Saturday, June 02, 2007

高橋是清と福沢桃介

「不撓不屈」の高橋是清と「時代の寵児」福沢桃介。

 対照的な半生を簡潔に綴ってみたい。

高橋是清は仙台藩の命で渡米。ホスト・ファミリーは是清らを召使として使い、「このような目的で渡米したのではない」と反駁した是清を奴隷として売り飛ばしてしまう。

サンフランシスコの名誉領事の計らいで是清は奴隷契約から解放され、帰国した是清は16歳で大学南校(後の東京大学)の助手に。しかしながら、そこで覚えた茶屋遊びで放蕩の限りを尽くし、長襦袢で芝居をみにいっているところを同僚にみつかり退職、馴染みの芸者の家に転がり込む。


唐津の英語学校に就職が決まり奉職するも、再び19歳で上京、大蔵省十等出仕となるが上役と衝突して、かつて助手をやっていた大学南校に学生として入学、「新知識」を吸収し翻訳や予備校講師として働く。

一方の福沢桃介は、慶応義塾で成績優秀、色白で貴公子風であったが、スポーツには自信がない。そこで、一人だけ白いシャツにライオンの絵を描かせ塾の運動会に出たところ、塾長福沢諭吉の目にとまり娘ふさの婿養子に、まさに順風満帆の人生である。



桃介は結婚の条件であった渡米を果たし、学校での勉強よりも実務の勉強と、ペンシルヴェニア鉄道に事務見習いとして入社。賓客扱いであったという。
クリーブランド大統領が富豪の邸に来たときには日本人学生代表として握手、日米の人脈を広げることに尽力した。帰国後は、北海道炭鉱鉄道株式会社に初任給百円という破格の高給で入社。


28歳で官界に戻った是清は文部省、ついで農商務省へ。農商務省の派閥争いで追出される形で、33歳のとき特許制度調査のため渡米。言うべきことをはっきり言う是清はアメリカ人に好かれ、特許長の書記長は生まれた息子にコレキヨ・タカハシと名付けるほど。
日本ではじめて工業所有権保護制度をつくった。


桃介は北海道炭鉱鉄道株式会社に入って活躍するも、結核にかかり療養所入り。長期療養を強いられる。なんとか自活の方法をとあれこれ模索し、株に手を出す。
すると戦後景気で株価が急上昇、桃介は千円の元手で十万円近くの利益を得る。
病気の癒えた桃介は諭吉の甥、中上川彦次郎の世話で、王子製紙の取締役に30歳でつく。


ところが、桃介とは犬猿の仲、井上馨が工場視察に訪れ、原材料、製品の産地、種類、値段についての質問に、虫のいどころの悪い桃介は「一向に存じません。わたしはまだ新参者ですので」をくりかえすばかり、業務に不熱心と烙印を押された桃介は宮仕えは肌に合わぬとばかり、王子製紙を退き、水力発電の開発に尽力する。



ペルー銀山開発の国策会社の代表に指名された是清は、艱難辛苦の果てに現地入りするも、そこで技術者の報告が全くの嘘であったことを知り、落魄。日本の鉱山開発をするも失敗。妻は毛糸編みの手内職、息子たちは蜆売りをはじめると言い出す始末。
みかねた日銀総裁川田小一郎が、ペルー銀山の経過を質し、是清の説明に得心のいった川田総裁は是清に山陽電鉄社長にならぬか、と持ちかける。
しかしながら、是清は「自信のない鉄道社長より玄関番」と固辞し、「日本銀行建築所の端役」に拾われる。
そこで見事な工事監督としての手腕を発揮した是清のその後の栄達は、後の世の人が知るとおりである。



金融界の援助や外資導入によって7つの水力発電所を完成させた桃介は、貴族院にという話が起こったが、
「金がある者は権力や地位がない。権力があり地位のある者は金がない。其処に自然とバランスが取れて徳川の三百年が続いた」
と言って断ったという。

(『野性のひとびと』(城山三郎;文春文庫から抜粋、要約)