は赤茶け、なにか町全体がセピア色をしているような印象を持った。国鉄の鈍行列車がゴトンゴトンと動き出す音が物淋しく聞こえた。
尾道は漁港だけあって、山が海にちかく山の稜線は屏風のようになだらかに続いている。そのせいで勾配が急でのぼるのに一苦労する坂がおおい。港付近には漁師とその関係者が集まり、昼間は主婦や子供の姿があるばかりだった。
父が公庫から貸し与えられた社宅は市街地から少し離れたところにあった。社宅の近くに堀があり、堀を流れる小さな川にかかるひと一人しか通れないような狭い橋を渡って、入り組んだ細い道をしばらく歩くと社宅にたどりつく。
社宅は奥まったところにあり、道路に面した入口の黒い門扉をあけてさらに5・6メートル玉砂利の敷かれた石畳を歩いて、もう一つの扉をあけて、竹林の中をしばらく歩くと、やっと枝折戸ごしに芝生の庭が視界に入るような構造になっていた。1その社宅の道路側の敷地に食い込んでいるのは、電電公社の局長さんの社宅で、私はその頃電電公社がどんなものかも知らないのに、 「局長さんの家。僕のうちは局長さんの家の隣です」 とつたない口調で言っていたらしい。
道向かいの家は高い石垣の上に建っており、その家の瓦葺きの立派な門にたどり着くには長い階段を上っていかなければならない。僕は子供心に中国の神仙のような人が住んでいるのだろうと想像した。子供は尾道を離れ、今は老夫婦が二人住んでいるとのことだった。
Wednesday, November 06, 2024
『獄中記』(佐藤優:岩波現代文庫)
先日、三宮の古本屋で本を探していると「チェコ文学短編集」という本があった。どうゆう作品なのだろうと思って手に取ってみると「佐藤優訳」と書いてありぎょっとした。この人は出獄後も外務省時代と同じように2、3時間くらいしか寝ずに仕事をしているのではないかと思った。『獄中記』は背任・偽計業務妨害事件で逮捕された佐藤優氏が出獄するまでの512日勾留された間に弁護団や友人、同僚に向かって心境を綴った手紙や日記をまとめたもので非常に読みごたえがあった。佐藤優氏が訴えたいのは二つあり「鈴木宗男先生を利用するだけ利用しつくし、いざ調子が悪くなるとドブに蹴落とすというのも外務省らしくて、なんの意外性もないところが恐ろしいです。だからこそ、私は対露外交渉のみならず、「政官関係」について佐藤裁判を通じて明らかにすることが。鈴木先生の名誉のために重要だと思っているのです」ということと、「国策調査とは真実追求するものではなく、政治ゲームの一局面なのだということを「思考する世論」に理解させる」ことだそうです。獄中での佐藤氏は当時の神学部で必須であった英語、ドイツ語、新約聖書、ギリシア語、古典ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語を学ぶことを志し、手始めになじみのあるドイツ語の文法の本を取り寄せて学習しはじめたそうです。またユルゲン・ハーバーマス、へーゲル、ハンナ・アレントの著書を取り寄せてもらいアレントの言説を引きながら「自己の安楽、家族の利益、を超えたところで日本国家について考える幹部外交官がいないと国家は滅びる」と警鐘を述べています。そして鈴木宗男氏の8月29日から一カ月ほどたった10月8日に保釈されました。恩人である鈴木宗男氏を護るため中島敦の「弟子」に出てくる子路のように獅子奮迅の働きをされたと思います。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したしたものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
Friday, April 12, 2024
本屋大賞と津村記久子
2024年の本屋大賞は宮島未奈さんの「成瀬は天下をとりにいく」に決まった。昨年ほどではないが、今年もニュース7の最初のニュースに取りあげられ、芥川賞・直木賞を凌駕する勢いである。私はあまりニュースや新聞を見ないのでいちがいにいえないが、今年芥川賞を受賞した九江理江の「東京都同情塔」がフラッシュ・ニュース(15秒程度ではないか)に取り上げられただけでその違いは寂しい限りである。
今日の毎日新聞の社会面によると宮島未奈さんは静岡県富士市出身の大津市在住。今回の受賞作がデビュー作であるそうだ。しかしながら記事を読んでいると、宮島さんの紹介のつぎに毎日新聞で夕刊に連載されていた津村記久子さんの「水車小屋のネネ」は本屋大賞の第2位であった、という自社で連載した作品を少し紹介したいような不自然なコメントが付け加えてあった。そして総合面には「本屋大賞第2位」と銘打たれた大々的な本の広告があり、毎日新聞の連載小説である津村の作品ををおおいに買ってもらいたいという意図がみえる。
津村といえば「ポストライムの舟」という作品で芥川賞を受賞し、そんなに目立たない作品だったのでよくこんな地味な作品が選評者の眼にとまったものだと思ったものだが、新聞の連載が始まると、題名からして面白そうだと思い最初は熱心に読んでいた。また連載中に「やり直し世界文学」という本も刊行されこちらも面白そうなのでこちらもいつか買って読みたいと思った。津村記久子は今回の本屋大賞第2位に輝き、純文学のみならず直木賞的な作品も書けるフィールドの広さを認知させた。
最後に芥川賞だが、最近とみに世の中の世相の最先端(暗号資産だの生成AIだの)を取り上げた作品が受賞しているが、あまりにも直接的すぎて「時代にはその時代の精神なり情操があり」「それをくみ取ったものこそ時代が迎い入れられる」というのと少し違うような気がする。石原慎太郎氏は「最近の作品は市場マーケティングを綿密にした作品が受賞している」と言ったが、そういった傾向が芥川賞をしらけさせていると言えはしないか。
Saturday, November 18, 2023
『男流文学論』(上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子:ちくま文庫)
私のこの本との出会いは、先月三宮のジュンク堂で何気なく手にとった本に「退屈を描いて退屈させてしまった『鏡子の家』」という目次に心ひかれたからである。結局買わなかつたのであるが、その後もそのキャッチフレーズが何度も夜中に思い出されて消えなかったので、休日に急いで本屋に走ったことに始まる。もっとも、この私の熱狂ぶりは遅きに失した観がある。解説の斎藤美奈子さんによればこの本が発刊された1992年1月の新聞広告を見て、斎藤さんは本屋が開店すると一目散に本をつかんでレジに走ったというし、本の帯には刊行当初から話題騒然となりすさまじい論議を呼び起こしたエポックメイキングな鼎談とあり、ちくま文庫創刊35周年にともなう記念復刊とあった。上野千鶴子女史によれば「男性中心的な二流、三流の文学をとりあげて「ワラ人形」叩きをやりたくはなかった。(中略)論ずる値打ちのある力量のある作家(中略)男たちがそのねうちを疑ってみようとしない作家だけをとりあげたいと思った」とある。吉行淳之介は「『砂の上の植物群』のリアリティのなさは、吉行がしょせん私小説家だからである」「昭和38年の性の求道者も、いまどきギャルにはフツ―の風俗」という評定をくだされ、島尾敏雄は小説「「死の棘」は、ミホを巻き添えにした、敏雄の病の往還記である」と言われ、谷崎潤一郎は「カテゴリーとしての女、ペットとしての愛」と断ぜられた。他に小島信夫、村上春樹、三島由紀夫も俎上にあげられ容赦なく批評されている。この鼎談をおこなうにあたって上野千鶴子、小倉千加子、富岡多恵子は作家を選び、作品を選び、それに関連する文芸評論のほとんどすべてに目を通し、毎日送られてくる分厚いコピーの束は段ボールいっぱい分くらいあったという。これらの鼎談は「読書会」と称され一年近くおこなわれたという。私はこの本を読んで衝撃を覚えましたが皆さんはどうでしょうか。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
Monday, April 24, 2023
『ぴんはらり』(栗林佐知:筑摩書房)
「むかし、あったがだと。山の奥の、山奥の、そのまた奥の在郷にや、鏡てもんが、なかったてや」冒頭から方言で始まるこの小説は、2006年に「峠の春」という題名で発表され、第22回太宰治賞を受章した作品である。新潟県松之山町(現・十日町市)の方言を全篇にわたって自然に何のてらいもなく使いこなしている。その裏には筆者の松之山町の方言や植物の熱心な研究と探求がうかがわれ、その作品は一定のこころよい旋律に乗り、筆は軽妙にして洒脱である。方言はその地方の文化の基盤である。近年の少子化や人口流出で、いつか廃れ絶えてゆくだろう方言が物語により歴史的な道標として、また一箇の作品として結実としている。内容は主人公おきみが、眼の不自由なおハツさんの弾く三味線にひかれたりするが「いっちょめいの村の女(おなご)になりてい」と望み、働き者のおきみは六右衛門の息子巳代吉のもとに嫁ぐことになるが、その縁談はある事件を切っ掛けに破談となってしまう。嫁入り前に好意を抱いていた作次にも無視されてしまい、絶望に陥ったところに、庵主さまが「死んではならねえど。死んではならぬ。どったらに汚れても。おてんとうさまにせっかくあたった命だば。ナァの好きにしてはならぬ」となだめられ、最後に眼の不自由なゴゼンボさんたちの三味線の仲間に入れてもらうべく追いかけてゆく。ちなみに改題した「ぴんはらり」という言葉は、昔話の語りの最後に言う言葉で「とっぴんぱらりのぷう」「こいでいちごさけた」と同様な意味であるそうである。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。
Thursday, April 20, 2023
『とちおとめのババロア』(小谷野敦:青土社)
本作品は2018年3月に「文学界」に発表され話題を呼んだ作品である。小室圭さんと眞子さまの結婚騒動が起こる前である。著者の小谷野敦氏がアマゾンの書評に自ら投稿したコメントによると本作品は「天皇制を批判した小説」であるという。物語は東大卒で現在は女子大学でフランス文学を講じる38歳の大学准教授が、ネットお見合いをするところから始まる。そこで出会った女性が皇室の一員で皇統譜にも記載されている松浦宮の出身のヨウコである。外国文学や映画の話があい意気投合した二人は恋愛関係に陥る。民間人と皇室の交際とはどのようなところに行き、どのような会話をするのか興味をそそられるのだが、二人は喫茶店にいったり相撲にいったりしながら、我々庶民とは及びもつかぬ高度でハイソな会話をおこなっている。最後に波乱はあるものの、両家の両親の承諾を得て二人は無事結婚にこぎつける。通常、皇室に触れることはタブーで腰が引けてしまうのだが、小谷野氏は大胆に皇室の内部に踏み込み皇室の日常をあますことなく描いている。皇室の今を描いた快作。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。
Thursday, April 13, 2023
『太陽の男 石原慎太郎伝』(猪瀬直樹:中央公論社)
私は石原慎太郎氏の円熟期の作品である「法華経を生きる」「弟」「わが人生の時の時」「聖餐」を読んだことがある。親戚が逗子に住んでいた頃があり、昔は夏場などに母方の親類が集まってこぞって海水浴にいったそうです。また石原氏は私の両親と同じ昭和一桁世代であるので、親から受け継いだ当時の時代認識や時代感覚を共有しているため物語にすぐに没入でき、懐かしい昭和の情景をそこはかとなく感じとれました。本編で意外に思ったのは、三島由紀夫氏が小説家として石原氏を強く意識し、いつか石原氏に追い越されるのではないか、という危機感があったという事です。私はこの評伝を読むまで小説家としては三島氏の方が断然上だと信じていましたが、どうもそのようではないようです。私は読んだことはありませんが、石原氏の中期に発表された「亀裂」という長編に触発されて三島氏が「鏡子の家」を書いたそうです。また、これは有名な話ですが、石原氏がベトナム戦争の取材の後ウィルス性肝炎にかかり入院したときに、三島氏から丁重な手紙がとどき、蘇生した石原氏は参議院に出馬する決心をかためたという話ものっています。石原氏の作家としての業績を再評価した作品。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。
Tuesday, April 11, 2023
回想の八木博氏(5)
シリコンバレーに戻った八木さんは、脱炭素化、分散化、デジタル化というエネルギー産業の変革をビジネス機会とするCleantechという分野の市場調査、技術調査、特許調査をおこなうIMANETという会社を設立し、再びシリコンバレーと日本を往復するようになった。八木さんは大阪に用事がある時はリッツカールトンを根城にしていたようで、私はそこの喫茶店でとりとめのない話をした。「八木さん。社名の由来はなんですか」と問うと「人生今しかないじゃないか。それでIMANETだよ」「そんなに生き急ぐのは何故ですか」「シリコンバレーは技術革新の激しいところだからね。今挑戦しなければ人生後悔すると思ったからね」息子さんがアメリカの大学を卒業しヨーロッパの大学院で哲学を学びにいったということも聞いた。一方、青雲の志をもって証券会社に移った私はさえないことこの上なく、顧客に提案する資本政策という表のエクセルの計算がとんでいたり、「プロの投資家」という概念がどうしてもわからず顧客が増資するたびに必ず増資の書類を大阪国税局に届けさせたりした。最後には顧客に信頼してもらうために担当会計士に「シリコンバレーに家を構えたユニークな人がいます。その人を交えて飲みませんか」と言って信頼をかちとろうとしたこともあった。朝7時に出勤しその日の日経新聞を一時間かけて読み、午前か午後に顧客のところに行き、空いた時間に明日の顧客に提案する資料を深夜までかかって作って帰る。そんな日々のなか一年が経ち、人を出し抜いたり出し抜かれたりする中で「確固たる地位を得たい」という不遜なこころが浮かんできた。その日は、二日連続の土砂降りの雨の日だった。八木さんとホテルで会うと開口一番「すみません。もう八木さんに頼るのは止めたいんです。このままじゃ僕は杜子春になってしまう」と言った。「杜子春?」「仙人に眼をかけてもらって仙術で大金持ちになったりするあの杜子春です。このままじゃ僕は最後に杜子春が仙人になりたいと言ったのと同様に八木さんのようになりたいというに決まっています」私は自分の不甲斐なさにいら立ってテーブルを拳固で激しく叩いた。「もう、僕は必要ないんだな」八木さんが言った。「長州の敗北を知った高杉晋作はたった一人で街道をまっしぐらにかけていったんだ。その後に力士隊、奇兵隊がつづいて。もう大丈夫だな」そう言うと、八木さんは立ち上がり握手をした。「これまで本当にありがとうございました」私はホテルの薄暗いロビーに消えてゆく八木さんの姿が見えなくなるまで頭を下げた。
Monday, April 10, 2023
回想の八木博氏(4)
東京に行くこともあった。「日本電算機の石井孝利社長と会うから同席しませんか」新幹線で新大阪から東京まで行き、丸の内の赤い煉瓦造りの円形の駅舎でおちあいタクシーに乗った。「シリコンバレー通信の管理を任せるよ。やってくれるね」と八木さんが言った。単に八木さんが書いた原稿を受信し”まぐまぐ”に配信時間を設定して登録するだけのことなので、否応なく引き受けた。「このあいだ阿刀田高の講演を聴きにいったんだ。そうしたら、阿刀田高が小学校の同窓会に出席した際、むかし先生の発言であの話が印象に残っているというと、先生ともう一人の同窓生だけがその話を覚えていて、他の生徒は誰もその話を覚えていなかったそうなんだ」「本当にメッセージが”伝わる”っていうのはそういうことじゃないのかな」「ええ、そう思います」「だから僕のやっている事、言ったことを後で思い出して、あの時八木さんはこう発言したなとか、あの時はよく分からなかったけど、実はこういう意味だったんじゃないかと気づいたりして欲しいんだ。いちいち土屋さんを呼ぶのはそのためなんだ」と言った。目的地の店に着くと80歳くらいの白髪に眼鏡の老人と背広を着た紳士が座っていた。八木さんが私を「僕のメール・マガジンを”まぐまぐ”で配信してくれている土屋さんです」と紹介すると白髪の老人が驚いた様子で立ち上がり「なに!!”まぐまぐ”。あなたはあの”まぐまぐ”の大川社長ですか」と言った。「違います。”まぐまぐ”を利用してメール・マガジンを発行しているいちユーザーです」と答えると「なんだ違うのか」と酷く落胆した様子だった。一方、石井社長はというと何か心配なことでもあるのか、終始押し黙ったままでとりつく島もなかった。20分ほどすると「八木さん今日はここで帰らせてもらうわ」と言うとハイヤーに乗って会社に帰ってしまった。予定より早く集まりが終わったので、東京駅の地下でウナギをたべることにした。幕末の志士の話やナスダック市場の動向などを話しながら、私は来月から念願かなって証券会社の株式公開部で働くことになったと打ち明けた。八木さんは「証券会社?」と怪訝な顔をしてそのことはそれ以上聞いてこなかった。帰りがけ丸の内の改札口に出ると、八木さんは「毎朝、大勢の会社員が暗い顔で下をむいてゾロゾロと会社に向かって行くんだよな。皆なんであんなに憂鬱そうで暗いのか」とつぶやくように言った。それから二カ月後、八木さんは大手化学会社を早期退職した。
Saturday, April 08, 2023
回想の八木博氏(3)
それから八木さんが東京本社から水島工場へ出張するときに、必ず呼び出しがかかるようになった。私は特に忙しいということもなかったので、ご相伴にあずかることはやぶさかではなかったが「立派な息子さんが2人いるのに何故、俺なんだろう」という疑問が残った。待ち合わせ場所の新大阪のワシントンホテルに行くと「この人が5年前にインド旅行で一緒になった南田充康さんです」と、緑のシャツを着た50がらみの小太りの男性を紹介してくれた。「八木さん久しぶりだねえ。あいかわらず」と南田さんが問いかけると「この前講演したんだが、俺のあとの演者が堺屋太一で」と言い、八木さんが「南田さん。会長とは変わらず」と言うと「この前、会長から葉書が来たら“貴兄”と書いてあって驚いたよ」とお互いの自慢話をすると呵々大笑した。南田さんは中堅家電メーカーの会長に頼りにされていて経営が行き詰まるとしばしばの相談に乗っているらしい。「インド旅行楽しかったね」「土屋さん、サイババのビブーティって本当なんだよ。サイババがいると横の鏡に茶色い砂がだんだん付着してくるんだ」「ほんとかなあ」「あとアガスティアの葉というのもあるんだよ。ヤシの葉に書かれたテキストで現在、未来を解読できるという言い伝えがあって、通訳の人にどれが自分の葉でどんな運命が待ち受けているか占ってもらおうと思ったもんな」「でも、サイババのところでNHKの取材を受けたのはまずかったな。あれが原因で俺はアメリカに飛ばされちゃったんだから」なんでも八木さん一行がサイババのいる寺院に着いた時、NHKがサイババの特集番組を作っていて、八木さんにサイババのビブーティを信じるか否かインタビューしてきたという。そのインタビューが番組に採用され質問にこたえる八木さんの姿がNHKの全国放送で日本の津々浦々に放送された。また運の悪いことにその映像が八木さんの帰国が遅いと苛立っていた上司が見てしまい、その上司の逆鱗に触れて、八木さんの米国子会社への出向が決まったのだという。「八木さんはそれまでは幹部候補生だったんです。それがインド旅行でそこから外れてしまった」八木さんはまずノースカロライナ州のシャーロットに赴任し、3年ほどしてカリフォルニア州のシリコンバレーに転勤した。「そうしたら俺みたいな奴ばっかりいるんだよ。なんじゃこりゃと思ったよ。話もスムーズに通じるし。居心地がよくなって遂には家まで建てちゃった」私がその破天荒さに驚いていると「出る杭は打たれるというけど、引っこ抜かれてとんでもないところに刺さっちゃったな」と言って笑った。
Friday, April 07, 2023
回想の八木博氏(2)
しばらくして再び八木さんからメールが届いた。「京都の霊山神社にある坂本龍馬のお墓参りに参加しませんか」という内容で、なんでも東京でニュービジネス協議会が開催され参加者の中でから「幕末の怒涛のなかで新たなビジネスを切り開いた坂本龍馬にあやかるべく龍馬のお墓にお参りをして、これからの情報化時代の成功を祈願しよう」と発案する人がいて東京から15人ほどの龍馬フリークが京都に来るとのことだった。参加することを決め、当日待ち合わせ場所に行くと、40から50代の年長者ばかりで20代の私は龍馬墓参団のなかでは最年少でなんとなく面映ゆかった。八木さんが紹介してくれると、皆うやうやしく手をとって握手してくれた。霊山神社の学芸員が30分ほど龍馬の人となりを話し、龍馬と龍馬の傍らでひざまずく中岡慎太郎の像の横に龍馬墓参団の花束が山と積み上げられた。墓参りが終わるととあるスナックで懇親会がおこなわれた。高そうなスナックだったので「お金持ってないのですけど」と言うと「おう。心配するな、金のことは任せておけ」と胸を叩いて言った。恰幅がよく朗らかでたよりになりそうな人だったので、後で幹事の補佐をしている人に「あの人はどういう人なのですか」と尋ねると「Think Japanという団体を主宰している大塚寿昭さんです。ボスと呼ばれています。まあ、あの人の横にいれば、何故この人がボスと呼ばれるかすぐにわかりますよ」と言った。大手通信社の次長だという伴武澄さんの横に座った。最初は羨望の念からわざとそっけない態度をとっていたが、酒が入るとそういうわだかまりがとれて遠慮なく質問した。「主宰されているインターネットコラム萬晩報はどういう意図で始められたのですか」と問うと「管理職になると記事をかかなくてもよくなるのです。僕は生涯現役記者でいたいものですから」と答えた。私は女っ気なしの梁山泊のような男だけの世界がすっかり気に入ってしまった。二次会はおでん屋の屋台だった。二次会も宴たけなわとなった頃、八木さんが「土屋さん。飲んでますか」と声を掛けてきた。「これから皆で伴さんの住んでいる紫竹庵におじゃましようと思っているのだけど来ませんか」と言われ、あまりの僥倖に恐ろしくなって、化けの皮が剝がれるかもしれないと思い、それは固辞した。
Thursday, April 06, 2023
回想の八木博氏(1)
八木博さんと知り合いになったのはメール・マガジンがきっかけだった。シリコンバレーに立ち寄ったことがあり興味があったので、八木さんの発行する「シリコンバレー通信」という週一回発行されるメール・マガジンを購読し貴重な情報源としていた。経済関係の話題に私見を述べたメールを出すと、それに対する見解と「京都の講演会に来ませんか」というお誘いのメールが届いた。「略歴を教えて下さい」というメールが届いたので教えると、八木さんの略歴が返ってきた。東大の大学院で博士号を取得し大手化学会社の米国子会社でMOディスクの開発リーダーだという50歳くらいの人だったので驚いた。京都タワーの下で目印の「AERA」を持ってたたずんでいると、講演会の主催者であるニッセンの社員と八木さんの付き人らしき若者、眼をきょろきょろさせて好奇心旺盛といった感じの眼鏡をかけた八木さんが現れた。しばらく立ち話をしていていると「もう人が来そうにないね」「会場をキャンセルしようか」という会話があり、居酒屋の魚民に入っていった。講演会といっても集まったのはたった4人でしかも講演も中止かと落胆していると、八木さんは居住まいをただし「ここで講演会を始めます」と宣言し、40分程シリコンバレーについて語り始めた。私は4人しか集まらなくても講演会を開いたその誠実さにひかれ「人数じゃなくて中身が大事だという精神がいいですね」と言った。その後、酒が入ると私は「これこれがこういうことでおかしいと思う」とオウム真理教事件にかこつけて東大批判を始めた。お付きの人が私の無礼をたしなめると、八木さんは「いや、この人の言う事にも一理ある」とさえぎった。やがて、懇親会がおひらきになると、私はあれだけ喧々諤々やったのだからこれで終わりだな、と思って挨拶をして大阪のアパートに帰った。
Friday, June 03, 2022
『グローバル経済という怪物』(デビット・C・コーテン:シュプリンガー・フェアクラーク東京)
この本は「世界経済の歴史的変遷」として読むべきではないでしょうか。きわめつけはトインビーの「滅びゆく文明の特徴は画一的で多様性が失われる。上り調子の文明では差異化と多様化がすすむ。画一化は停滞と衰退につながるようだ」グローバリゼーションという現象は肉体的な脅威ではなく、貨幣や資本といった抽象的な象徴によって、国家から活力を奪う。グローバル経済の中に巻き込まれた国家は、ディズニーランドやマクドナルドのハンバーガーのように均質化され、民族的な個性や文化的な伝統は衰退してゆく。アダム・スミスの仮定した小規模経済集団における会社から、国際経済の植民地的収奪を行う大会社(企業)に。会社の不採算部門を自然と資源のある国に事業として売り出し、自国に利益をもたらす怪物に変化する。しかしながら、もはやこれらの植民地的な略奪を可能とするフロンティアは無くなっている。アメリカを主導にNAFTAやGATTという国際機関を通じて貿易の不均衡(自国の文化の押し付け)を生み出してきたが、国際機関もようやく「富イコール金銭的豊かさ=文明度の相違」ではないことに気が付き、WTOを発足。これにより、それぞれの国における天然資源や自然文化が護られ、効果的(!?)な経済配分が行われようとしている。
つまりこれからは極端に言えば、ビジネスと技術発展の場である市場セクター、公益のために強制力を行使する政府セクター、特定の利害を持つ人々の代弁をする市民セクターにそれぞれ分化して金銭的報酬は二の次に働くような流れになるのだろうか。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
Tuesday, May 10, 2022
『酒と戦後派』(埴谷雄高:講談社文芸文庫)
埴谷雄高は荒正人、平野謙、本多秋五、山室静、佐々木基一、小田切秀雄らと創設した「近代文学」の同人であり、『死霊』という形而上学的思弁小説と呼ばれる非常に難解な作品を書いた人である。北杜夫さんの随筆を読んでいると、埴谷さんと会うとあらゆる分野の興味深い話題をとめどなく語りだし、パチンコ玉がじゃらじゃら出てくるようだったと書いている。また、五木寛之さんは饒舌に語る埴谷さんの話の内容があまりにも面白いので、メモをとらせていただきたいと申し出たという。私はこれらのエピソードから、埴谷氏の著書を読んでみたいと『ラインの白い霧とアクロポリスの円柱』という本を買った。しかし、なにせ平凡な中学生だったので途中で「ラインの白い霧」を挫折した。その後、社会人になり『ラインの白い霧』を読んでみるとパルテノン神殿の描写とヨーロッパの歴史に関する蘊蓄が素晴らしく、また「吉本隆明がデモで敗走し塀をこえて逃げた先が警視庁で、吉本は警察庁の玄関から降りてきた」という面白いエピソードまで書かれていた。二匹目の泥鰌を狙って、本屋で『埴谷雄高思想論集』『埴谷雄高文学論集』を買ったがどちらも難解で理解できず本棚の肥やしになってしまった。そして先日、何気なくインターネットで検索してみると講談社文芸文庫から『酒と戦後派』という人物随想録が出ているのを知り、また挫折するのではないかと危惧し値段も文庫本で1,700円と高値だったが思い切って購入した。酒を飲むと誰かれかまわず「馬鹿野郎!!」と叫ぶ石川淳、推理小説の犯人あてゲームが好きだった坂口安吾、犯罪者顔の椎名麟三、一瞥するだけで人物を洞察してしまう武田泰淳、常に四十五度の角度で酒を飲む梅崎春生、思考回転の速い三島由紀夫、スローモーション野間宏、絶えず小説を書く井上光晴、愛妻家島尾敏雄、無口な原民喜、静謐と寂莫の堀辰雄、帯広で療養生活していた福永武彦、「死霊」を十三回読んだ高橋和巳、強靭な精神力澁澤龍彦、古風な言葉使い大庭みな子、ドン・キホーテ壇一雄、二十三歳の大学教授辻邦生、精神科医加賀乙彦、風来坊田村隆一等などさまざまな作家の横顔を活写している。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。
Friday, December 03, 2021
『サリンジャーを追いかけて』(ポール・アレクサンダー:DHC出版)
大学院で社会学を専攻していた友人が村上春樹を趣味と実益を兼ねて熱心に読んでいた。この種の人がたどる一定のコースとして「失われた10年」の時代に活躍したサリンジャーとフィッツジェラルドを読み出して今では原書で「ナイン・ストーリーズ」を読むようになった。しかし、私がサリンジャーの生い立ちや謎の隠遁生活について書かれた『サリンジャーを追いかけて』を薦めたのだが、このような伝記については関心を持てないらしく(小説の価値だけに興味があるらしい)その申し出は断られた。サリンジャーは、地位と富を意味するアッパー・イーストサイド住む商業的な成功をおさめた両親の元に生れた。無名の軍学校を卒業し、ニューヨーク大学に進学するも中途退学し、父の仕事を継ぐべくポーランドのハム工場で働くもこれも続かず、アーサイナス大学というあまり知られていない大学に進学する。ここも「創作をもっと専門的に教えてくれる、分析的な教え方」を求めて、コロンビア大学の聴講生となりウイリアム・バーネットの講座に顔を出すようになる。ここで彼の作品は「作品は洗練され、スマートで凝ったところさえあり、経験の浅い作家としては出色の出来だった」と評価されバーネットの主宰する<ストーリー>誌に掲載されることになり原稿料として25ドルをもらい作家としてデビューする。「マディソン街はずれのささやかな反乱」は<ニューヨーカー>のクリスマス号に掲載する予定になるなど徐々に流行作家の仲間入りにとしての頭角をあらわしはじめた。その後、軍隊生活をおくった後、10年もの間、構想を温めてきた「ライ麦畑でつかまえて」を完成させ、ニューヨーク・タイムスのベストセラー・リストに30週間もとどまり続ける等、驚異的な売れ行きを記録した。やがてベストセラー作家となるにつれ、その喧騒に疲れたサリンジャーはニューヨークを離れ、ニューハンプシャーのコーニックに居を移した。ここから彼の隠遁生活と、出版社との版権や構成に関する激しい争いが起こる。この本を読んで一番思ったのは、もし彼がコロンビア大学のウィリアム・バーネットの講座を受けず、彼の眼にとまらずその献身的な指導を受けなかったのなら、アメリカのその後に続く文学や映画のうねりも生まれなかっただろうし、その前にサリンジャー自身の運命はどうなっていただろうと思うとゾッとしてしまった。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。
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