Monday, April 24, 2023

『ぴんはらり』(栗林佐知:筑摩書房)

「むかし、あったがだと。山の奥の、山奥の、そのまた奥の在郷にや、鏡てもんが、なかったてや」冒頭から方言で始まるこの小説は、2006年に「峠の春」という題名で発表され、第22回太宰治賞を受章した作品である。新潟県松之山町(現・十日町市)の方言を全篇にわたって自然に何のてらいもなく使いこなしている。その裏には筆者の松之山町の方言や植物の熱心な研究と探求がうかがわれ、その作品は一定のこころよい旋律に乗り、筆は軽妙にして洒脱である。方言はその地方の文化の基盤である。近年の少子化や人口流出で、いつか廃れ絶えてゆくだろう方言が物語により歴史的な道標として、また一箇の作品として結実としている。内容は主人公おきみが、眼の不自由なおハツさんの弾く三味線にひかれたりするが「いっちょめいの村の女(おなご)になりてい」と望み、働き者のおきみは六右衛門の息子巳代吉のもとに嫁ぐことになるが、その縁談はある事件を切っ掛けに破談となってしまう。嫁入り前に好意を抱いていた作次にも無視されてしまい、絶望に陥ったところに、庵主さまが「死んではならねえど。死んではならぬ。どったらに汚れても。おてんとうさまにせっかくあたった命だば。ナァの好きにしてはならぬ」となだめられ、最後に眼の不自由なゴゼンボさんたちの三味線の仲間に入れてもらうべく追いかけてゆく。ちなみに改題した「ぴんはらり」という言葉は、昔話の語りの最後に言う言葉で「とっぴんぱらりのぷう」「こいでいちごさけた」と同様な意味であるそうである。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。

Thursday, April 20, 2023

『とちおとめのババロア』(小谷野敦:青土社)

本作品は2018年3月に「文学界」に発表され話題を呼んだ作品である。小室圭さんと眞子さまの結婚騒動が起こる前である。著者の小谷野敦氏がアマゾンの書評に自ら投稿したコメントによると本作品は「天皇制を批判した小説」であるという。物語は東大卒で現在は女子大学でフランス文学を講じる38歳の大学准教授が、ネットお見合いをするところから始まる。そこで出会った女性が皇室の一員で皇統譜にも記載されている松浦宮の出身のヨウコである。外国文学や映画の話があい意気投合した二人は恋愛関係に陥る。民間人と皇室の交際とはどのようなところに行き、どのような会話をするのか興味をそそられるのだが、二人は喫茶店にいったり相撲にいったりしながら、我々庶民とは及びもつかぬ高度でハイソな会話をおこなっている。最後に波乱はあるものの、両家の両親の承諾を得て二人は無事結婚にこぎつける。通常、皇室に触れることはタブーで腰が引けてしまうのだが、小谷野氏は大胆に皇室の内部に踏み込み皇室の日常をあますことなく描いている。皇室の今を描いた快作。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。

Thursday, April 13, 2023

『太陽の男 石原慎太郎伝』(猪瀬直樹:中央公論社)

私は石原慎太郎氏の円熟期の作品である「法華経を生きる」「弟」「わが人生の時の時」「聖餐」を読んだことがある。親戚が逗子に住んでいた頃があり、昔は夏場などに母方の親類が集まってこぞって海水浴にいったそうです。また石原氏は私の両親と同じ昭和一桁世代であるので、親から受け継いだ当時の時代認識や時代感覚を共有しているため物語にすぐに没入でき、懐かしい昭和の情景をそこはかとなく感じとれました。本編で意外に思ったのは、三島由紀夫氏が小説家として石原氏を強く意識し、いつか石原氏に追い越されるのではないか、という危機感があったという事です。私はこの評伝を読むまで小説家としては三島氏の方が断然上だと信じていましたが、どうもそのようではないようです。私は読んだことはありませんが、石原氏の中期に発表された「亀裂」という長編に触発されて三島氏が「鏡子の家」を書いたそうです。また、これは有名な話ですが、石原氏がベトナム戦争の取材の後ウィルス性肝炎にかかり入院したときに、三島氏から丁重な手紙がとどき、蘇生した石原氏は参議院に出馬する決心をかためたという話ものっています。石原氏の作家としての業績を再評価した作品。(免責事項)このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野に興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めいたします。

Tuesday, April 11, 2023

回想の八木博氏(5)

シリコンバレーに戻った八木さんは、脱炭素化、分散化、デジタル化というエネルギー産業の変革をビジネス機会とするCleantechという分野の市場調査、技術調査、特許調査をおこなうIMANETという会社を設立し、再びシリコンバレーと日本を往復するようになった。八木さんは大阪に用事がある時はリッツカールトンを根城にしていたようで、私はそこの喫茶店でとりとめのない話をした。「八木さん。社名の由来はなんですか」と問うと「人生今しかないじゃないか。それでIMANETだよ」「そんなに生き急ぐのは何故ですか」「シリコンバレーは技術革新の激しいところだからね。今挑戦しなければ人生後悔すると思ったからね」息子さんがアメリカの大学を卒業しヨーロッパの大学院で哲学を学びにいったということも聞いた。一方、青雲の志をもって証券会社に移った私はさえないことこの上なく、顧客に提案する資本政策という表のエクセルの計算がとんでいたり、「プロの投資家」という概念がどうしてもわからず顧客が増資するたびに必ず増資の書類を大阪国税局に届けさせたりした。最後には顧客に信頼してもらうために担当会計士に「シリコンバレーに家を構えたユニークな人がいます。その人を交えて飲みませんか」と言って信頼をかちとろうとしたこともあった。朝7時に出勤しその日の日経新聞を一時間かけて読み、午前か午後に顧客のところに行き、空いた時間に明日の顧客に提案する資料を深夜までかかって作って帰る。そんな日々のなか一年が経ち、人を出し抜いたり出し抜かれたりする中で「確固たる地位を得たい」という不遜なこころが浮かんできた。その日は、二日連続の土砂降りの雨の日だった。八木さんとホテルで会うと開口一番「すみません。もう八木さんに頼るのは止めたいんです。このままじゃ僕は杜子春になってしまう」と言った。「杜子春?」「仙人に眼をかけてもらって仙術で大金持ちになったりするあの杜子春です。このままじゃ僕は最後に杜子春が仙人になりたいと言ったのと同様に八木さんのようになりたいというに決まっています」私は自分の不甲斐なさにいら立ってテーブルを拳固で激しく叩いた。「もう、僕は必要ないんだな」八木さんが言った。「長州の敗北を知った高杉晋作はたった一人で街道をまっしぐらにかけていったんだ。その後に力士隊、奇兵隊がつづいて。もう大丈夫だな」そう言うと、八木さんは立ち上がり握手をした。「これまで本当にありがとうございました」私はホテルの薄暗いロビーに消えてゆく八木さんの姿が見えなくなるまで頭を下げた。

Monday, April 10, 2023

回想の八木博氏(4)

東京に行くこともあった。「日本電算機の石井孝利社長と会うから同席しませんか」新幹線で新大阪から東京まで行き、丸の内の赤い煉瓦造りの円形の駅舎でおちあいタクシーに乗った。「シリコンバレー通信の管理を任せるよ。やってくれるね」と八木さんが言った。単に八木さんが書いた原稿を受信し”まぐまぐ”に配信時間を設定して登録するだけのことなので、否応なく引き受けた。「このあいだ阿刀田高の講演を聴きにいったんだ。そうしたら、阿刀田高が小学校の同窓会に出席した際、むかし先生の発言であの話が印象に残っているというと、先生ともう一人の同窓生だけがその話を覚えていて、他の生徒は誰もその話を覚えていなかったそうなんだ」「本当にメッセージが”伝わる”っていうのはそういうことじゃないのかな」「ええ、そう思います」「だから僕のやっている事、言ったことを後で思い出して、あの時八木さんはこう発言したなとか、あの時はよく分からなかったけど、実はこういう意味だったんじゃないかと気づいたりして欲しいんだ。いちいち土屋さんを呼ぶのはそのためなんだ」と言った。目的地の店に着くと80歳くらいの白髪に眼鏡の老人と背広を着た紳士が座っていた。八木さんが私を「僕のメール・マガジンを”まぐまぐ”で配信してくれている土屋さんです」と紹介すると白髪の老人が驚いた様子で立ち上がり「なに!!”まぐまぐ”。あなたはあの”まぐまぐ”の大川社長ですか」と言った。「違います。”まぐまぐ”を利用してメール・マガジンを発行しているいちユーザーです」と答えると「なんだ違うのか」と酷く落胆した様子だった。一方、石井社長はというと何か心配なことでもあるのか、終始押し黙ったままでとりつく島もなかった。20分ほどすると「八木さん今日はここで帰らせてもらうわ」と言うとハイヤーに乗って会社に帰ってしまった。予定より早く集まりが終わったので、東京駅の地下でウナギをたべることにした。幕末の志士の話やナスダック市場の動向などを話しながら、私は来月から念願かなって証券会社の株式公開部で働くことになったと打ち明けた。八木さんは「証券会社?」と怪訝な顔をしてそのことはそれ以上聞いてこなかった。帰りがけ丸の内の改札口に出ると、八木さんは「毎朝、大勢の会社員が暗い顔で下をむいてゾロゾロと会社に向かって行くんだよな。皆なんであんなに憂鬱そうで暗いのか」とつぶやくように言った。それから二カ月後、八木さんは大手化学会社を早期退職した。

Saturday, April 08, 2023

回想の八木博氏(3)

それから八木さんが東京本社から水島工場へ出張するときに、必ず呼び出しがかかるようになった。私は特に忙しいということもなかったので、ご相伴にあずかることはやぶさかではなかったが「立派な息子さんが2人いるのに何故、俺なんだろう」という疑問が残った。待ち合わせ場所の新大阪のワシントンホテルに行くと「この人が5年前にインド旅行で一緒になった南田充康さんです」と、緑のシャツを着た50がらみの小太りの男性を紹介してくれた。「八木さん久しぶりだねえ。あいかわらず」と南田さんが問いかけると「この前講演したんだが、俺のあとの演者が堺屋太一で」と言い、八木さんが「南田さん。会長とは変わらず」と言うと「この前、会長から葉書が来たら“貴兄”と書いてあって驚いたよ」とお互いの自慢話をすると呵々大笑した。南田さんは中堅家電メーカーの会長に頼りにされていて経営が行き詰まるとしばしばの相談に乗っているらしい。「インド旅行楽しかったね」「土屋さん、サイババのビブーティって本当なんだよ。サイババがいると横の鏡に茶色い砂がだんだん付着してくるんだ」「ほんとかなあ」「あとアガスティアの葉というのもあるんだよ。ヤシの葉に書かれたテキストで現在、未来を解読できるという言い伝えがあって、通訳の人にどれが自分の葉でどんな運命が待ち受けているか占ってもらおうと思ったもんな」「でも、サイババのところでNHKの取材を受けたのはまずかったな。あれが原因で俺はアメリカに飛ばされちゃったんだから」なんでも八木さん一行がサイババのいる寺院に着いた時、NHKがサイババの特集番組を作っていて、八木さんにサイババのビブーティを信じるか否かインタビューしてきたという。そのインタビューが番組に採用され質問にこたえる八木さんの姿がNHKの全国放送で日本の津々浦々に放送された。また運の悪いことにその映像が八木さんの帰国が遅いと苛立っていた上司が見てしまい、その上司の逆鱗に触れて、八木さんの米国子会社への出向が決まったのだという。「八木さんはそれまでは幹部候補生だったんです。それがインド旅行でそこから外れてしまった」八木さんはまずノースカロライナ州のシャーロットに赴任し、3年ほどしてカリフォルニア州のシリコンバレーに転勤した。「そうしたら俺みたいな奴ばっかりいるんだよ。なんじゃこりゃと思ったよ。話もスムーズに通じるし。居心地がよくなって遂には家まで建てちゃった」私がその破天荒さに驚いていると「出る杭は打たれるというけど、引っこ抜かれてとんでもないところに刺さっちゃったな」と言って笑った。

Friday, April 07, 2023

回想の八木博氏(2)

しばらくして再び八木さんからメールが届いた。「京都の霊山神社にある坂本龍馬のお墓参りに参加しませんか」という内容で、なんでも東京でニュービジネス協議会が開催され参加者の中でから「幕末の怒涛のなかで新たなビジネスを切り開いた坂本龍馬にあやかるべく龍馬のお墓にお参りをして、これからの情報化時代の成功を祈願しよう」と発案する人がいて東京から15人ほどの龍馬フリークが京都に来るとのことだった。参加することを決め、当日待ち合わせ場所に行くと、40から50代の年長者ばかりで20代の私は龍馬墓参団のなかでは最年少でなんとなく面映ゆかった。八木さんが紹介してくれると、皆うやうやしく手をとって握手してくれた。霊山神社の学芸員が30分ほど龍馬の人となりを話し、龍馬と龍馬の傍らでひざまずく中岡慎太郎の像の横に龍馬墓参団の花束が山と積み上げられた。墓参りが終わるととあるスナックで懇親会がおこなわれた。高そうなスナックだったので「お金持ってないのですけど」と言うと「おう。心配するな、金のことは任せておけ」と胸を叩いて言った。恰幅がよく朗らかでたよりになりそうな人だったので、後で幹事の補佐をしている人に「あの人はどういう人なのですか」と尋ねると「Think Japanという団体を主宰している大塚寿昭さんです。ボスと呼ばれています。まあ、あの人の横にいれば、何故この人がボスと呼ばれるかすぐにわかりますよ」と言った。大手通信社の次長だという伴武澄さんの横に座った。最初は羨望の念からわざとそっけない態度をとっていたが、酒が入るとそういうわだかまりがとれて遠慮なく質問した。「主宰されているインターネットコラム萬晩報はどういう意図で始められたのですか」と問うと「管理職になると記事をかかなくてもよくなるのです。僕は生涯現役記者でいたいものですから」と答えた。私は女っ気なしの梁山泊のような男だけの世界がすっかり気に入ってしまった。二次会はおでん屋の屋台だった。二次会も宴たけなわとなった頃、八木さんが「土屋さん。飲んでますか」と声を掛けてきた。「これから皆で伴さんの住んでいる紫竹庵におじゃましようと思っているのだけど来ませんか」と言われ、あまりの僥倖に恐ろしくなって、化けの皮が剝がれるかもしれないと思い、それは固辞した。

Thursday, April 06, 2023

回想の八木博氏(1)

八木博さんと知り合いになったのはメール・マガジンがきっかけだった。シリコンバレーに立ち寄ったことがあり興味があったので、八木さんの発行する「シリコンバレー通信」という週一回発行されるメール・マガジンを購読し貴重な情報源としていた。経済関係の話題に私見を述べたメールを出すと、それに対する見解と「京都の講演会に来ませんか」というお誘いのメールが届いた。「略歴を教えて下さい」というメールが届いたので教えると、八木さんの略歴が返ってきた。東大の大学院で博士号を取得し大手化学会社の米国子会社でMOディスクの開発リーダーだという50歳くらいの人だったので驚いた。京都タワーの下で目印の「AERA」を持ってたたずんでいると、講演会の主催者であるニッセンの社員と八木さんの付き人らしき若者、眼をきょろきょろさせて好奇心旺盛といった感じの眼鏡をかけた八木さんが現れた。しばらく立ち話をしていていると「もう人が来そうにないね」「会場をキャンセルしようか」という会話があり、居酒屋の魚民に入っていった。講演会といっても集まったのはたった4人でしかも講演も中止かと落胆していると、八木さんは居住まいをただし「ここで講演会を始めます」と宣言し、40分程シリコンバレーについて語り始めた。私は4人しか集まらなくても講演会を開いたその誠実さにひかれ「人数じゃなくて中身が大事だという精神がいいですね」と言った。その後、酒が入ると私は「これこれがこういうことでおかしいと思う」とオウム真理教事件にかこつけて東大批判を始めた。お付きの人が私の無礼をたしなめると、八木さんは「いや、この人の言う事にも一理ある」とさえぎった。やがて、懇親会がおひらきになると、私はあれだけ喧々諤々やったのだからこれで終わりだな、と思って挨拶をして大阪のアパートに帰った。