Saturday, January 09, 2010

『風媒花』(武田泰淳著:新潮文庫)

 或る識者の随筆に「現代の勇気」と題されたものがあり、ある兵士が憶病であったがため一言も上官の命に反抗せず、好まない仕事も憶病のためとうてい否とはいえず引き受けてしまい、その職責を全うして勇敢なる兵士として死んでいった。彼の勇気は憶病の別名であった、というくだりがありました。


 さらにこの識者は、「戦後の日本を支配した価値体系は、平和、寛容、協調、社会性であり、勇気は、ほとんど徳の中の主要な徳にはいることができなくなってしまいました。」と述べています。たしかに、私が会社に入ってから身に付けたのは「社内での議論はイケナイ」、「議論を白熱させて喧嘩をおこすような人材は論外である」、「上司の命令に少しでも批判めいた言葉をはさむと、そんなことは言わないでくれといわれる」等、理性とはいいませんが自分なりの価値観をさしはさむと、社内で生きにくくなる、という体験にもとづく処世術でした。


 この武田泰淳氏の『風媒花』は、戦後日本 - 戦後処理が未決の占領下、日本の国体さだまらぬなか、社会主義のソヴィエト連邦、共産主義の中華人民共和国、自由民主主義のアメリカ、戦前の国体を維持しようとする少数の日本人が、4つの異なるイデオロギーの脅威のもと、どの理念が覇権をにぎり、戦後日本の国是となるかという不安定な政情のなか、生死をかけてうごめく群像の姿を当時の風俗を交えながら描いた作品です。



 日中戦争に従軍し日本に帰国した峯三郎。官憲の眼をくぐり「中国研究会」に所属し大衆小説を書き妻の蜜枝を養う。そこに妻の弟でロシアの覇権を信じる守、峯の元情婦桃江、富豪で中国人の母を持つ蜜枝の元夫三田村が、この研究会を自らのイデオローグのおき場所として生活しています。中心は帝大に籍をおいていた支那研究の老大家鎌原智雄、父の名声に押されて政治活動にかりだされようとする文雄。陸軍刑務所で兵士生活の大半を過ごしアジテーションが得意な評論家軍地。新聞社の西と高校教師の原、大学講師の梅村、失業者の中井、会社員の黒田などが雑居します。



 話は老大家鎌原智雄の死とその長男文雄の墜落死から急展開します。老大家鎌原や峯の知らないうちに会員の誰かが秘密裏にどんどん膨らませていった新中国反対に対する攻撃的な「中国研究会」の示威活動。その一環とも思えるPD工場における青酸カリ混入未遂事件。軍地が画策する台湾上陸作戦。日本の中ロアの占領下にあった日本において生きる峯とその妻たちは一市民として如何に行動しこの事態をくぐりぬけてゆくか。



 それぞれの人々がさまざまな予兆に基づいて独善的でとんでもない行動をするのだけれども、最後にはその脈絡のないめいめいの行動が、ある一人の人物の良心によって収束して未然に事件が処理される。おおきな騒動と紙一重のところで生きている会員相互のこころがどこかでつながっていた、というような感動を最後に呼び起こしてくれるような作品です。




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