Wednesday, November 21, 2007

『弥縫(びほう)録-中国名言録』(陳舜臣:中公文庫)

■弥縫(びほう)

鎧をつけた平清盛は、息子の重盛がやってきたので、あわてて法衣をそのうえから着こんでごまかそうとした。かきあわせた襟元から、鎧の端がちらりとのぞく。―そんなのが弥縫の一例である。

(中略)
左氏とは左丘明という人物のことで、『史記』の作者司馬遷の文章によれば、失明したことで発奮して、著作活動をしたという。目が見えないのである。左氏本人は、自分の目が縫い合わされているとかんじたのであろうか。そのために、「弥縫」ということばを愛用したのかもしれない。

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「一字(いちじ)の師」(99頁)

現在の文壇には師弟関係といったものはもう存在しないようだ。秘書を使っている人はいるが、「お弟子さん」ということばをきいたことがないから、それに類する人を抱えている作家はいないのであろう。画壇や劇壇の世界では、いまでもちゃんと師弟関係があるらしい。

某展覧会へ行ってびっくりした。会場で羽織袴白足袋の老人は、そばにいた婦人に、最敬礼をしていた。彼らは老人を「先生」と呼び、先生と呼ばれた老人は、そばにいた婦人に、「うちの弟子たちでしてな」などと言っていた。これは敬老精神といった上等のものではなく、封建思想を絵にしイヤらしいシーンであった。いまの文壇にそんな恥ずかしい雰囲気がないのは、まったく幸いといわねばならない。

絵画の世界では、「先生」が「弟子」の絵を直すことがよくある。さすがは先生で、さっと一筆くわえただけで、その絵が見ちがえるほどよくなる。そんな実例をみれば、最敬礼をしてもよいから、先生が欲しくなってくる。詩文では一字を直しただけで、ぜんたいがぐっとよくなることがあり、むかしの人はそれを「一字の師」と呼んでいた。

晩唐の鄭谷という詩人は、僧斉己(せいき)の「早梅詩」の一字を直して、それをみちがえるほど良くしたというので、一字の師といわれるようになったそうだ。どんなところを直したのか、そういわれると興味がわいてくる。

前村、深雪の裏(うら)
昨夜 数枝開く

の句のなかに「数」を「一」にしただけである。早咲きの梅をよんだ詩だが、早咲きであるから、数枝より一枝のほうがたしかにしまったかんじがする。種明かしをすれば、なぁんだ、そんなことか、と思えるのがこのテのエピソードの特徴であろうか。

「一字の師」については、どんな小さなことでも教えてくれた人はみな自分の師である、という解釈もある。
旧時代の中国では、児童の教師は「千字文」といって、基本的な千個の文字をおしえることになっていた。千字を教えてくれた人も先生なら、一字を教えてくれた人もおなじく先生であるはずだ。

ある大学者が一字読みまちがえ、小役人にそれを指摘され、相手を「一字の師」と呼んだ故事がある。吉川英治はよく、「我以外みな我が師」といったことばを色紙にかいたが、それに似たことであろう。謙虚であれ、という意味がこめられているようだ。日本のコトワザにも、

―負うた子に教えられて浅瀬を渡る

というのがある。

われわれは、いつ、どこで、誰に、どんなことを教えられるかわからない。いつでもそれをうけいれる態勢をもたねばならない。そのためには謙虚であるべきだ。一筆で全体もよみがえらせるようなすぐれた師匠、と解するよりは、負うた子も師匠、とするほうがおもしろいように思う。

清末の詩人龔自珍(きようじちん)の詩に、

― 本無一字是吾師(もと一字として是れ吾が師は無し)

という句がある。ほかの解釈もあるが、

「私は一字として先人の文章を師として借用したりしない。すべて独創である」

と読みたい。誇高き文人の自負に、こころよいめまいをかんじるではないか。

(出典:『弥縫(びほう)録-中国名言録』(陳舜臣:中公文庫))


(後日譚)

平清盛と重盛の親子の関係について触れた文章を発見したので付け加えておきます。

    忠ならんと欲すれば則ち孝ならず。

    孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。

    重盛の進退ここに窮(きわま)る。


(出典:頼山陽の『日本外史』(上)

Thursday, November 15, 2007

『サラリーマン タブー集』(三鬼陽之助著:カッパビジネス)(家庭編)

3. 家庭 ―なぜ結婚をするのか

161. 早婚をためらうな
162. 社内結婚をするな 
163. 上役の娘をもらうな
164. 美人を妻にするな
165. 大学出の女と結婚するな
166. 結婚相手の年齢を気にするな
167. 婿養子には行くな
168. 上役に仲人をたのむな
169. 結婚式に上役をよぶな
170. はでな結婚式を挙げるな
171. 離婚をためらうな
172. 三十までは子どもをつくるな
173. 女房・子どもと遊ぶな
174. 女房・子どもの病気を欠勤理由にするな
175. 家事を手伝うな
176. 家で仕事のことを帰るな
177. 「晩酌亭主」になるな
178. 家にはまっすぐ帰るな
179. ワイフに帰宅時間を約束するな
180. 睡眠時間をケチるな
181. 教育パパになるな
182. 浮気を自慢にするな
183. 故郷には帰るな
184. 父親の「七光り」を自慢するな
185. 父親のまねをするな
186. 親兄弟の犠牲になるな
187. 母親の絆にしばられるな
188. 女房の実家にたよるな
189. 身内の人間を会社に来させるな
190. 貯金をするな
191. ボーナスはそっくり女房に渡すな
192. 共稼ぎはするな
193. スネかじりを恥じるな 
194. 「二百五十円亭主」を恥じるな
195. 月賦で買い物をするな
196. 会社の近くに住むな
197. マイホーム作りを急ぐな
198. 社宅に住むな
199. 親との同居にあまんじるな
200. タブーにとらわれるな  (終わり)

(免責事項)
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『サラリーマン タブー集』(三鬼陽之助著:カッパビジネス)(対人関係編)

2. 対人関係編

101. 無能な上役の顔を立てるな
102. 上役の「恥部」にふれるな
103. 上役に私事を相談するな
104. 同僚の私生活は、上役に話すな
105. 上役の太鼓持ちになるな
106. 上役の盆暮れのつけとどけをするな
107. 上役の病気見舞いはするな
108. 上役の自宅は訪問するな
109. 上役の私用を引き受けるな
110. 仕事以外では上役と付き合うな
111. 「会社のために」を、口に出すな
112. 弱者に同情するな
113. 同学の同僚に気を許すな
114. 同僚の学歴を問題に気を許すな
115. 二部卒社員を軽視するな
116. 万年平社員に遠慮するな
117. 「若年寄り」になるな
118. けんかを避けるな
119. 徒党を組むな
120. 社内の同窓生にはいるな
121. 友情と心中するな
122. 義理人情にしばられるな
123. 虚礼にしばられるな
124. 社内の「人気者」になるな
125. 「いい子」になるな
126. 聖人君子ぶるな
127. 自己宣伝をためらうな
128. 孤立を恐れるな
129. 「猛烈」を売り物にするな
130. 喜怒哀楽を表面にするな
131. 喜怒哀楽を表面に出すな
132. しゃべりすぎるな
133. ウーマン・パワーを軽視するな
134. ハイ・ミスをバカにするな
135. 社長秘書を敬遠するな
136. 受付嬢を軽視するな
137. 女子社員にお茶くみをさせるな
138. 社内の女に手を出すな
139. 金がなくてもない顔をするな
140. 金があってもある顔をするな
141. 上役におごらせるな
142. 同僚におごるな
143. 同僚に金を貸すな
144. 賭け金の支払いをケチるな
145. 借金の保証人になるな
146. 守銭奴になるな
147. 金を過信するな
148. なじみのバーに上役を案内するな
149. 酒席での席順を気にするな
150. 酒席で、上役に酌をするな
151. 宴会で隠す芸をするな
152. 宴会で母校の寮歌を歌うな
153. 忘年会の二次会には付き合うな
154. 二級酒は飲むな
155. 酒席で、上役に酌をするな
156. 酒を人間関係の潤滑油にするな
157. 下戸を恥じるな
158. 酒豪を自慢にするな
159. ヤケ酒を飲むな
160. 人間関係の過敏症にかかるな  (つづく)

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Wednesday, November 14, 2007

『サラリーマン タブー集』(三鬼陽之助著:カッパビジネス)(仕事編)

1.仕事

1. 会社と心中するな
2. 組織の奴隷になるな
3. 辞表を肌身から離すな
4. 十年以上同じ会社にいられると思うな
5. 定年制にあまんじるな
6. 社風に染まるな
7. 社則にとらわれるな
8. 社則を破って得意がるな
9. 会社のバッジをつけるな
10. 自社の株価を気にするな
11. 「会社のために」を、口に出すな
12. ゲバ棒精神を忘れるな
13. 「日和見」社員になるな
14. 「他律反応型」社員になるな
15. スペシャリストになるな
16. 「タレント」になるな
17. 「評論家」になるな
18. 趣味で名を売るな
19. 能ある鷹は爪をかくすな
20. スタンドプレーをするな
21. 言い逃れをするな
22. マイペースをくずすな
23. 虚栄心を失うな
24. 常識を軽視するな
25. 人まねを恥じるな
26. 「食わずぎらい」になるな
27. 弱音をはくな
28. 強がりを言うな
29. 本職を内職の犠牲にするな
30. 重役になろうと思うな
31. 「長」の肩書きをほしがるな
32. 上司の人事異動を気にするな
33. 左遷に動じるな
34. 地方転勤でくさるな
35. 「出世主義者」を軽蔑するな
36. 「エリート社員」を手本にするな
37. 社長に惚れるな
38. 社長の訓辞を鵜のみにするな
39. 社長に遠慮するな
40. 下克上をためらうな
41. 上役の顔色をうかがうな
42. イエスマンになるな
43. 上役の責任をかぶるな
44. 上役に対して敬語を乱発するな
45. 勤務中に上役に対して敬語を乱発するな
46. 「義理居残り」をするな
47. 「ほされる」ことを恐れるな
48. やたらにあやまるな
49. 上役の道具になるな
50. 他人の仕事にちょっかいをだすな
51. 他人の職場の悪口を言うな
52. 知ったかぶりをするな
53. 名刺で仕事をするな
54. 仕事をしているふりをするな
55. 忙しがるな
56. 酒を飲みながら、仕事の話はするな
57. タクシーの中で仕事の話はするな
58. 小さな声でしゃべるな
59. 小さな仕事を軽蔑するな
60. 仕事で借りをつくるな
61. 有給休暇を残すな
62. 日曜・祭日には仕事をするな
63. 休み時間には仕事をするな
64. 残業をするな
65. 仕事がすんだら会社にいるな
66. 同僚の遊んだ翌日は遅刻するな
67. 二日酔いの日は出勤するな
68. 朝食ぬきで出勤するな
69. マイカーで通勤するな
70. 恋人に会社へ電話させるな
71. 遊びの服を着て出勤するな
72. 長髪・無精髭を売り物にするな
73. カフスボタンで出勤するな
74. 自分の金で社用をたすな
75. 会社から金を借りるな
76. 安月給にあまんじるな
77. 月給で人を判断するな
78. 接待マージャンで負けるな
79. 取引先のもてなしに溺れるな
80. 安いリベートで身売りするな
81. 適の「使い」になるな
82. ライバル会社の社員を敬遠するな
83. 業界紙の記者をけむたがるな
84. 取引先に自宅の住宅・電話を教しえるな
85. コネで仕事をするな
86. 社用族になるな
87. 組合幹部になることを辞するな
88. 御用組合にはいるな
89. スト破りをやるな
90. 「組合片輪」になるな
91. 組合を出世の手段にするな
92. 組合にたよるな
93. ノンポリ組合員になるな
94. 経営用語をむやみに使うな
95. 「英語屋」になるな
96. 三面記事をばかにするな
97. 経営学の本を読むな
98. 立志伝に惚れるな
99. ハウ・ツウ書一辺倒になるな
100. 修養書を読むな  (つづく)

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Monday, November 12, 2007

『身投げ救助業』(菊池寛著:偕成社)

ものの本によると京都もむかしから、自殺者はかなりおおかった。

都はいつの時代でもいなかよりも生存競争がはげしい。生活にたえきれぬ不幸がおそってくると、思いきって死ぬものがおおかった。洛中洛外にはげしい飢饉などがあって、親兄弟にはなれ、かわいい妻子を失ったものは世をはかなんで自殺した。除目にもれた腹立ちまぎれや、義理にせまっての死や、恋のかなわぬ絶望からの死、かぞえてみればさいげんがない。まして徳川時代には相対死などいうて、一時にふたりずつ死ぬことさえあった。

自殺をするにもっとも簡便な方法はまず身を投げることであるらしい。これは統計学者の自殺者表などを見ないでも、すこし自殺ということをまじめに考えたものに気のつくことである。ところが京都にはよい身投げ場所がなかった。むろん鴨川では死ねない、深いところでも三尺ぐらいしかない。だからおしゅん伝兵衛は鳥辺山で死んでいる。たいていは縊れて死ぬ。汽車はひかれるなどということはむろんなかった。

 しかしどうしても身を投げたいものは清水の舞台から身を投げた。『清水の舞台から飛んだ気で』という文句があるのだから、この事実にあやまりはない。しかし下の谷間の岩にあたってくだけている死体を見たりまたそのうわさをきくと、模倣づきな人間もニの足をふむ。どうしても水死をしたいものはお半長右衛門のように桂川までたどっていくか、逢坂山をこえ琵琶湖へでるか、嵯峨の広沢の池へいくよりほかにしかたがなかった。しかし死ぬまえのしばらくを、じゅうぶんに享楽しようという心中者などには、この長い道程もあまり苦にはならなかったのだろうが、一時も早く世の中をのがれたい人たちには、二里も三里も、歩くよゆうはなかった。それでたいていは首をくくった。聖護院の森だとか、糺の森などにはしいの実をひろう子どもが、宙にぶらさがっている死体を見て、おどろくことがおおかった。
それでも京の人間はたくさん自殺をしていた。

すべての自由をうばわれたものにも、自殺の自由だけはのこされている。牢屋にいる人間でも自殺だけはできる。両手両足をしばられていても極度の克己をもって息をしていないことによって、自殺だけはできる。
ともかく、京都によき身投げ場所のなかったことは事実である。しかし人びとはこの不便をしのんで自殺をしてきたのである。適当な身投げ場所のないために、自殺者の比例が江戸や大阪などにくらべて小であったとは思われない。

明治になって、槇村京都府知事が疎水工事をおこして、琵琶湖の水を京にひいてきた。この工事は京都の市民によき水運をそなえ、よき水道をそなえるとともに、またよき身投げ場所をあたえることであった。
疎水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としてはかなりよいところである。どんな人でも、深い海の底などでフワフワして、さかななどにつつかれている自分の死体のことを考えてみると、あまりいい気持ちはしない。たとえ死んでも、適当な時間に見つけだされて、葬いをしてもらいたい心がある。それには疎水は絶好な場所である。蹴上から二条をとおって鴨川のへりをつたい、伏見へ流れおちるのであるが、どこでも一丈ぐらい深さがあり、水がきれいなのである。それに両岸に柳が植えられて、夜は青いガスの光がけむっている、先斗町あたりの弦歌の声が鴨川をわたってきこえてくる。うしろには東山がしずかに横たわっている。雨のふった晩などは両岸の青や赤の灯が水にうつる。自殺者の心にこの美しい夜の掘り割りのけしきが、一種のRomanceをひき起こして、死ぬのがあまりにおそろしいと思われぬようになり、フラフラと飛びこんでしまうことがおおかった。

しかし、からだの重さを自分でひきうけて水面に飛びおりるせつなには、どんな覚悟をした自殺者でも悲鳴をあげる。これは本能的に生をしたい死をおそれるうめきでもある。しかしもうどうともすることができない。水けむりをたてて沈んでみな一度は浮きあがる、そのときは助かろうとする本能の心よりもほか何もない。手あたりしだいに水をつかむ。水を打つ、あえぐ、うめく、もがく。そのうちに弱って意識を失うて死んでいくが、もしこのとき救助者がなわでも投げこむとたいていはそれをつかむ。これをつかむときには投身するまえの覚悟も助けられたあとの後悔も心にはうかばれない。ただ生きようとする強き本能があるだけである。自殺者が救助をもとめたり、なわをつかんだりする矛盾を笑うてはいけない。
ともかく、京都にいい身投げ場所ができてから、自殺するものはたいてい疎水に身を投げた。疎水の一年の変死の数は、多いときには百名をこしたことさえある。疎水の流域のうちで、もっともよき死に場所は、武徳殿のつい近くにあるさびしい木造の橋である。インクラインのそばを走りくだった水勢は、なお余勢を保って岡崎公園をまわって流れる。そして公園とわかれようとするところに、この橋がある。右手には平安神宮の森にさびしくガスがかがやいている。左手にはさびしい戸をしめた家がならんでいる。したがって人通りがあまりない。そこでこの橋の欄干から飛びこむ投身者がおおい。岸から飛びこむよりも橋からのほうが投身者の心に潜在している芝居気を、満足せしむるものとみえる。

ところが、この橋から、四、五間ぐらいの下流に、疎水にそうて一軒の小屋がある。そして橋からだれかが身を投げると、かならずこの家からきまって背の低い老婆が飛びだしてくる。橋からの投身が、十二時よりまえの場合はたいていかわりがない。老婆はかならず長いさおを持っている。そしてそのさおをうめ声を目当てに突きだすのである。おおくは手ごたえがある。もしない場合には水音とうめき声を追いかけながら、いくどもいくども突きだすのである。それでもつい手ごたえなしに流れくだってしまうこともあるが、たいていはさおに手ごたえがある。それでもつい手ごたえなしに流れくだってしまうこともあるが、たいていはさおに手ごたえがある。それをたぐりよせるころには、三里ばかりの交番へ使いにいくぐらい厚意のある男が、きっとやじうまのなかにまじっている。冬であれば火をたくが夏は割合に手軽で、水をはかせてからだをふいてやると、たいていは元気を回復し警察へいく場合がおおい。巡査が二言三言不心得をさとすと、口ごもりながら、わび言をいうのをつねとした。
こうして人命を助けた場合には、ひと月ぐらいたって政府から褒状(賞状)にそえて一円五十銭ぐらいの賞金がくだった。老婆はこれを受けとると、まず神だなにそなえて手を二、三度たたいたのち郵便局へあずけにいく。

老婆は第四回内国博覧会が岡崎公園にひらかれたときいまの場所に小さい茶店をひらいた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実いり(収入)もあったので、博覧会が岡崎公園にひらかれたときいまの場所に小さい茶店をひらいた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実いり(収入)もあったので、博覧会の建物がだんだん取はらわれたのちもそのままで商売をつづけた。これが第四回博覧会の唯一の記念物だといえばいえる。老婆は死んだ夫ののこした娘と、いえばいえる。老婆は死んだ夫のこした娘と、ふたりでくらしてきた。小金がたまるにしたがって、小屋がいまのような小ぎれいな住まいにすすんでいる。

最初に橋から投身者があったとき、老婆はどうすることもできなくなった。大声をあげて呼んでも、めったにくる人がなかった。運よく人のくるときには、投身者は疎水のかなりはげしい水にまきこまれて、ゆくえ不明になっていた。こんな場合には老婆は暗い水面を見つめながら、かすかに念仏をとなえた。しかし、こうして老婆の見聞きする自殺者は、ひとりやふたりではなかった。ふた月に一度、おおいときにはひと月に二度も老婆は自殺者の悲鳴をきいた。それが地獄にいる亡者のうめきのようで、気の弱い老婆にはどうしてもたえられなかった。とうとう老婆は自分で助けてみる気になった。よほどの勇気とくふうとで、老婆が物干しのさおを使って助けたのは、二十三になる男であった。主家(主人の家)の金を五十円ばかり使いこんだ申しわけなさに死のうとした、小心者であった。巡査に不心得をさとされると、この男は改心をして働くといった。それからひと月ばかりたって、彼女は府庁から呼びだされて、ほうびの金をもらったのである。そのときの一円五十銭は老婆には大金であった。彼女はよくよく考えたすえ、そのころややさかんになりなりかけた郵便貯金にあずけ入れた。

それからのちというものは、老婆はけんめいに人を救った。そして救い方がだんだんうまくなった。水音と悲鳴ときくと老婆はきゅうに身を起こして裏へかけだした。そこに立てかけてあるさおを取りあげて、漁夫が鉾でこいでも突くようなかまえで、水面をにらんで立ってあがいている自殺者の前にさおをたくみにさしだした。さおが目の前にきたときに取りつかない投身者はひとりもないといってよかった。それを老婆はけんめいに引きあげた。通りがかりの男が手伝ったりするときには、老婆は不興(ふきげん)であった。自分の特権を侵害されたような心持ちがしたからである。老婆はこのようにして、四十三の年から五十八のいままでに、五十八のいままでに、五十いくつかの人命を救うている。だから褒賞の場合の手続きなどすこぶる簡単になって、一週で金がおりるようになった。府庁の役人は、「おばあさんまたやったなあ。」とわらいながら、金をわたした。老婆もはじめのように感激もしないで、茶店の客からだいふく代を、もらうように「大きに。」といいながら受けとった。世間の景気がよくてふた月も、三月も、投身者のないときには、老婆はなんだか物たらなかった。娘に浴衣地をせびられたときなどにも、老婆は今度一円五十銭もろうたらというていた。
そのときは六月のすえで例年ならば投身者のおおいときであるのに、どうしたのか飛びこむ人がいなかった。

老婆は毎晩娘とまくらを並べながらきき耳をたてていた。老婆は毎晩娘とまくらを並べながらきき耳をたてていた。それで十二時ごろにもなって、いよいよだめだと思うと「今夜もあかん。」というて目をとじることなどもあった。

老婆は投身者を助けることをひじょうにいいことだと思っている。だから、よく店の客などと話しているときにも「私でもこれで、人さんの命をよっぽど助けているさかえ、極楽へいかれますわ。」というていた。むろんそのことをだれも打ち消しはしなかった。
しかし老婆が不満に思うことが、だた一つあった。それは助けてやった人たちがあまり老婆に礼をいわないことである。巡査のまえでは頭をさげているが、老婆にあらためて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日あらためて礼をいうものはほとんどなかった。
まして後日あらためて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日あらためて礼をいいにくるものなどはひとりもない。「せっかく命を助けてやったのに薄情な人だなあ。」と老婆は腹のうちで思っていた。

ある夜、老婆は十八になる娘を救うたことがある。娘は正気がついて自分が救われたことを知ると身も世もないように、泣きしきった。やっと巡査のすきを見てふたたび水中に身をおどらせた。しかし娘はふしぎにもまた、老婆のさしだすなおに取りすがって救われた。
老婆は再度巡査に連れられていく娘のうしろ姿を、見ながら、「なんべん飛びこんでもやっぱり助かりたいものだなあ。」というた。
老婆は六十に近くなっても、水音と悲鳴とをきくとかならずさおをさしだした。そしてまたそのさおをさしだした。そしてまたそのさおに取りすがることを拒んだ自殺者はひとりもなかった。助かりたいから取りつくのだと老婆は思っていた。

ことしの春になって、老婆の十数年来らいの平静な生活を、一つの危機がおそった。それは二十一になる娘の身の上からである。娘はやや下品な顔だちではあったが、色白であいきょうがあった。老婆の遠縁の親類の二男が、徴兵から帰ったら、養子にもらって貯金の三百幾円を資本として店を大きくするはずであった。これが老婆の望みであり楽しみであった。
ところが、娘は母の望みをみごとにうらぎってしまった。彼女は熊野通りニ条下るにある熊野座という小さい劇場に、ことしの二月から打ちつづけている嵐扇太郎という旅役者とありふれた関係におちていた。扇太郎はたくみに娘をそそのかし、母の貯金の通帳を持ちださせて、郵便局から金を引きだし、娘を連れたままどこともなく逃げてしまったのである。

老婆には驚愕と絶望とのほか、何ものこっていなかった。ただ店にある五円にもたりない商品と、すこしの衣類としかなかった。それでもいままでの茶店をつづけていれば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女には何の望みもなかった。

ふた月ものあいだ、娘の消息を待ったが徒労(むだな骨折り)であった。彼女にはもう生きてゆく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。いく晩もいく晩も考えたすえに、身を投げようと決心した。そしてたえたい絶望の思いをのがれ、一つには娘へのみせしめにしようと思った。身投げの場所は住みなれた家のちかくの橋をえらんだ。あそこから投身すれば、もうだれもじゃまする人はなかろうと、老婆は考えたのである。
老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分がすくった自殺者の顔がそれからそれからと頭に浮かんでしかもすべてが一種みょうな、皮肉なわらいをたたえているように思われた。しかしおおくの自殺者を見ていたおかげには、自殺をすることが家常茶飯のように思われて、たいした恐怖をも感じなかった。老婆はフラフラとしたまま欄干から、ずり落ちるように身を投げた。

彼女がふと、正気づいたときには、彼女の周囲には巡査とやじうまとが立っている。これはいつも彼女がつくる集団とおなじであるが、ただ彼女のとる位置がかわっているだけである。やじうまのなかには巡査のそばに、いつもの老婆がいないのをふしぎに思うのさえあった。

老婆は恥ずかしいくらいのような憤ろしいような、名状しがたき不愉快さをもって周囲を見た。ところが巡査のそばのいつも自分が立つべき位置に、色の黒い四十男がいた。老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついたとき、彼女はつかみつきたいほど、その男をうらんだ。いい気持ちに寝入ろうとするのを、たたき起こされたようなむしゃくしゃした、はげしい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。
男はそんなことを少しも気づかないように「もう一足おそかったら、死なしてしまうところでした。」と巡査に話している。それは老婆がいくども、巡査に話している。それは老婆がいくども、巡査に話している。それが老婆がいくども、巡査にいうおぼえあることばであった。そのうちには人の命をすくった自慢が、ありありとあふれていた。

老婆は老いた膚が見物にあらわに、見えていたのに気がつくと、あわてて前をかきあわせたが、胸のうちは怒りと恥とで燃えているようであった。

見知りごしの巡査は、「助ける側のおまえが自分でやったらこまるなあ。」というた。
老婆はそれをききながして逃げるように自分の家へかけこんだ。巡査はあとからはいってきて、老婆の不心得さをさとしたが、それはもう幾十ぺんもききあきたことばであった。そのときふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、おおくのやじうまがものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のようにかけよって、はげしい勢いで戸をしめた。

老婆はそれいらいさびしく、力なく暮らしている。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰えりそうにもない。泥のように重苦しい日がつづいていく。
老婆の家の背戸(うら口)には、まだあの長い物干しざをが立てかけてある。しかしあの橋から飛び込む自殺者が助かったうわさはもうきかなくなった。

(出典:『ジュニア版日本文学名作選』25『恩讐の彼方に』偕成社出版)

Saturday, November 10, 2007

こんな生きかたもあります

Sister Wendy Becker has been a nun for nearly 50 years, since she was 16. Most of the time she lives in solitary confinement in in caravan in the grounds of a Carmelite monastery in Norfolk, often not speaking to anyone for 22 hours a day. But every few months she leaves her caravan and travels round Europe, staying in international hotels and eating in famous restaurants. Why is she leading this double life?
How does a nun who has devoted her life to solitude and prayer become a visitor to the Ritz?

Sister Wendy has a remarkable other life. She writes and presents an arts programme for BBC television called ‘Sister Wendy’s Grand Tour’. In it, she visits European art capitals and gives her personal opinions on some of the world’s most famous works of art. She begins each programme with with these works of art. She begins each programme with these words: ‘For over 20 years I lived in solitude. Now I’m seeing Europe for the first time. I’m visiting the world’s most famous art treasures’.

She speaks cleary and plainly, with none of the academic verbosity of art historians. TV viewers love her common-sense wisdom, and are fascinated to watch a kind, elderly, bespectacled, nun who is so obviously delighted by all she sees.

They are infected by her enthusiasm. Sister Wendy believes that although God wants her to have a life of prayer and solitary contemplation, He has also given her a mission to explain art in a simple.

‘ I think God has been very good to me. Really I am a disaster as a person. Solitude is right for me because I’m not good at being with other people. But of course I enjoy going on tour. I have comfortable bed , a luxurious bath and good meals, but the joy is mild compared with the joy of solitude and silent and good meals, but the joy is mild compared with the joy of solitude and silent prayer. I always rush back to my caravan. People find this hard to understand. I have never wanted anything else; I am a blissfully happy woman.

Sister Wendy’s love of God and art is matched only by her love of good food and wine. She takes delight in porting over menus, choosing a good wine and wondering whether the steak is tender enough for her to eat because she has no back teeth. However, she is not delighted by her performance on television.

‘ I can’t bear to watch myself on television. I feel that I look so silly― a ridiculous blackclothed figure. Thank God we don’t have a television at the monastery. I suppose I am famous in a way, but as 95% of my time is spent alone in my caravan, it really doesn’t affect me. I’m unimportant.’

Sister Wendy earned £1,200 for the first series. The success of this resulted in an increase for the second series. The money is being used to provide new shower rooms for the Carmelite monastery.

(”Intermediate Student's Book” Titled:Liz&John Soars、Publisher:Oxford university press)

Wednesday, November 07, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第5講 解釈学」(前)

哲学の巨人、ハイデガー(ドイツ哲学者)が登場します。

哲学者木田元氏は氏を賞してこのように述べています。

「『存在と時間』という本は、異様な魅力をもった本である。現代の哲学思想に通じている研究者たちに、ニ十世紀前半を代表する哲学書を一冊だけ選べと言えば、大半の人が『存在と時間』を挙げるのではないだろうか。(中略)サルトルの『存在と無』などは及んだ影響の広がりから言えばもっと大きいかもしれないが、学問的評価という点では比較にもならない」
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

マルティン・ハイデガーがはじめて哲学に目醒めたのは十八歳の時フッサールの先生、ブレンターノ(*1)の本を読んだ時です。二十歳で南ドイツのフライブルク大学へ入学。二十三歳で卒業。普通の人ならそれから何年もかかるところを、翌年に、教授になるための論文を仕あげて合格。さらに、教授の資格をとるために、講義資格を得るための試験講義というものをやるのですが、これも同年に講義し合格。

1916年フライブルグ大学に教授としてフッサール(*2)がやってきました。フッサールはハイデガーをたちまち気に入ってしまい弟子として、そして後継者として育てようと7年間現象学を叩き込みました。

 ところが1923年ハイデガーがマールブルグ大学の教授として招聘されると、ハイデガーはディルタイ(ドイツ哲学者)の『世界観の哲学』や『生の哲学』に関心を向けはじめました。その頃、マールスブルグ大学でハイデガーから教わっていた三木清(日本哲学者*3)が羽仁五郎(日本哲学者*4)に以下のような手紙を送っています。

「ハイデッカーはフッサールのフェノメノロギーに残っている自然主義の傾向を離れて精神科学のフェノメノロギーをたてようとしているが、彼がこの方面でどれほど深く行っているかは別として、とにかく目論見は面白い。フッサールの『イデーン』よりも『論理学研究』の方を重く視る彼の考えも面白い。ハイデッガーはディルタイを尊敬し、私にもディルタイを根本的に勉強するように勧めている」(大正12年12月9日付)
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

後継者ともくしていたフッサールはハイデッガーが離れていってしまうことに危惧を抱き、1927年の夏フッサールはハイデッガーをフライブルグへ呼び寄せ『大英百科事典』に光栄にも『現象学』という項目があらたにできるようなのでこの項目を共同執筆しようとしました。しかしながら師の温かいこの試みも、両人の意見の相違により頓挫する。

フッサールは『超越論的現象学』を唱えました。

「フッサールは理念の衣(数学および数学的自然科学)こそが近代的意識にとってはもっとも根深い先入見であるが、超越論的現象学はこの先入見を排除することによって根源的な生活世界に立ち還り、そこから逆にこの理念の生成を開明しようというのである」(*5)

一方、ハイデッガーは『現存在』を唱えました。

「人間的現存在に即して存在の真の意味を問おうとするには、なにはさておきまずこの現存在の実存、つまり「その存在をおのれの存在として存在しなくてはならない」という固有の在り方を分析し、しかも、浄化的反省とでもいうべきものによってそのもっとも本来的な在り方を浮かび上がらせなくてはならない。言いかえれば、われわれが「さしあたりたいていのばあい」そこで生きている「自然的態度」―ハイデガーはこれを「日常性」とよぶ(*6)

つまりハイデガーに言わせれば、『不安』という体験はフッサールの対象としては扱えない。
つまり「世界があってこそ人間が存在しえる」のではなくて「人間という存在があってこそ世界がある」のではないかと唱えたのである。

フッサールのいう「世界を構成する主観を持った人間までが存在者でない」(*注1)とは言えないのではないか、むしろハイデガーは「他の存在と、人間的現存在のありかたがまったく異なっているということではないか」(*注2)と主張し『現存在』ということばを造りました。

結局、この師弟関係は噛み合わないままでしたが、ハイデガーは『存在と時間』を書き上げ、その本の冒頭にフッサールは献辞を捧げました。フッサールはフライブルク大学を停年で退職し後継者としてハイデガーを就任させました。

しかしながら、その2・3年後『存在と時間』を熟読したフッサールは現象学を歪めたものだと主張しハイデガーを批判しました(つづく)

(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(参考文献:『現象学』(木田元著:岩波新書)

(*1)ブレンターノ
「真面目な文学部唯野教授 第4講 現象学」(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-10-05)
(*2)フッサール
「真面目な文学部唯野教授 第4講 現象学」(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-10-05)
(*3)三木清
哲学者・評論家。京都大学哲学科で西田幾多郎に学んだ後、1912年ドイツに留学。1924年からハイデッガーのもとで研究した。『唯物史観と現代の意識』『構想力の論理』等。治安維持法違反の容疑で拘束され獄死。
(*4)羽仁五郎
歴史家・評論家。ハイデルベルグ大学に入学。リッケルトンのもとで歴史学を学んだ。主著に、軍部の弾圧に抗して発表された『明治維新』『白石・諭吉』『ミケランジェロ』『都市の論理』
(*5)『現象学』(木田元著:岩波新書)61頁
(*6)『現象学』(木田元著:岩波新書)89頁
(*注1)「ヨーロッパでの絶対ということは、Godがそうであるように、如何なるものにも依存しないものをいう。 その上、Godは哲学的絶対者であるだけでなく、きわめて能動的で、まず自分に似せて人間をつくっただけでなく、この世のすべてを創造した」という西欧の絶対の価値観(『文藝春秋』2006年1月号「司馬さんの予言」『この国のかたち』 二 「45 GとF」)
(*注2)筆者の勝手な解釈なのだが、「如来」はすでに存在している世界をみとめた、という存在である」という観念に近いのではないかと解する(『文藝春秋刊』2006年1月号「司馬さんの予言」『この国のかたち』 二 「45 GとF」)


次回は「第5講 解釈学(後)」を割愛させていただきます。ご興味のある方は『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)(P159~P168)をお読み下さい。



(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

Thursday, November 01, 2007

遠いアメリカ

8年前の記憶です。くだらない記憶ですがよろしければご覧ください。

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初春、日本から太平洋を横断してサンフランシスコに至るまで都立大学高専講師のH氏とその同僚某氏と同席した。何でもアラスカで開催される学会に出席されるとのことで父と同じ系列の学校の方だったので非常に話が弾んだ。延々と海がつづくなか十七時間後、雲間から整然と箱庭のようにつくられたサンフランシスコの街がようやく時折顔をみせた。何と美しい街か、と思った。

 霧で私がフライトを予定していた便が欠航するとのことだったので、前の便の空席に慌てて申し込んで荷物のカウンター・マンにその旨をつたえた。果たして荷物が届くのか不安だった。サンフランシスコ空港からセスナ機でシアトルに向かうと通路沿いの外国人が熱心に小説を読んでいた。私はといえばセスナ機が雲海に入っていくなかでいっそこのままセスナ機ごと爆発したらいい、というような心境だった。

 シアトル空港に着くと入国審査官(だと思う)のお姉さんが、いきなり子供をあやすように “ Welcome to Seattle” と言いながら笑顔をつくって私に向かって手を振ってきたのに驚かされた。その女性とはほぼ同じくらいの身長だったのだが、子供と間違われているのではないかと思いパスポートを出すと、案の定“Oh,Sorry Mr.”と言っていそいそとスタンプを押してくれた。とても27歳には見えなかったのでしょう。

また、空港の中でお婆さんに物を尋ねたとき、ついつい90(ninety)と19(nineteen)をいい間違えてしまった。するとお婆さんは何度も、“nineteen、nineteen”と繰り返し私に練習をするように迫ってきた。その様子を見た黒人の警備員が「この人は外国人なんだから、そんなことさせなくてもいいんだよ」とお婆さんに言うと、お婆さんは「何言っているの若いうちからこういう訓練をしなければ云々」と口論を始めてしまった。
すると、たちまち人だかりが出来てしまい私は“Thank you Mrs.grandmother.”と言い残して人だかりの中から消えた。とても27歳には見えなかったのでしょう。

シアトル空港からスペース・ニードルまで行くバスに乗ろうとしたら、皆チケットらしきものをポケットから出して車掌に渡している。チケットなどあるはずもなく困っていたら、列の後ろの女の子が自分のチケットをちぎって私に渡すとそそくさとバスに乗り込んだ。
バスのチケットをタダでもらったとあらば日本人としての沽券に関わると、くだんの少女を探し出しチケット代を払うと言ったら,“No. I gave you this ticket. No money.”と言われた。アメリカというと犯罪と殺人の多発地帯と思い込んでいただけに、意外とアメリカ人ってのは優しくていい人が多いんだなぁと思った。

最後にシアトル郊外のスペース・ニードルを歩いていると、オバさん3人組が、私の方を指差して“Look that Indian!!‘’と街中で珍獣をみつけたような凄まじい勢いで叫んでいた。顔の色は白けれどイスラム系の彫の深い顔、されど身体的には脆弱な感じ。私は非常に珍しい種族だと思われたのだろう。

バガボンド・インというホテルに宿泊した。30分ほどするときちんとサンフランシスコから荷物が届いた。あらためてアメリカの流通産業の正確さに驚ろいた次第である。
そこの裏道を散歩しようとしていたら、しきりと車のなかから小指を立てて男たちが手をあげる。ヒッチ・ハイクをしている人と勘違いされているのだろうか、とそのとき思っていたのだが、後で調べてみるとその場所は男娼が拾われる場所であったそうな(ちなみにシアトルは治安が全米で2番目によい)

バガボンド・インをチェック・アウトすると黒人の親切なカウンターレディに”I owe you. You owe me.”と言われた。後ろにはギッシリ黒人の運送業者の方々がきちんと整列して並んでいて、「黒人は危険である」という認識も変わったし非常に簡素ではあるがたのしいホテルだったと思う。

 次回、サンフランシスコ空港からセスナ機でシアトルに向かうと通路沿いの年の頃70歳過ぎの外国人のお婆さんがナップサックに入れたおむすびのような食べ物を凄まじい勢いで食べていて私は驚愕した。私はこのときは体力的にも心理的にもぼろぼろで初回時のような清々しさがなかった。陰鬱な思い出ばかりである。

 初秋、シアトル空港に着くと入国審査官にたどりつくまで長蛇の列。入国審査官のところにたどり着くのに30~40分かかった。「今夜何処へ泊まるのか?」と訊ねられて「スペース・ニードル」とこたえると「あなたは公園に泊まるのか?」と尋ねられたので「いや、ちゃんとホテルに泊まります」と答えた(私はスペース・ニードルの近くに泊まるのだ、と答えた。おそらく私の顔は白い顔ながらイスラム系の顔なので不法侵入者と間違えられたのでしょう)

 立派なホテルに泊まったのだが食事が口に合わない。しかたなくホテルのピザを頼んだ。すると長身のイタリア系のボーイが何故か必要以上に肛門を引き締め爪先立ってピザを運びに入ってきたので驚愕した。ピザは夕食だけでは食べきれなかったので3~4日そのままおいて置いた。するとチェック・アウトの際、ヒスパニック系のホテルマンが「二度と来るな」という態度で私の勘定を済ませた。

 スペース・ニードルから歩いて市街地まで戻ろうとしたら、中国人の軽自動車に乗った中年の女性が「チャイニーズ・タウンに行くの?乗りなさい」と言ってくれた。私が少し躊躇していると向こうも私が中国人でないことに気がついたのだろう、「あ、この人違う」といった風情ですぐに去ってしまった。

 ながいながい小山のような坂を上り下るとそこは中華街だった。中国人・朝鮮人・日本人が共存してすんでいるのだが、最終的には雑然とした中華文明に飲みこまれてしまう。私の目的は日本人が初めて開いたという「宇和島屋」と言うショッピングセンターを見にいくことであったのだが、残念ながらその宇和島屋は日本ではどこにでもある小さなショッピング・センターに過ぎなかった。19世紀にシアトルにたどりついた日本人なんて西洋人から疎外されて中華文明に吸収されてしまう、そんな存在だったんだ、と再認識した。キング・ドームに近づくと黒い皮のジャンパーに鎖を羽織った屈強そうな黒人が二人現れた。あわてて市内列車に乗りこんだ。

 再びながいながい坂を上ると、整然と茶色いタイルが敷きつめられたシアトルの魚市場に出る。防波堤の上に登って湾曲した港をながめていると吐く息が白いのに気がついた。


(2005年4月16日(土)記、一部改善)


(後日譚)
日本人はアメリカ人から見ると非常に若く見えるといいます。当時27歳だった私も10歳くらい年若に見えたのでしょう。アメリカ人の人から見れば、おそらくティーン・エイジャーの若者が空港に降り立ったようにみえたのでしょう。二回目にシアトルに行ったときは「顔はこころを顕すといいます」、ぼろぼろの心理状況でおそらく私は貧しい人にみえたのでしょう。

個人的な理由により個人的な体験を綴るのは今回で止めさせていただきます。
私は一介の素浪人ですので、個人的な体験を一切書いてはいけないのです。ご了承ください。

Wednesday, October 17, 2007

『構造改革とは何か』(猪瀬直樹著:小学館)

姜尚中氏曰く

「学生のなかには「先生、ニューヨークに行ったけれど、汚らしい街で、東京の方がきれいですよ。もうアメリカを追い越しましたね」と平気で言う人もいます。そのとき日本はもしかしてパックス・ジャポニカになるのではないかと思いました。人が無重力状態にいる、というか」

東京の摩天楼を見ているとそんな感想を抱いてしまう人もいるかもしれません。

『構造改革とはなにか』を読むとその表面的な繁栄の膨大なツケをこれから年金や税金で払っていかなくてはならない、という事実に気付かされる。

公的部門の債務は90年以降に膨大に増えている。

「バブル崩壊の後なのに何故?歳入が減ったからなのか?」

という疑問が生じるのだが、事実はこういうところではなかろうか?公的部門はバブル時代にさらに経済は上向くと考えて右肩上がりの予算計画を立てて大型開発計画を建てて債券を大量に発行する。お役所は採算度外視で土木建設工事を予算どうり執行しようとして継続し続けた。その債券の償還費用が莫大なものになって90年以降大きな債務として顕在化した。さらに借金を増やしながら建設工事を続けようとした省庁に、2001年の構造改革でこれ以上の建築構造物はいらないということで小泉元首相と猪瀬氏がストップをかけた。

いわゆる「行政の事業化」を完全凍結し、「一般会計の財投化」を防いだ、いうことである。

もう一つ気付かされたのは、本丸は赤字で苦しい苦しい、と訴えて予算で莫大な補助金や給付金をいただいて、じつはちゃっかり本丸を取り囲む無数の膨大な数の櫓(=子会社、ファミリー企業)は大いに儲かっている事実である。民間との競争もないからいわば無風地帯だ。しかも悪い事に、大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設省、郵政省等自分たちの省内のお仲間で割りのいい商売をやっていると言うんだからいただけない。民業圧迫というのも頷ける。

単純に言えば

「省庁も連結決算してみなさい、そうすればそんなに救いのないような状態ではない」

ということである。

小泉首相が

「すべての特殊法人は廃止か民営化か」

と一喝し大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設省、郵政省に連なる無数のまたたく星のような数の特殊法人を一気に爆破させ民営化の道筋をつけたことには拍手喝采します。

もう一つ気付かされたのは、本丸は赤字で苦しい苦しい、と訴えて予算で莫大な補助金や給付金をいただいて、じつはちゃっかり本丸を取り囲む無数の膨大な数の櫓(=子会社、ファミリー企業)は大いに儲かっている事実である。民間との競争もないからいわば無風地帯だ。しかも悪い事に、大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設業、郵政省等自分たちの省内のお仲間で割りのいい商売をやっていると言うんだからいただけない。民業圧迫というのも頷ける。

単純に言えば

「省庁も連結決算してみなさい、そうすればそんなに救いのないような状態ではない」

ということである。

小泉首相が

「すべての特殊法人は廃止か民営化か」

と一喝し大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設省、郵政省に連なる無数のまたたく星のような数の特殊法人を一気に爆破させ民営化の道筋をつけたことには拍手喝采します。

 従来、「財政投融資の資金の原資がどう集められ、どう運用されるかについて、国民の関心は深いとはいえないし、また現行財政制度のもとでは国会の審議の正式な対象となっていないことは、問題だといってよい」(*1)
とされてきましたし、

また、「財投計画の編成と実施には、国会の審議権もあまり及ばない。このことは、それなりに理由があってそうなったのであるが、財投編成過程やひいては財投の機能などからみて、それでいいのかどうかあらためて検討しなおす問題をひそめているといわなければならない」(*2)

という性質を持つ不透明な財政投融資について充分な審議がなされないまま破壊してしまったことに一抹の不安をおぼえます。

この大規模な爆破はせめて特殊法人廃止後の二次工事にすべきではなかったか。そんな思いもします。

西南戦争の際、熊本城の天守閣が吹っ飛んだとき民衆は、

「天守閣まで壊す奴がいるかい」と慨嘆したそうですが、

今の私は「グラットストンがつくった郵便事業を壊す奴があるかい。橋本内閣の金融ビックバンの後みたいにならなきゃいいけど、と思ったら事務処理の方は民間人が入ってきてトヨタのカンバン方式で混乱をおさめた。これには驚いた」

という心境です。

それにしても、10年前にこのことに気が付き、すさまじい取材力と自ら陣頭指揮にたって国難を救った猪瀬直樹氏に敬礼。

(*1)(*2)『財政投融資』(遠藤湘吉著:岩波新書)による

林業に興味の或る方は、『自然学の展開』(今西錦司:講談社学術文庫)をお読みください。


(後日譚)
会計検査院の資料及よびその他の資料をめぐって、故石井紘基議員及よびその関係者がまきこまれた事件を思いだしてください。私は政治やあらゆる物事に物見遊参で立ち入るのは避けています。


(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

Sunday, October 07, 2007

ノスタルジー一般教養

 私の学生時代は第三次べビーブームの時代で大学も暫定措置として定員枠を増やしました。

その結果、一般教養の必修科目になるとまさにマスプロ教育そのもので大教室に400人やら500人が収容されるという事態が起こり、まともに先生の声が聞こえない状態でした。

そんな状態だから、学生も授業中に大学の長いすで寝る奴はいるわポップコーンをむさぼり食う奴はいるは、ひどい人になるとサークルの仲間内で勝手なおしゃべりを始めたりするわけです。

そのなかで「宗教学」を担当していた森田先生という人が考え出したのは「諸君はかくかくしかじかの日に出席して試験さえ受ければ単位をやる」としたわけです。

私も単位さえ取れればいいと思っていたので、指定された日に授業に出てみると

「今から配布する紙に学部と学籍番号を記入して箱の中に入れなさい」

と言い、なんとその先生自ら400人から500人いる学生たちに白い切符大の紙を1枚1枚丁寧に生徒に直接手渡していったのです。

老教授は「君たちの期待するものに対して私のできることはこれくらいのことです」といいたかったに違いありません。つまり学問をもって対価とすることができ得ない(=つまり、学生に学習意欲がない)から、400枚から500枚の紙片を誠意をもって配るしかない、という訳です。

Friday, October 05, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第4講 現象学」

「アロンは自分のコップを指して<<ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!>>
サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それはかれが長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるがままの事物を、・・・・・そしてそれが哲学であることを望んでいたのである」
サルトルがはじめて現象学と出会ったときの情景を、シモーヌ・ドゥ・ボーヴァールが『女ざかり』の中でこう描いてみせている。1932年、ベルリンのフランス学院で歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していたレーモン・アロンがパリに帰省し、モンパルナスのとあるキャフェでサルトルやボーヴォワールと一夕を過ごした折の話である。
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

第一次大戦中の前からイデオロギー危機だといわれていてヨーロッパではあらゆる価値が根底から揺さぶられていました。哲学は実証主義と主観主義に分裂し、若者は何を信じてよいのかわからなくなっていました。そこへ現れたのが現象学だったのです。

現象学の主唱者、フッサール(ドイツ哲学者)とはどんな人だったのでしょうか。フッサールがゲッチンゲン大学やフライブルグ大学で講義をしたところ、最初はギッシリだった教室にだんだん空席が目立ちはじめて、最後は誰もいなくなったといいます。

このフッサールの講義の様子を「フライブルグ詣」に出掛けた田辺元、高橋里美、九鬼周造、三宅剛一のうち高橋里美(日本哲学者)が次のように記しています。

「彼の講義が諄々として説いては倦まざるの程度を遥かに通り越して、恰も回転する車輪の如くに、此の時間も、次の時間も、またその次の時間も、幾回となく同じ様な事を倦まず墝まず反覆し、一週四時間の講義が一学期もかかって、ほんの「現象学的還元」を漸くにして終わるだろうといふことは、誰が想像し得ようか」(フッセルの事)

この現象学は、ジャン=ポール・サルトル(フランス哲学者作家)の『存在と無』に大きな影響を与え、西田幾多郎(日本哲学者)も明治四十四年にフッサールを紹介しています。

フッサールの弟子ハイデガー(ドイツ哲学者)は『解釈学的現象学』をあらたに始め、『存在と時間』を著しました。

この思想が流行したのは敗戦後、面白いことに第一世代のSF作家が若い頃によく読まれています。筒井康隆氏然り、小松左京氏はフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を大学ノートに全部書き写したといいます。

それではフッサールの「現象学」とはどのようなものだったのでしょうか。

フッサールは哲学とは、人を感心させる体験や知識の多さとか、ひとを感動させる心の広さや深さ、ひとを驚かせるあたらしい視点とか思考だとか、そんなものじゃないんじゃないか、と考えました。

そんなことよりも、ものをありのままに見る能力とか、考え方の筋道をきちんとたどる能力を学ぶべきではないかと考えました。

普通の人間は自分の生きているこの世界は、ちゃんとそこに存在しているし、わたしたちが見たり読んだり聞いたりしているその世界についての情報は、だいたいにおいて正しいという考え方をもっています。

しかしながらフッサールはこうした『自然的な態度』というのがまず問題であると考えました。そういうものをすべてカッコの中へ入れて横に置いておけと言いました。

何故そんなことをするのかというと、必ずしも人間の意識するものは実在するとは限らないからです。

例えば、大きな翼をつけた男が「田中です」と現れて挨拶をしてあなたの頭上を羽ばたいて去ってゆく。こんな事ありえませんよね。

次に、あなたが会社の採用面接で応募書類を見てみると、そのなかに「原民喜」という名前を見つけたとします。文学好きなあなたは広島の原爆詩人、黒い丸眼鏡を掛けた原民喜を思い浮かべる。そして何故か、遠藤周作さんが少女との映画を見に行く約束を破ると、原民喜が現れて「キミガ、アノヒトヲオイテキボリニスルダロウトオモッタカラ、ミニキタンダ」と咎める哀しいエピソードを思い出したりもする。上司から「おい君」と言われてわれに返る。

一のように実在しないものを意識したり、ニのように意識を意識できるのは、フッサールの先生、ブレンターノ(ドイツ哲学者)曰く「内部知覚」によると言われています(対義語:「外部知覚」=ものがそこにあるのを意識すること)

フッサールの言っている意識とは何か。それは『純粋意識』だといいます。つまり主観なんてものがあると思ってはいけない。それはただそこにあると信じているだけのことであって、人間が誰でも持っている、眼に見えるものを信じようとする根本的な力、フッサールの言葉でいうと『原信憑』が働いているからである。
だからこそすべてを、その働きの外へ置け、即ち『カッコでくくって』しまえというわけです。

これが現象学的なものの見方をする第一歩、つまり『判断中止』です。

しかしながらそんなことをすれば、はっきりと理解できるものとか、自信をもってこれは何なにだと言って断言できるものが、何ひとつなくなってしまいます。

フッサールは、その通り。何かについて確かなことがわかるなんてものは、ひとつもないんだ、と言います。

しかしながら、たとえそうであっても、意識に直接訴えかけてくるものがあるのなら、それがどんなものかはわかる筈だとフッサールは言います。

本来、意識というものはごちゃごちゃの筈です。ところがフッサールはこれは経験主義に毒された考え方だと言います。

われわれには赤い色は見えているし、今聞こえてくる音も聞こえてくる。われわれはそこでもって色と音との本質的な区別を直観的にとらえているではないか、こう主張します。

その直観的にとらえたものが色や音のイデアまたは形相(エイドス)だと言います。

つまり、あるひとつの物事には時間的空間的なもの、歴史や場所といった、その物事にくっついて想像してしまうようなごちゃごちゃしたものやたらにある。それを全部とっぱらってしまえということです。

そうして得たものこそが純粋意識だ、先験的主観性だというわけです。

すべての現実は、現実そのものとしてではなく、自分の意識のなかだけにある純粋な現象として扱うべきだといいます。これを『現象学的還元』といいます。

つまり現象学は、純粋現象の科学だというわけです。

さて、そのごちゃごちゃしたものを除去してどうするか。今度はそのひとつひとつのものごとを想像力の中でいろいろに変化させて見て、最後にそのなかから絶対不変なものを発見するという作業をおこないます。

そうやって出てきたものが本質、つまりは形相(エイドス)というわけです。

この現象学から最も影響を受けたのはジョルジェ・プーレ(フランス批評家)、ジャン・スタロビンスキイ(スイス批評家)、ジャン・ルーセ(フランス批評家)、ジャン=ピエール・リシャーレ(フランス批評家)等のジュネーブ学派で、作品にあらわれている作者の純粋意識だけに注目するべきだといいました。

テーマや文体、イメージや言語、そういった部分をばらばらに研究して、それが全体へどうつながるかに注意して、そのつなげていく本質こそが作者の精神だ、と判断しました。つまりその作家がものを体験したり認識したりするそのしかたを見つけるというのが現象学的批評のやり方となりました。

この現象学的批評は公正でなければならないという考えから、作品を消極的に受け入れて、(=作家の思想、作品の歴史的視座、作品のなかに流れるある考え方まで『判断停止』(=排除する)その作品の精神的な本質だけを純粋に記述してゆく。これが批評であると考えました。

つまりその作家がものを体験したり認識したりするそのしかたを見つけるというのが現象学的批評のやり方となりました。

つまり現象学的批評は公正でなければならないという考えから、作品を消極的に受け入れて(=作家の思想、作品の歴史的視座、作品のなかに流れるある考え方まで排除する)その作品の精神的な本質だけを純粋に記述してゆく。

例えば遠藤周作の『侍』を批評する際に、遠藤周作がカトリックの作家であるとか、石田殿のお国から派遣された田中、長谷倉、西の3人がローマ法王パウルス5世陛下と本当に会うことができたのだろうかとか、そもそもベラスコというマニラやノベスパニア(メキシコ)に交易を求めるエスパニア人宣教師が存在したのか、など余計なことを考えずに作品の精神的な本質だけを純粋に読んで記述する。

これが批評であると考えました。


(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(参考文献:『現象学』(木田元著:岩波新書)

次回は「第5講 解釈学」


(後日譚)読めもしないのに、アマゾンの古本店で『現象学』を購入しました。

本を開けてみると薄い鉛筆で見事な傍線、囲い、重要事項には丸がつけてありました。左利きの人なのか何故か傍線が左に引かれています。そして欄外にはその頁を読んだ日付と時刻が几帳面に書かれていました。

おそらく哲学の学究の方が刻まれたものだと思いますが、その几帳面さと精密さに思わず背筋が寒くなりました。

ひとつ例にとってみると、P140 ‘03.4.25. 7.24AM、P141 8:58am、1ページを読まれてあれこれと思惟なさるうちに一時間半というときが流れ去っていったのでしょう。

 素晴らしい古本にめぐりあえたことに感謝します。

Monday, October 01, 2007

日本の米国病からの処方箋(財政)

(1)小さな政府と所得再配分 -これ以上の行政のスリム化は必要か-

2006年7月、OECD(経済協力開発機構)(*1)は日本に対して「日本は異様な格差社会になっている」という経済審査報告書を提出しました。

「ジニ係数(所得や資産の分配の不平等度をしめす数値)がすでにOECDの平均以上になっているだけでなく、相対的貧困率が先進国の中で最も悪いアメリカに肉薄している」

「とくに、子どものいる家族の相対的貧困率は、アメリカをすでに抜いている。さらに独り親(母子家庭)相対的貧困率は、アメリカを大幅に抜いて突出している」

さらにOECDは、格差拡大は労働市場が二極化していることにもとづいている、と指摘しているのです。

つまり労働市場が砂時計型に二つに分かれてしまっていて、この二極化している労働市場(フルタイムとパートタイム)の賃金格差があまりにもひどすぎると指摘しています。

このような事実を踏まえて、まず私たちが考えなければいけないのは、

「政府が再配分をやめて、すべて市場にまかせればいいという方向を選ぶのか、そうでない方向を選ぶのか」

です。つまり、

(a)小さな政府というスローガンのもとこれ以上公的部門をスリム化してゆくのが妥当か否か、という選択肢です。

さらに言えば、少子高齢化という緊急事態を迎えるにあたって、

(b)ヨーロッパ諸国のように所得再配分機能を高めるため、大きな政府に回帰すべきではないか、という選択肢もあり得ます。

もともと、日本の財政の所得再配分機能(*2)は先進国のなかでいちばん小さいといえるほど小さいのです。国民負担率(=国民所得に対する税金の割合)の割合でいくと、以下の通りです。

国民負担率:日本37.7、アメリカ31.8、イギリス47.1、ドイツ53.3、フランス60.9、スウェーデン71.0

しかしながら、大きな政府に回帰すれば税金の負担率が大幅に増加します。

したがって、租税負担率の低いアメリカのように「所得が少なければ、税も少なくていい。そのかわり自己責任で生きていってください」から、租税負担率の高いスウェーデンのような「貧しい人も税を負担してください。そのかわりおたがい助けあって生きていきましょう」 という社会に変わります。
.
ヨーロッパでは財政が所得再配分していることでは限界が生じていると考え、新しい労働市場に誰でも(=家庭で労働してきた女性も、さまざまな障害を持っている人も)参加できるシステムをつくっています。教育によりあたらしく変わっている労働市場への参加保障を、財政による公共サービスの提供によっておこなうことを考えています。

(2)貧弱な公的サービス(育児サービス・高齢者福祉サービス)拡充のためにどのような意思決定危機関が望ましいか

日本はスウェーデンやドイツ、フランスなどのヨーロッパの国々と比べて、年金や医療保険は半分以上の数値になっています。

「政策分野別社会支出」(対国民所得比)
医療保険等:日本7.65、アメリカ7.39、イギリス7.3、ドイツ10.51、フランス10.06、スウェーデン9.3
年金等:日本8.2、アメリカ6.35、イギリス13.17、ドイツ14.98、フランス14.85、スウェーデン13.14

 さらに、児童手当と高齢者福祉サービスの数値は極度に低くなっています。

「政策分野別社会支出」(対国民所得比)
育児サービス等:日本0.35、アメリカ0.35、イギリス0.64、ドイツ1.08、フランス1.75、スウェーデン2.63
高齢者福祉サービス等:日本0.42、アメリカ0.06、イギリス1.05、ドイツ1.01、フランス1.75、スウェーデン2.63
児童手当:日本0.28、アメリカ0.28、イギリス2.24、ドイツ2.75、フランス2.15、スウェーデン2.28

今までの日本は、中央政府が補助金や指令を出して地方自治体に仕事をやらせていました。しかし、国民レベル(=中央政府レベル)で意思決定をすると、産業政策(=道路網や港湾網の整備等)に結びつくことが多く、サービス産業の時代に必要とされている相互扶助的な公共サービスに結びつかないことが多いのです。

中央政府主導の産業政策は過去の「農業基盤整備事業」(*3)「農道空港」(*4)「港湾整備事業」政策などの失敗からみてわかるように、かつての土木事業による所得再配分は時代に適合していないことは明らかです。

これからは、地域住民が自分たちの家族や地域社会でできないことを、地方自治体で共同の意思決定のもとにやるということが必要です。

国民はまず地域の住民として、隣人たちといっしょに政府をつくり、その隣人たちの政府の集まりとして一つの国家というものが出来上がっている、という形にしなければならない筈です。

市町村にできないことは道府県が、道府県にできないことは国がと、意思決定をする公共空間をいくつも分離させておくことが必要です。

また、神野先生及び鈴木武雄先生が唱導しておられる「地方共同体が共同発行できる地方金融公庫(=地方自治体が共同出資で銀行を設立し、そのプールしたお金を担保として資金繰りが苦しい自治体が地方債を発行する)」の設立も地方分権には欠かせない要素であると考えます。

(出典:『財政のしくみがわかる本』神野直彦著:岩波ジュニア新書より要約抜粋、一部改悪)

最後に佐高信氏と姜尚中氏の対談「民営化イコール善はおかしい」から、

姜 「現在アメリカでは医療保険を受けられない子どもたちが約400万人いるんです。大人も含めると4,000万人以上かな」

佐高 「自助努力と政治家が言うのは政治家の自己否定なんですよね。自助努力で物事が成れば国家はいらない。自分たちで自分たちをいらない、と言っている矛盾に全然気付かない。一人でやれるなら国はいらない、税金を払う必要もないよ、という話なんですね」

姜 「それが「公」が無くなるということだと思います。アメリカでは、私企業が「公」的なもので儲けられる構造になっている。刑務所も私企業化され、私企業がそこをまかなうと企業秘密になる」

(出典:『日本論』(佐高信・姜尚中著:角川文庫より要約抜粋、一部改悪)

参考文献:
『RE-BOOT』(大前研一著:PHP研究所)

(*1)OECD(経済協力開発機構)
1961年9月発効。ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)に代わって経済の安定成長と発展途上国援助の促進、貿易の拡大自由化を目的とする国際協力機関。先進国クラブともいう。
(*2)所得再配分
豊かな人に重く税金をかけ、貧しい人には現金を給付して国民の所得の格差を小さく平等な社会にする。
(*3)農業基盤整備事業
農水省管轄の公共事業。農道や排水路など農業設備を整備する事業。15年間で45兆円以上使われたが、新しい農地を使う人がなく失敗に終わった。
(*4)農道空港
新鮮な野菜を市場に運ぶのが目的で各地に作られたが、あまり使われていない。

Wednesday, September 19, 2007

日本の米国病からの処方箋(金融)

会社のリストラには、大幅な人員削減だけでなく、残った従業員の格下げも含まれる。

ホワイトカラーの労働市場は、その日の仕事を求めて日雇い労務者が集まる職業安定所の様相を呈していた。

「ジャスト・イン・タイム」方式、つまり「必要な時に必要なだけ」という調達システムが、人間にも当てはまる時代なのだ。

(中略)キャリア志向の若者は、会社に頼らず独自の将来設計を考えた方がいい、と諭される。

他社からの誘いがあったり、今の会社から解雇されたりしても慌てないですむよう、いろいろな経験を積んだり、外部にコネを作っておくべきだ、というのである。

これから就職する若者へのアドバイスは、どんな勤め口も臨時のものと思え、ということだ。

ついこの間まで、会社は社員にとって家族のようなものだった。

移り変わりの激しい非情な社会にあって、確かな支えとなってくれる存在だった。よい仕事には収入よりも大切なものがあった。アイデンティティの源であり、長期的な価値のある人間関係の源でもあった。

(中略)ホワイーカラーの中流家庭のクレイグ・ミラーは、トランスワールド航空の板金工として働き、組合にも加入していた。時給は15ドル65セント(円相場120円と仮定すると1,878円)で年収は36,000ドル(円相場120円と仮定して4,320,000円以上)あった。

ガレージには二台の車、庭にはブランコがあり、アメリカンドリームを絵に描いたような中流家庭だった。

しかしミラーは、1992年の夏に突然解雇された。

今はマクドナルドのカウンター係とスクールバスの運転手をかけもちし、副業でボイラーのフィルター交換もやっている。スクールバスの仕事を終えて帰宅するのは午後五時だ。急いで夕食をすませると、妻は子どもの世話を夫に任せ、六時から深夜までトイザラスで在庫整理をする。彼女は、週に一日、夫と同じマクドナルドで働いている。

これらの収入を全部合わせても、18,000ドル(円相場120円と仮定して2,160,000円)にしかならない。将来の見通しは真っ暗だ。

ミラーと同時にトランスワールド航空から解雇された同僚の一人は、時給6ドル以上(円相場120円と仮定して720円)の仕事を見つけることができず、三十九歳で両親の家へ戻り、結婚や子どもを諦めることになった。別の同僚は管理人の仕事をしている。トランスワールド航空の組合によると、解雇された数百人のうち10人以上が自殺しているという。

まるで、大恐慌時代を彷彿とさせる話だ。

これでも昔ながらの指標に従えば「経済は安定している」ということになっている。

どれだけの金を生み出したかによって成否が決まる経済システムでは、人間は非効率の主因とされて、次々と切り捨てられていく。

金を動かす機関が世界を支配すれば、人間よりも金を重視するようになるのは避けられない。私たちは今、金に生活を搾取されつつあると言っていいだろう。

これほど徹底的に人間の営みを倒錯されるシステムを受け入れるのは、集団的自滅へ向かう狂気以外の何ものでもない。

(『グローバル経済という怪物』(デビット・コーテン著:西川潤監訳、桜井文訳より抜粋要約、シュプリンガーフェアクラーク東京)

金融ビックバンにともなう新会計基準の導入(退職給付会計等)、これにともなう団塊の世代を中心とした大量失業者および失われた世代(=就職超氷河期時代の文系の子弟)の発生。

団塊の世代および失われた世代の救済策としての新規公開企業の乱立、その結果としてあらわれた富裕層と貧困層の大きな格差。起業公開の礼賛によって、有名企業のブランドの屋台骨をきちんと支える人間がいなくなり 林檎の芯のように有名企業のブランドが崩れた。

 株式公開で濡れ手に粟の大金を手にした会社の幹部は社員の育成をおこたり、金銭面の格差だけでなく、人材の能力格差も生んでしまいました。

橋本治氏曰く「欲望を我慢することとは現在に抗する力である」。

セイの法則(=市場に供給した商品はすべて消化される)が機能を止めたと言いますが、現在の商品供給力を維持したまま、富裕層が昔ながらの質素な生活をおくり我慢することができれば、どれほどの多くの人々の命が救われ、世代間の格差(=コミュニケーションおよびテクノロジー面の)を解消することが出来るかを考えてしまいました。

どなたか統計資料を使って現在の全世界の生産能力で、贅沢をつつしめばどれくらい日本人の生活水準が下がるかを証明していただきたいものです。

日本は裕福な国です。これ以上の余分な需要の喚起は危険であると考えます。

Monday, August 27, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第2講 新批評」

1920年代に貴族的な批評に反対して、ケンブリッジ大学にスクリューティニー(吟味)派という派閥が生まれました。

リーダーはリーヴィス(イギリス批評家)を中心とする地方のプチ・ブルジョア、つまり中産階級の人が多く参加して文学運動を始めました。1932年には『スクルーティニー』という批評誌もできました。

このスクリューティニー派は文学作品を解剖するのは人間のからだを切り刻むのと同じ行為だからというこれまでの禁忌(タブー)を破壊して、チョーサー(イギリス詩人)、シェイクスピア(イギリス劇作家・詩人)、ワーズワース(イギリス詩人)の作品を綿密に分析しはじめました。

同じケンブリッジで哲学を教えていたヴィトゲンシュタイン(オーストリア哲学)が「君ね、君のやっている文学批評ね、あれ、やめなさい。すぐ、やめなさい」と言ったという逸話があります。

この派閥は美学理論中心の閉鎖的な批評に反対して、歴史や心理学や文化人類学などを交えて分析を始めました。やがてその活動は資本主義を否定し経済共産主義を肯定するなど急進的(ラディカル)なものになり、英文学が学問の中で最も至上なものである、という認識に達しました。

「何故、文学を読むのか」という問いに対して、リービスは「本を読むといい人間になれる」という主張をしました。

彼らが支持した文学作品は炭鉱夫の息子であったD・H・ロレンス(イギリス作家詩人)の『チャタレイ夫人の恋人』等、階級意識と調和して創り出された『生(ライフ)』(=この派閥の造語)が見えるものです。

しかしながら、この批評は「小説のここだけ注意を向けなさい」と読者に限定を促したり、肝心な『生(ライフ)』の定義が曖昧であった、という欠点がありました。

結果、このリービスはケンブリッジの英文学批評とアメリカの新批評(ニュークリティシズム)の橋わたしをしました。

リービスが批評を思想にしたのと対照的に、リチャーズ(イギリス批評家)は数字で計ることのできる行動心理学を持ち込んで批評を科学にしました。

この手法がアメリカに伝播すると南部の伝統主義者、ジョン・クロウ・ランサム(アメリカ批評家詩人)が詩こそが文学の世界をあるがままに受け入れる姿勢をわれわれにおしえてくれる、と主張しました。

なぜならば、詩は文学作品ほど長くなく詳細に分析しやすいからです。

「緊張」「矛盾」「両価性(アンビバレンス)」などの言葉を用いて科学的合理主義の真似事をしはじめたわけです。

こうした事によって英文学は既存の学問(アカデミズム)の体系の中に組み込むことが可能になりました。

しかしながら、新批評(ニュークリティシズム)は詩を作者からも読者からも解き放つなどといって、現実の社会や歴史からも切り離してしまいました。

文学は否応なく人間に背負わされた国家や人類や民族、いわゆる種を失うことなしには成立しません。しかるに、新批評(ニュークリティシズム)はそういったものを抜きにして科学的に普遍化してしまった、という反省があるでしょう。

(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)

次回は「第3講 ロシア・フォルマリズム」

Saturday, August 25, 2007

ゆっくりいこうよ

「ゆっくりいこうよ」というキャッチ・コピーが高度成長期がはじまる頃に大流行したことが有ります。

 このキャッチ・フレーズを考えたコピーライターは一躍、時の人となり、広告代理店などからもキャッチ・コピーの大家として一目置かれる存在となりました。

 しかし、当人にとってはそれは喜ばしいことではなく、高度成長期が本格化するにつれ、その人は苦悩し遂には自殺してしまったということです。

 「ゆっくりいこうよ」というキャッチ・コピーは、商業的な意味で考えたのではなく、そのコピーライターの方の時代に抗する魂の叫びであったのではないか、そんな気がします。

Friday, August 24, 2007

近代資本主義に関する箴言(2)

では、どのようにすれば閉塞化しがちな資本主義社会を打ち破ることができるかと言うと、アントレプレナーによる創造的破壊によるたゆまざる「革新」(イノベーション)が必要だとシューペンターは論じます。

そういうと、

「堂々巡りじゃないか。結局は成功したアントレプレナーは大企業化して官僚的専門家を雇うか、巨大企業に吸収合併されて活力を失ってしまう」

と反論されることでしょう。

そこでもう一つ、シューペンターの、「二重統治の理論」所謂「階級的共棲の理論」というものが出てきます。

これは、資本主義の支配者は資本家でも経営者でもない、資本主義より前から存在する「貴族」である、という理論です。

 貴族といっても本物の貴族ではなく、貴族や準貴族以下につらなるジェントリー(郷紳、地主)やヨーマン(独立自営農民)という中産的生産者で質素な生活をおくる貴族の最下層と自営の農民、「庶民」(Commons)と呼ばれた、辛うじて選挙権を持つに至ったという身分の人たちです。

その貴族たちに共通する性質は、

「天下や国家のために身を挺して努めるという責任感とプライド」

そして、

「行動的禁欲」とよばれる地位や名誉、金銭に対する欲望をすべて抑えて、目標達成のために全身全霊を捧げ(デディケート)、注ぎ込むことが出来るという性質です。

精神的な貴族と言った方が早いかもしれません。

シューペンターは、このような精神的な貴族がいたからこそ国を統べることができ、資本主義は健全な発展を遂げる事ができた、と言うのです。

 日本の幕末も同じようなものです。

小室先生の記述をそのままぬきだしますと、

「「官僚化した中級武士や上級武士も然り。彼らは自らの立場や特権に胡坐をかき、すっかり怠け者になって仕舞っていた。欲得の権化と化し、ノブレス・オブリュージュも、向学心も、行動的禁欲も持ち合わせていなかった」

「禄高百石以下の下級武士と言うが、革新の担い手となったのは下級も下級、最下級の武士達である。生活は貧しかったが、彼らにはブライドが在った。自分達が国家の柱石であるというプライド。我が事として国の行く末を案じ、いざとなれば総てを投げ打って心身を奉ずるという高い志。加えて彼らには教養が在った」

高齢化社会にともない、人生8掛け(年齢に0.8を掛けると、人生50年の時代の年齢に相応する)の時代と言われます(注1)「痩せ馬の先走り」」(憐れむべし痩馬の史。白首誰が為にか雄んなる)という諺もあります、ロングランの人生、あきらめずに歩んでいきたいものです。


われわれは物質的に貧しくとも、ヨーロッパのジェントリーやヨーマンに負けないよう精神的な貴族になるべく傘貼り仕事をしながらでも日本人としての矜持を失わないようにしたいものです。


(注1.浅田次郎氏「週刊文春」コラムより



(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

近代資本主義に関する箴言(1)

先日、本ブログに経済哲学についてコメントがあったため、自分の書いたコメントに誤りがないか確かめるために、急いで『経済学をめぐる巨匠』(小室直樹著:ダイヤモンド社)という本を読みました。

その中に興味深い理論がありましたので紹介させていただきます。

シュンペーターの「資本主義はその成功故に滅びる」という言葉です。

近代資本主義は「私有財産制」と「自由契約制」という前提によって成り立ち、絶え間ない革新によって発達してゆきます。

しかしながら、アントレプレナーが大企業の官僚的経営者に変り、巨大企業の所有者が単なる株券の所有者になってしまうことによって

「当事者意識がどんどん希薄になってゆく」

という現象が起こるのです。

元来、企業家というものは、

「自分の工場およびその支配のために、経済的、肉体的、あるいは政治的にたたかい、必要とあらばそれを枕に討ち死にしようとするほどの意志」(シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』東洋経済新報社ニニ一頁)

がなければ務まらない仕事なのです。

官僚的経営者は、事業に対する欲求よりもステイタスにひかれて経営を受託し、自分は法律にのっとって会社の所有者から経営を委託されている代理人に過ぎない、と割り切って企業の利害と個人的な利害とを天秤にかけて行動します(=革新性の欠如)

また、官僚的経営者は、創業者が会社の財産の増減に自己の財産の増減と同じように一喜一憂するといった感覚、事業イコール自分自身の投影といったかたちでの心理的な興奮や快感をおぼえることはないでしょう(=事業の私有財産権に対する心理的な関与の希薄化)

会社の契約も自分がマイホームのローンを締結するように主体的かつ自主的に判断し締結することは、ありえません。会社の経営者から出される命令とそれまでの慣習にしたがって締結されます(=契約者の主体性の欠如と制限および束縛)

会社の所有者たる株主も、株券の価値が上がるか否かに関心があるのであって、個人の利害を超えてまで会社にコミットメントすることはあり得ないでしょう(評論家の関岡英之氏は吉川元忠氏との対談『国富消尽』の中で「会社の所有者は株主である」というのは法律上の誤謬である、とまで断じています)

つまり、会社が公的なものになるにつれて、参加者個人の当事者意識が希薄化し、公(おほやけ)のモノという意識が、責任の所在をかえって曖昧模糊なものとし、結局、大規模な事業体のおこなったことに対して誰も責任をとらないという、構造になる訳です。

小室直樹先生は以下のように嘆じられています。

「このように近代資本主義の後期時代には、セイの法則(=市場に供給した商品はすべて消化される)が機能を止め、レッセ・フェール(自由放任)が資源の最適配分を停止する事に依って、所有権に対する意識も根本的に変わる。
それと共に、私的所有権の絶対性と抽象性も、契約絶対性の思想も意味を大きく変化する事にならざるを得ない」

これは、ケインズ政策(=政府が市場に介入し需要を創出する)の台頭によって近代資本主義の前提である私有財産制度が急速に失われつつあることに注意を喚起されたものです。

サッチャー政権もレーガン政権も共に「古典派」(=アダム・スミスを始祖とする自由放任の理論)はじめとする理論に基づき経済政策をおこないましたが大失敗、結局「ケインズ政策」によって経済状況が劇的に改善しました。

イギリスの首相、ロイド・ジョージに絶賛されたヒトラーのアウトバーン建設や、ルーズベルトのニューディール政策もケインズ経済学に基づいておこなわれました。

ルーズベルトのニューディール政策に伴う諸法案などは、経済活動の自由、私有財産の絶対性に抵触するということで、連邦最高裁によって片っ端から違憲とされた、という逸話があります。

小室先生は、近代資本主義の前提である「私有財産制度」を再考することが今後の資本主義の貴重な出発点になるであろう、という言葉を残して本稿を終えられています。

(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

Thursday, August 23, 2007

少子化は大人のエゴに問題あり  「竹村衒一のああいっぺん言うてみたかった」

これも過去の雑文集からの抜粋です。

脳学者、茂木健一郎氏の「クオリア日記」にトラックバックを貼らせていただいたこの記事です。

この記事を掲載したブログは既に廃止しております。再掲いたしますのでよろしければ、ご一読ください。

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だいたいやね。少子化、少子化いうけれども、国土面積に比べて人口の過剰な日本にはエエことかもしれないと思っとるわけですわ。

これはエライ旧い資料やけれども、2001年のParis Times Squareに掲載されとる論文やけれども、「現在、日本では世帯数が4千4百万に対して住宅数は5千万戸ある」ゆうわけやね。

つまりは住宅の数が世帯数を上回っているので、どんな家か選ばなければ誰でも家に住むことができるわけやね。住宅需要が減り、土地や家の値段が下がって誰もが安くマイホームが手に入るようになるわけやね。

次に厳しい受験勉強をしなくても、多くの人が希望の学校に入ることができる。これも、少し問題があるけれども、まあエエことや。

最後に一人っ子同士が結婚したら、夫婦は両方の親から遺産を相続できるわけやね。遺産欲しさに高齢者を毒殺するような馬鹿者が出てくるかもしれんけれども、まあ今の希望を失なっとる青年に「お金の心配はせんでエエよ」いえるからまあエエことや。

ただ、問題なのは女性の社会進出に伴って「子供はいらん」いう夫婦があるとか、仕事が忙しゅうて嫁さんを選んどる暇がない、適当に相手を選んだら性格が会わへんかったゆうて離婚する夫婦が増えとることですわ。

東京都に至っては全国で一番低い1.03ゆう出生率なわけやね。

まあ、エリート層(まあ、職場から必要とされて引っ張りダコの人やね)の出生率が低いゆうのは、どこの国でもあることで、19世紀のアメリカでは、WASP女性の解放が進み、離婚率上昇と出生率低下が顕在化し、統計によると、1870年代のハーヴァード卒業生40~50代の3分の1が独身、セヴン・シスターズ・カレッジ(WASPの有名女子大学)卒業生の内、既婚者は40パーセントだったそうなんです。

現代の少子化問題に相通じる問題ですわ。

私がいいたいのはこういう人たちに、

「あいつは俺よりもはよ出世したから頑張らんぁあかんとか、隣はエエ暮らししとるから共稼ぎしてもっと贅沢なエエ暮らししたいとか、そんな自分のエゴを捨てて、脈々と続いてきたご先祖さまに感謝して、自分の遺伝子を次世代に運ぶことに力を入れなさい」

いうことやね。

自分の出世が多少遅れても、自分らは自転車に乗ってお買い物でも「自分には自分のポリシーがある」ゆうて信念を貫くことですわ。

ある先生(長田高校の社会科の先生やけれども)と話しとったんやけれども10代のこどもの時間は30代の大人の3倍重要やゆう意見で一致した。

ほんまに大事な訳ですわ。

日本は村社会の名残があって、あいつが出世したら俺もならばなあかんとか、お隣が立派な家具を購入したからウチも購入したいとかそんな横並び意識があるわけやね。そんな人には、

欲望は際限がないのやから「足るを知る」いう言葉を奉げたい。

結婚相手にも過剰な期待をしないことやね。

夫婦ゆうのは長い時間かけて共有した時間が大切なんですわ。お互い違う価値観をもっとるゆうのは当たり前で、徐々に時間をかけて夫婦間でアジャストしていくわけですわ。

アインシュタインが、

「結婚とは恋愛という一時的な感情を長く持続させようとする努力である」

ゆうとるわけやけれども、僕は「モーレツ」「デリーシャス」に続いて“Lifestlyle Superpower“(生活大国)目指して、

「ビューティフォー」(感嘆詞、その人の生き方に感嘆して発する言葉)

いう言葉を提唱したいね。
(2006年4月23日記)

Saturday, August 11, 2007

NHK 大河ドラマ「武蔵」について考える

 これも過去の雑文集からの抜粋です。

かつて大河ドラマは、NHKのプロデューサーが時代状況を読んで、その時代に適したメッセージをおくるものだ、という幻想を抱いていた事があります。

 そんな幻想を抱いていた時に書いた一文です。

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○ 異質テーマの大河ドラマ

 ’80年代の後半、NHKの人気アナウンサーであった鈴木健二氏の著書、「気くばりのすすめ」が未曾有のベストセラーになったことがあります。

アメリカのレーガン政権が「双子の赤字」に苦しむのを横目に、日本経済が快進撃を続けていた頃の話である。

当時の日本は、年功序列、終身雇用、系列システムといった企業の組織的な結束力の強さを武器に、国際経済競争に打ち勝っていました。
 
 鈴木氏の著書がベストセラーになったのも、「集団組織による相互協力こそ最高の美徳」といった価値観に対する関心の高さの表れではなかったろうか。

NHKの大河ドラマは、「徳川家康」や「武田信玄」を放映し、一人の卓越した人物を神輿にすえて、部下は耐えがたきを耐え忍びがたきをしのび組織一丸となって頑張ろう、といった集団主義を礼賛するメッセージが背景にあったように思われる。

 しかしながら、日本経済が不況で企業業績は悪化し、リストラを余儀なくされると、主君の仇を志を同じくする集団で討つ赤穂浪士を描いた「元禄繚乱」や一族で骨肉の争いを繰り広げた「北条時宗」など、「組織内闘争のすすめ」に、

あるいは、戦国の下克上の時代を抜け目なく生き抜いた「毛利元就」や「前田利家」をとりあげ、「目くばりのすすめ」的なメッセージに変容していった。

 そして、今回の大河ドラマの主人公は、孤高の剣術士である宮本武蔵である。

とうとう集団主義のすきな日本人も、先の見通しのたたない長期の経済不況には全くのお手上げ状態で、もはや組織を当てにしないで各々おもいおもいに生きてくれという、「個人主義のすすめ」というメッセージを発したような気がする。

 大河ドラマとしては、やや異質なメッセージなのではないだろうか。


○ 武蔵の「国際性」と「野生の思考」

 「宮本武蔵」は戦前・戦中に活躍した大衆文学の大家、吉川英治の代表作である。

 当初、新聞の連載小説として始まった「宮本武蔵」はたちまち評判となり、「武蔵」を読むためだけに新聞を購読する人が殺到するなど、一大国民的ブームを巻き起こした。

小説「武蔵」の魅力は、何といっても剣術だけでなく、本阿弥光悦や烏丸光広など風流人との交流や禅の道を希求する瞑想的な哲学者として沢庵和尚や愚堂禅師との問答など、人生の永遠の求道者としての姿である。

一介の漂泊の剣士にすぎない武蔵は、広い精神世界とその人格に対する畏敬の念から、さまざまな人々を引き付ける。

 当時、将棋に行き詰まり自殺まで考えた升田九段が『宮本武蔵』を読んで自殺を思い止まった、というエピソードもあるそうです。

 「武蔵」人気は国内だけにとどまらない。

 小説「宮本武蔵」は、当時、経済大国として台頭してきた「日の出づる国」に対する関心もあいまってアメリカで初版2万部を売り切ったのを皮切りに、英語圏内の諸国、フランス、フィンランド、ドイツで翻訳され出版された。

 特にフランスでは、上巻「石と刀」と下巻「円明」合わせて13万部も売れているという。吉川英治はユゴー、デュマ、バルザックといった大作家と対比されて論じられ、武蔵はダルタニアンになぞらえているそうである。

ミッテラン大統領も、サミットに同席した橋本元首相に「武蔵は右利きだったのか、左利きだったのか」と尋ねた、というエピソードもあるほどである。

 思えば、戦後の日本経済は、個人の異質性の排除とともに発展してきました。 

 日本は戦後経済の奇跡的な高度成長によって、国民に将来予測が可能で、計画的に生きることのできる安定した社会システムを供与してきました。

そして、われわれは経済的安定という切符と引き換えに、無機的でからっぽの日常をおくることを何の疑いもなく受け入れてきました。

戦前の日本人が国民総動員法によって軍国主義に全面的に協力してきたのと同様に、戦後の日本人は明日の勝利を信じて、日本株式会社に何の疑いもなく全エネルギーを投入してきたともいえます。

しかしながら、人間とは本来武蔵のように、先の見通しのきかない霧の中で、ただ明日の糧のために、今日を必死に生きるという生き物ではなかっただろうか。やや異質な大河ドラマをみつつそう思った。
(2003年5月3日記)

(参考文献:『NHKドラマ・ガイド 宮本武蔵』(昭和五十九年四月十日 第一刷発行:編集・発行人藤井根和夫:発行所 日本放送出版協会)


(後日譚)
サラリーマンは日曜日の夜に大河ドラマを観て月曜日出勤するのだから、大河ドラマを前日みた人は多かれ少なかれ、その影響を受けてしまうものです。

今回の大河ドラマ、井上靖原作の『風林火山』ほど、組織の人々を疑心暗鬼に陥らせるものはないのでないか。

なんとなく、日本はホッブスの言う、自然状態、「万人の万人に対する闘争」に入っているのではないか、と思わず勘ぐってしまいます。

普段はお荷物扱いされている窓際族と称される老人がじつは隠れて人事評価をおこなっているのではないか、とか、途中転職してきたが信頼してつかってきた部下が、じつはライバル会社のスパイとしておくりこまれてきたのではないか、とか誤った謀略視点に基づいてサラリーマンが行動してしまうのではないか。

そんな面白い幻想を抱いてしまいました。

山本勘助のような人物が戦国に現実に存在していたのなら、あっという間に殺されてしまった事でしょう。

私が推測するに「山本勘助」という名前は、武田方からがはなたれた交渉人が必ず名乗る「デス・マスク的名称」ではないかと思いますが、如何でしょうか。

人々がこれ以上、疑心暗鬼に陥らないよう「これはあくまでもお芝居です」、というエンド・クレジットを入れるべきではないだろうか。

Friday, August 10, 2007

哲学者ジョージ・ソロスとクォンタムファンド ~ 「再帰性理論」 ~ (後)

哲学者ジョージ・ソロスの挫折

 ソロス氏は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスを卒業後、装身具メーカーに見習社員として入社、その後、シティの金融街に転じるも会計係、金の裁定相場を扱う部署、本社の事務要員を転々とし、業績もパッとしなかったソロス氏はニューヨークのウオール街に活躍の場を移します。

ウォール街で国際裁定取引を任されたソロス氏は、欧州向けの石油関連株の販売で頭角をあらわし、やがて外国証券アナリストとして絶頂期を迎えました。

 しかしながら、ニューヨークでの幸福な時期も長続きせず、東京海上のADR証券の販売時期の認識をめぐって役員と対立し、やがて仕事の裁量権を縮小されたソロス氏は、3年もの間ビジネスそっちのけで、ロンドン大学時代に齧った認識哲学の学位論文の執筆に没頭してしまったそうです。

 その後、会社を移籍し本来のビジネスの世界に戻ってきたソロス氏は小さなアメリカ株の投資ファンドの運用を始め、軌道にのりはじめた7年後にクォンタムファンドという自ら独立した会社でファンドの運用を始めることになります。


ソロス氏の哲学理論
 
以前、価値研究家のH氏とお話したところ、「株式相場とは結局、人々の意識の塊の総和を数値化したものではないか」という意見で一致しました。

人間が、風説やデマ、人々の根拠のない期待等の誤った情報に基づいて投資をおこなえば、株式市場は「歪んだ意識の流れの塊」を形成し、競馬の馬券と同じような博打にちかい、不健全なものとなります。

また、堀江貴文氏のように突然あらわれた時代の寵児が、あたかも名伯楽のように崇められ、氏が思いつきで発言したことがマスコミ等の媒体を通じ大衆に伝えられ、その影響が市場に甚大な影響を与えるとすれば、これ以上危険なものはありません。


(日本の株式相場はその意味で欧米に比べまだ未成熟ではないか、という処でもH氏と意見が一致しました)

一方、株式投資をおこなうものがみな、正しい情報を与えられ、企業業績をきちんと読みこなして投資をおこなえば、株式相場は「企業活動を適切に反映した意識の塊」となり、適切なところに資金が流れ、不適切なところの水は枯れる、ことになります。

しかしながら、人間、神でもない限り完全な情報を与えられ、それに基づいて適切な投資が出来るとは考えられません。それが、投資するもの全員が、となれば、なおさら難しいことです。

そういった環境の中、ソロス氏の投資哲学の根幹をなすのは「私は誤りを犯しやすい」という認識である。

彼は自らの投資スタンスを過信しない。彼は、常に自らのスタンスが間違えているのではないか、という不安を持ちつづけているがゆえに、市場の状況に敏感でいられ、かつ自らの投資判断のミスを他人よりもいち早く気が付くことができるといいます。

 そして、ソロス哲学のもうひとつの一翼を担うのが「再帰性」という概念です。

この「再帰性」の理論を筆者なりの見解で述べさせていただければ、「再帰性」とはいわば「木霊(反響:エコー)」のようなものではないかと考えました。

人は山頂に登って並びゆく山脈に向かって「ヤッホー」と叫ぶ。しかしながら、跳ね返ってくるその声はその人の発した声には違いないが、山々の反響によって微妙にもとの音とは異なる。

つまり、現実社会が変わることによって、人々は自らの認識する世界観を変えます。与えられた原始情報に何らかの偏りが加わり、原始情報がさまざまなメディアの意図によって歪められる。こういった現象が三重、四重になってかえって実像を覆い隠してしまう。こういった現象によって、「事実」と「人々が認識する事実」とは徐々に乖離してゆくのではないかと思います。

「人々が認識している現実は必ずしも、本当の現実とは一致していない」

また人間には、

「人々は自分が認識している現実に固執し続ける癖があり、そのため現実に起こっている事象に対して素直に対応できない」

という性質もあるようです。

このように「人々が認識している現実」と「現実」とのあいだに大きな乖離が生じてしまうことになり、日本のバブル崩壊の時ように、その僅かな株式相場に関する人々の認識の時間差を利用して、大きな利潤を得たのが、ジョージ・ソロス率いるクォンタム・ファンドであったといえます。

かつての「土地神話」のように、万人が万人当たり前だと思っている理論的枠組み(=パラダイム)や前提、を疑い、時代の変化を読み取る臭覚が、ジョージ・ソロス氏は格段に優れていたといえましょう。
(2001年6月9日記)


(後日譚) 
最近の企業の投資ファンドの目論見書をみると、従来の債権・株式だけでなく、コモディテイという商品も組み入れられていました。

コモディティとは、商品相場らしく鉱物資源や、大豆、砂糖、綿花等、個々の商品の需給関係に基づいて相場が形成されていくものらしいのですが、そんな沢山の指標があるなかで一般の人々が適切な情報を得ることができ、適切な投資ができうるのでしょうか?

また、地球温暖化に伴い、途上国の二酸化炭素排出する権利を、先進国が買いとるというビジネスが国際的に起こりつつあるそうです。

株式相場をする人はいろいろな手段で24時間、あらゆる国際情報を収集し、吟味しなければなりません。

私は証券投資をしません。そういった時間が無駄のように感じるからです。

哲学者ジョージ・ソロスとクォンタムファンド ~ 「開かれた社会」 ~ (前)

小生は夏季休暇中で特に何も書こうと思っていないのですが、何故かアクセス数だけが大幅に増加しています。 

 特に、前回の「ジャパン・ナッシングの到来?」や「キングダム・オブ・ヘブン」等は、小生の感覚からすると失敗作で、ブログの履歴から削除したいような衝動に駆られるものですが、何故かアクセス数が高いのです(?) 
 
 読者の要望に答えるのが、ブロガーの責務であると考えますので、過去の雑文を掘り起こして再び掲載させていただきます。
 
10年前、八木博氏が連載されていた「週刊シリコンバレー情報」の主筆休暇中に寄稿(紙面を汚させていただいた、と言った方が妥当ではないかと思います)、『ジョージ・ソロス』』(七賢出版)についての書評を掲載させていただきます。

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「ソロス・オン・ソロス」

1995年、ポンド危機に「イングランド銀行を破綻させた男」、アジア通貨危機にはマハティールに「禿げ鷹」と呼ばれたソロス氏が「ソロス・オン・ソロス」という著書を刊行しました。

その際、多くの日本人はこの本に対して、「利殖のノウハウを知ることのできる本」、あるいは「世界的投資家がデマゴーグに用いようとしている本」等といった単純な誤解、あるいはネガティブな評価をこの本にくだしていました。

  しかしながら、筆者が読んだところ、この著書はソロス氏の投資理論よりむしろ、その思想が形成されていったソロス氏の人生背景ならびに青春期の人格形成、人生哲学、そして東欧社会に対する「開かれた社会」のための社会貢献活動に関する記述を中心に構成されており、前出の日本人のとらえ方とは全く異なる、投資家とは離れたジョージ・ソロスの人物像がくっきり浮かび上がります。

 本稿は彼の国際的投資家というより、むしろ知られざるソロス氏の哲学理論や、彼の究極的な目標である「開かれた社会」を構築するための社会貢献活動に焦点を当てて述べさせていただきたいと思います。



国際的慈善家、ジョージ・ソロス

 「ソロス・オン・ソロス」を開いてみて、まず驚くのはソロス氏の略歴です。

まず冒頭に、「国際的慈善活動家」とある。そして、自らの財団による社会貢献活動の実績が列記され、最後の4分の1がソロス氏の「国際投資家」としての顔、すなわちクォンタム・ファンドの実績が記述されています。

われわれがソロス氏に対して抱いているイメージとはおおよそ掛け離れたソロス氏の顔がみえてきます。



ソロス氏の父親と人格形成

 ソロス氏の父親はユダヤ系のハンガリー人で弁護士。第一次大戦に参戦し、中尉にまで昇進するも、ロシア戦線で捕虜となりシベリアの収容所に送られます。

その後、収容キャンプの捕虜の代表となったが、脱走した捕虜の見せしめに代表が射殺されるのをみて、大工や医師、コックなどの技術者を募って収容所を脱出。まずは筏をくんで北極海沿いに、その後は大陸を横断して、苦心惨憺の末にハンガリーに舞い戻ります。

 その後、第二次大戦に入りドイツ軍によるハンガリー占領が起こります。

その際、ソロス氏の父親は、この状況下で法律に従う習慣は危険だと判断し、実行に移しました。

ドイツ軍がハンガリーを占領する前に、家財道具を売り払い、家族のために偽造の身分証明書を作成し、隠れ家を用意し、周囲の何十人という人間の命を救った。

この難局を無事に乗りきったソロス氏の父親は、「俺の財産(Capital)は、頭(ラテン語で Capital)の中にある」といいました。

 時にソロス氏は14歳。後にソロス氏はホロコーストのこの時期を、「私の人生で一番エキサイティングで幸福な時期」と語っています。 
                                                    
   
東欧社会に対する貢献活動

 ソロス氏はロンドン・スクール・オブ・エコノミックス時代に、哲学者カール・ポパーの「閉ざされた社会と開かれた社会」という思想の薫陶を受けていました。

 そして、その思想を具現化すべく、クォンタム・ファンドが軌道に乗り出した1980年、「閉ざされた社会」を開き「開かれた社会」を活性化する目的で、ソロス財団(オープン・ソサエティ・ファンド)を設立しました。
 
設立当初、オープン・ソサエティ・ファンドは「開かれた社会」のために命を賭けて戦っている、ポーランドの「連帯」、チェコソロバキアの「憲章77」、サハロフ博士の反体制運動など東欧の反体制勢力と呼ばれる団体に、複写機を提供するという活動を開始しました。

 やがて複写機の普及によって、「開かれた社会」という共産党のイデオロギーと反する、もう一つの概念が存在することに気が付いた東欧の人々のあいだに民主主義の概念が燎原の火の如く広がり、やがてその活動が東欧革命となります。

また、オープン・ソサエティ・ファンドは政治活動のみならず、教育活動にも力を入れており、1990年にはブタペスト、プラハ、ワルシャワなどの東欧の都市に大学院レベルの教育課程を備えたセントラル・ヨーロピアン大学を創設しています。


 「最高の価値が無価値になるということ。目標が欠けている。「何ゆえに生きるという」ことに対する答えが欠けている」、ニヒリズムの時代にあって、

筆者はソロス氏にとって「金儲け(錬金術)」は、「開かれた社会」という目的のための手段であって、本人にとっての「何ゆえに」への答えは「開かれた社会への貢献」なのではないか、と考えるのであるが、いかがなものであろうか。


(2001年5月27日記)

Thursday, August 09, 2007

ジャパン・ナッシングの到来? 日本は米中の実験国に成り下がるしかないのか

 竹村健一氏の主宰する、「ワールド・ワイド竹村」「視点」(2007.08.08.刊 )、「日本の未来を担うリーダー」を読んで驚愕した。 (http://ww-takemura.com/fr_siten_1_t.html)

アメリカの大学で博士号を取得する学生の数が「日本80人に対して中国は2000人」だと云う。

考えるにこの差は、

(1. 中国人にとって英語は吸収しやすい言語である 

  中国語と英語は語順が一緒で、日本人が最も苦手とする発音にかけても中国人は日本人よりも長けている

  よって、中国人は英語に対して親和性が高く、日本人よりも吸収力が高く、英語の学習能力について一日の長がある

(2. 日本人のハングリー精神の欠如 (=知識欲の欠乏)

  戦時中は書物の携帯は厳罰ものだったため、教室から駆り出された学徒たちは動員先の工場で、最前線の特攻機地の片隅で、ひそかに忍ばせた文庫本が寸暇を惜しんでむさぼり読んだそうである。
また戦後、河上肇氏が『貧乏物語』を発刊した頃、発刊を待ちきれない労働者をはじめとする民衆が列をなしてその本を買い求めようとしたといいます。

  活字に飢えて知識欲旺盛だった時代に比べ、今の若者は必要最小限度の知識欲しか持ち合わせていないように思います

(3. 日本はこれまで博士号取得者を上手に活用できなかった
  
   よって「博士号取得者といっても社会で役に立たないじゃないか」との批判が巻き起こり、公費が出なくなり、私費学生が多くなった 

が原因として挙げられます。

アメリカは国籍がどこであれ、優秀な人材が集えば、

「そこがアメリカの素晴らしいところなのだ」

と胸を張って、優秀な人材の求心力となる自分の国家と、招かれてきたその優秀な人材を褒めたたえます。

アメリカの西海岸には、日本のような偏狭なナショナリズムはありません。

いづれ近い未来、中国国籍の優秀な学生がアメリカの政治・経済の重要なポジションを占め、日本は蚊帳の外に置かれてしまうことでしょう。

また、竹村氏のコラムによると、博士号を取得した中国人で帰国を望むのは1割程度であるといいます。

これは、中国人学生が言論統制が存在し、自由がなく、民主主義が根づかず、行動にさまざまな制約のある中国社会に戻ることを嫌がっているためでしょう。

これから考えられるのは、中国は人材を呼び戻すために自由化をさらに推し進め、優秀な学生を中国に戻ってきてもらうために、中国政府はアメリカに渡った中国人学生をパイプ役として、アメリカ主導のもとで米中の絆を深めることに尽力することが予測されます。

では仮に、ジャパン・ナッシングとなった場合、日本のこれからの役割はどのようになるか、というと、

『日本の選択』(ビル・エモット、ピーター・タスカ共著)で、「かつてはジャパン・バッシング、15年前はジャパン・パッシング、これからはジャパン・ナッシングにならないように気を付けてください」との警告があったが、そうならないように、

韓国が今現在、ITの実験国家(インターネット投票・株式の大衆化等)となっているように、

世界で最も先駆的で画期的な政策をおこなう模範国として認識されるよう、世界の叡智を集結し、どのような国家運営が理想か、国民と政治家、財界がお互いが試行錯誤しながら国家運営をすることによって、日本の存在感を高める方策しかないと思うのですが、如何でしょうか。

いくら世界に冠たる債権国だと対外的に誇ってみても、自国民の信頼を得られないような政治、あるいは諸外国の人々が眉をひそめるような事象がたくさん起こるような国では対外的な信用は得られません。

「100歳までの長寿の者多数にして、中高年は仕事にいそしみ、若者の活力満ち溢れ」と評される国に変わって欲しいものだと、一庶民として希望してやみません。

Wednesday, July 04, 2007

大衆社会への警鐘 『ニッポン・サバイバル』(姜尚中著)(続)

姜尚中(カン・サンジュン)さんが語った、

「テレビの流す画一的な情報に流されて、人々が多角的に物事をとらえることが出来なくなくならないよう」

と、注意を喚起されていることですが、これは私にもこころ当たりがあります。

メディアの過剰報道というのでしょうか、失業者イコールなにか訳ありのことをした人、子供に挨拶すると幼女誘拐と間違えられるのではないか、という自意識が過剰になってしまい、平日にのんびりと街に出るような環境でなくなっている気がします。

 これは私が失業時にも思い当たることで、家族の温かさが恋しくて郊外の住宅地に戻っても、失業という後ろめたさから近所を散歩さえ出来ず、ひたすら体重が増えていった、という事がありました。

田舎の会社にいるときに、一緒に働いてきたおばさんから、

「都会の住宅地って、人の交流がないらしいね。ご近所の家に対する遠慮から、そのまま家に引きこもっちゃってブクブク太ってゆくらしいわね」

と恐ろしげに聞かれた事がありました。まさにその通りである。

失業中、人目を忍んで、朝方新聞をとりにいくと、パッと玄関の照明に照らされて、俺はトム・ハンクスの映画に出てくる「メィフィールドの怪人」か、と自分で思ったこともあります。

 また、最近は子供にも声をかけづらくなってしまった。

新幹線に乗っているとき車窓に富士山が見えたので、横に座っていた小さな女の子に「ほら、富士山だよ」と声を掛けると、後ろの座席に座っていた母親が新幹線を降りる際に、不思議そうな顔をして、まじまじと私の顔を見て降りていったことがありました。

私は「何か不審感でも抱かれたのか」と事後、少し悩んでしまいました。

田舎へ行くと、お爺さんお婆さんなどが向かいのコンパートメントを倒して、

「いや、いや、どこから来られましたか」
「いや私は広島から」

などと言ってガヤガヤ話はじめるものだが、昨今はそんなこともない。

昔は電車に乗り合わせるということが、イコール他の文化圏の人との触れ合いということで、互いに乗り合わせたのなら必ず挨拶することが常識だったことを考えると、非常に嘆かわしいことである。

報道とは本当に難しいものだ、と考え込んでしまう昨今である。

(※1) 「メイフィールドの怪人」;ジョー・ダンテ監督、トム・ハンクス主演の映画。隣人がおかしなことをしているのではないかと主人公がさまざまな想像をして恐怖におののくが、実際は何もやっていなかった、というコメディー。

Tuesday, July 03, 2007

大衆社会への警鐘 『ニッポン・サバイバル』(姜尚中著)(正)

姜尚中(カン サンジュン)さんが、人間が生きてゆくうえでぶちあたるさまざまな疑問に対して、読者の声を交えつつ語ってくれています。

その中で、第二章、「自由」なのに息苦しいのはなぜですか? という問いに対しては、潜在能力(ケーパビリティ)のある社会になれば人間は自由になれる、と答えておられます。

インドの経済学者アマルティア・センという人が唱えている、人々が自ら価値を認める生き方を選ぶための潜在能力を拡大することで、人間の本質的な自由が増大する、という考え方だそうです。

そういえば、小生も普段なにげなく見ていた東寺の五重塔が、司馬遼太郎さんの『空海の風景』を読み、弘法大師に真言密教の根本道場として嵯峨天皇から与えられた寺だという歴史的事象を知ることによって、これまで何度か足を運んだことのある高野山の記憶や遠い弘法大師の生涯に思いをはせて、この前とは違ったものにみえるし、悠久の歴史に思いをはせて感動することが出来ます。

さらには、ずいぶん昔の話ですが、高野山のあるお寺の高僧にわざわざ時間を割いていただいて、訓示をいただくという僥倖にも巡り会いました。

つまり、情報なり知識、体験を吸収して自分を生かす力(智恵)にかえて、生きる選択肢を増やすことが、その時コミュニケーションという、人間の本質的な自由な行為に変わり、行動するのに多様な選択肢を与えてくれる、という意味に解釈しています。

また、第5章、激変する「メディア」にどう対応したらいいのか? という疑問に対しては、家族なり、地縁的な結びつきの中で個人がだんだんと社会化していった環境が一変して、そういうネットワークがなくなってしまったことを憂いておられます。

姜さんは、労働組合や地域の縁故関係など、従来型のしがらみでとらわれた形で政治に参加することがなくなった代わりに、テレビやインターネットの情報をみて特定の政治家と直接結びつくようになって、政治が権力に操作され、少数意見が尊重されない、という事態に陥ることを最も憂いておられます。

たしかに、かつて日本人が憧れた郊外の住宅地は、牧歌的な庭園が点在するところとはならず、郊外の住宅地は地域社会とつながりの希薄で孤独な中産階級の老人たちの長屋(ドーミトリー)と化し、新しくできあがった郊外の住宅地は、夫たちが夜にしか姿をみせず、妻たちがわが子の運転手をつとめる中流階級の新しいドーミトリーとなりました。

経済大国の中で花咲いたのは大衆社会という徒花であり、テレビジョンの普及により、大衆の数は級数的に増加していきました。その間に芽生えてきたのは、社会的な無関心や利己主義的な考え方であり、大衆の多くはいつのまにか、自らの地域社会から逃避し、テレビジョンが創りあげた虚構の世界に安住する住人となってしまっている、とも言えます。

ドイツの哲学者ヤスパースは、大衆というのは国民と異なる、と説き、大衆とは、

「大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承ももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任をもたず、最低の意識水準に生きている」

と言っています。

国民としての自覚というのは歴史的自覚である。それを失うと、その国民は滅びてしまうというのが、ヤスパースの意見です。

 最後に今日の読書で、偶然こころにズキンと刺さった加藤周一さんの『夕陽妄語Ⅷ』の『巨匠』再見―劇場の内外を引用します。

(以下、引用)

ナチスの将校はワルシャワ近郊の小さな町で四人の「知識人」を処刑するためにやって来る。彼の「リスト」には老人が市役所の簿記係として載っているので、老人は知識人から除外される。

しかるに彼は自ら進んで、簿記係は臨時の職にすぎず、本来は俳優であると主張し、それを証するために『マクベス』の一場面を将校の前で演じる。
その演技を見終わったドイツ人の将校は、丁寧な言葉で「たしかにあなたは俳優です」と言い、老人を銃殺すべき「知識人」の列に加える。
当事者にとっての自由な選択は、簿記係として生きのびるか、俳優として死ぬかである。

一方には平凡な日常性への埋没、他方には日常的な「平和」を超えて、自ら信じる価値を貫こうとする矜持がある。

(中略)

たとえば選挙の投票行動はほとんど犠牲らしい犠牲を必要としない。しかし「長いものには巻かれろ」の現実主義か、「一寸の虫にも五分の魂」の人間的尊厳を選ぶことができる。


(引用)
『ニッポン・サバイバル』(姜尚中著:集英社新書)
『夕陽妄語Ⅷ』(加藤周一著:朝日新聞社)

Saturday, June 02, 2007

高橋是清と福沢桃介

「不撓不屈」の高橋是清と「時代の寵児」福沢桃介。

 対照的な半生を簡潔に綴ってみたい。

高橋是清は仙台藩の命で渡米。ホスト・ファミリーは是清らを召使として使い、「このような目的で渡米したのではない」と反駁した是清を奴隷として売り飛ばしてしまう。

サンフランシスコの名誉領事の計らいで是清は奴隷契約から解放され、帰国した是清は16歳で大学南校(後の東京大学)の助手に。しかしながら、そこで覚えた茶屋遊びで放蕩の限りを尽くし、長襦袢で芝居をみにいっているところを同僚にみつかり退職、馴染みの芸者の家に転がり込む。


唐津の英語学校に就職が決まり奉職するも、再び19歳で上京、大蔵省十等出仕となるが上役と衝突して、かつて助手をやっていた大学南校に学生として入学、「新知識」を吸収し翻訳や予備校講師として働く。

一方の福沢桃介は、慶応義塾で成績優秀、色白で貴公子風であったが、スポーツには自信がない。そこで、一人だけ白いシャツにライオンの絵を描かせ塾の運動会に出たところ、塾長福沢諭吉の目にとまり娘ふさの婿養子に、まさに順風満帆の人生である。



桃介は結婚の条件であった渡米を果たし、学校での勉強よりも実務の勉強と、ペンシルヴェニア鉄道に事務見習いとして入社。賓客扱いであったという。
クリーブランド大統領が富豪の邸に来たときには日本人学生代表として握手、日米の人脈を広げることに尽力した。帰国後は、北海道炭鉱鉄道株式会社に初任給百円という破格の高給で入社。


28歳で官界に戻った是清は文部省、ついで農商務省へ。農商務省の派閥争いで追出される形で、33歳のとき特許制度調査のため渡米。言うべきことをはっきり言う是清はアメリカ人に好かれ、特許長の書記長は生まれた息子にコレキヨ・タカハシと名付けるほど。
日本ではじめて工業所有権保護制度をつくった。


桃介は北海道炭鉱鉄道株式会社に入って活躍するも、結核にかかり療養所入り。長期療養を強いられる。なんとか自活の方法をとあれこれ模索し、株に手を出す。
すると戦後景気で株価が急上昇、桃介は千円の元手で十万円近くの利益を得る。
病気の癒えた桃介は諭吉の甥、中上川彦次郎の世話で、王子製紙の取締役に30歳でつく。


ところが、桃介とは犬猿の仲、井上馨が工場視察に訪れ、原材料、製品の産地、種類、値段についての質問に、虫のいどころの悪い桃介は「一向に存じません。わたしはまだ新参者ですので」をくりかえすばかり、業務に不熱心と烙印を押された桃介は宮仕えは肌に合わぬとばかり、王子製紙を退き、水力発電の開発に尽力する。



ペルー銀山開発の国策会社の代表に指名された是清は、艱難辛苦の果てに現地入りするも、そこで技術者の報告が全くの嘘であったことを知り、落魄。日本の鉱山開発をするも失敗。妻は毛糸編みの手内職、息子たちは蜆売りをはじめると言い出す始末。
みかねた日銀総裁川田小一郎が、ペルー銀山の経過を質し、是清の説明に得心のいった川田総裁は是清に山陽電鉄社長にならぬか、と持ちかける。
しかしながら、是清は「自信のない鉄道社長より玄関番」と固辞し、「日本銀行建築所の端役」に拾われる。
そこで見事な工事監督としての手腕を発揮した是清のその後の栄達は、後の世の人が知るとおりである。



金融界の援助や外資導入によって7つの水力発電所を完成させた桃介は、貴族院にという話が起こったが、
「金がある者は権力や地位がない。権力があり地位のある者は金がない。其処に自然とバランスが取れて徳川の三百年が続いた」
と言って断ったという。

(『野性のひとびと』(城山三郎;文春文庫から抜粋、要約)

Friday, May 25, 2007

Romazi Nikki

Yo ha Zenpukujikouen ni sakura o mini dekaketa.Zenpukujikouen  no sakura ha mankai deshita. Moppu no youna inu ga ubaguruma o hiita obaasan no ushiro o yochi youchi tsuiteyukimashita.Amarini inuno ayumi ga osoinode obaasan ha IKUYO to shiwagaregoe de inu o sikaritsukemashita.

Ichijikann hodoaruite ike o ishuushite kitara kudanno obaasanga hizani moppu no youna inuo nosete benchi ni koshikakete bouzento ike o nagameteimashita. Nandaka amarinimo samishisoude koe o kaketaku narimashita.

Kono romaji nikki ha Takahashi Genichirou san no Nihonnbungaseisuishi kara hint o emashita. Genchan arigatou.Soshite Kamakura ni ie o motete yokkatsutane.


余は善福寺公園に桜を見に出掛けた。

善福寺公園の桜は満開でした。乳母車を引いたお婆さんの後ろをモップのような犬がヨチ、ヨチついていきました。あまりに犬の歩みが遅いので、お婆さんは「行くよ!!」とシワガレた声で犬を叱りつけました。

一時間ほどして、池を一周してきたら、くだんのお婆さんが、膝の上にモップのような犬をのせて呆然と池を眺めていました。なんだかあまりにも、さみしそうで声を掛けたくなりました。

このローマ字日記は高橋源一郎さんの『日本文学盛衰史』の石川啄木の頁にヒントを得ました。源ちゃんありがとう。そして鎌倉に家をもててよかったね。

Thursday, May 24, 2007

『護憲派の一分』の感想

印象に残ったのは、土井たか子さんの愛とその愛に対する執着心の強さだ。

こんな事を書くのは男女平等を唱える土井さんに失礼かもしれないが、女性の貞操感のような清潔感、子を想う「母」の思いの強さ(狩野芳崖の「悲母観音像」のようなイメージ)、つまり愛に対する執着心の強さが、憲法九条つまり平和憲法死守、護憲につながるのではないかと、考える。

次に印象に残ったのは、作家石川好さんの言葉。

(以下、引用)

アメリカ人は「リメンバー パールハーバー」と言って、日本人が「ノーモア ヒロシマ」と言う。

しかしそれを逆にしたほうがいい、と。

つまりアメリカ人が「ノーモア ヒロシマ」と言って、「原爆はもう落としません」と誓う。私たち日本人は「リメンバー パールハーバー」と言って、再び侵略戦争をしませんと誓う。

これなかなかいい考えだと思うんです。

(引用終わり)

これはまさに名案中の名案、まさに世界のど真ん中で平和憲法を叫ぶ、といった気分です。

意外だったのは、平和憲法が世界にあまりしられていないという事実である。

アメリカの著名なコラムニスト、ボブ・グリーンでさえ、高知に住む高校生の英訳した平和憲法の手紙を読んで、はじめてその素晴らしさを知ったというのであるから、驚きである。

最後にもっとも印象に残った箇所は、マザー・テレサの「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」だ、という言葉。

そして、マザー・テレサの国葬に日本国の代表として土井さんが出席したこと。そして、そのように計らったのが故橋本龍太郎首相であったことである。

横田めぐみさんの拉致事件に関わる社民党の対応のまずさから、田代まさし事件(※1)に次ぐ、凄まじいネットバッシングを土井さんは受けたのであるが、北朝鮮と交渉し紅粉勇船長と栗浦好雄機関長を救出したのは、小沢一郎さんと土井さんであったことを忘れないでいただきたい。

「書物はそれが書かれたとおなじくじっくりと慎しみぶかく読まれなければならない」と、『森の生活』を書いたソーローは言いましたが、その言葉通り、憲法前文を噛み締めるように読んでいただきたい。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いずれの国家も、自国のみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

平和憲法反対論者には、さだまさしさんの「防人の歌」を聴いて欲しいものだ。


(注1) 田代まさしネットバッシング事件:
2001年頃、世界の今年のナンバーワンの人物を決めるインターネット投票に“Masashi Tashiro”という投票が日本から殺到し、世界でナンバーワンの票を集め、主催側のアメリカから“Who is Tashiro?” という問い合わせが日本に来た、という国辱的人権侵害事件。


(後日譚)
IT社会における立派なインフラが整備されても、その道路を走るコンテンツがなければ、無駄な公共事業と同じ構図になってしまうのではなかろうか。ましてやITインフラは世界とつながっている。世界を走る道路にみすぼらしい日本の自動車を走らせることはできない。

「『出版巨人創業物語』とリベラルな出版ベンチャー 」
(http://www.yorozubp.com/0601/060119.htm)

Monday, May 21, 2007

鎌倉の蝉時雨

昔、NHKFMでクロス・オーバー・イレブンという番組がありました。

ナレーターは津嘉山正種さんで、音楽の間に津嘉山さん独特の暗く低音の押しの強い声(それでいて後で何とも言えない余韻の残る声)で、音楽の合間に何連かの物語を語ってくださるコーナーが楽しみで仕方ありませんでした。

その中で印象に残っている物語をひとつ(なにせ昔聴いた話なので、明瞭には思い出せません。内容も正確ではありませんので、ご勘弁の程を)

(できれば津嘉山さんの声を想起して文章を読んでください)

十数年ぶりにアメリカに住む友人から手紙が届いた。

私の意識は、遠いアメリカに住むアメリカの友人と過ごした過去の記憶をまさぐった。

ドン、ドン、ドン、ドン

朝方、急に戸を叩く音で目を覚まし、何事かと、ドアを開けると、そのアメリカ人は

「ジェネレーター(発電機)の音がうるさくて眠れない。なんとかしてくれ」

と私に訴えた。

鬱蒼たる竹林から間断なく聞こえてくるジージーという音のことだ。私があれは蝉の声で、発電機の音ではない、と説明してもなかなか納得しようとしない。

しばらく押し問答が続いたが、ようやく彼は合点がいったようで、

「こんな雑音を平然と聞いていられる日本人が信じられない」

と言った。

われわれ日本人にとっては夏の風物詩である筈の蝉の声が、アメリカ人である彼の耳にはとても耳障りな雑音としか聞こえないらしいのだ。


それから十年、アメリカから届いた友人の書簡の末尾には、

「この頃、鎌倉の蝉時雨が無性に懐かしく感じられます」

としたためてあった。

Sunday, May 20, 2007

制度設計の是非

政治のことに嘴を挟むと、因幡の白兎になりかねませんで、今回でお仕舞いにさせていただきますが、紹介させていただきたい一文がひとつ

『地域民主主義の活性化と自治体改革』(山口二郎著:公人の友社)

「しかし物事が動く時、特に長い間世の中を支配していたパラダイム、政策とか制度の基本的な原理・枠組みが変化する時は、当事者が意識するかしないに関係なく、とにかく何か判らぬままスイッチを入れてしまうものです。

うっかりスイッチが入ってしまうと、今度は制度や組織を巡る議論というものがどんどん自己運動を始めて前へ前へ進んでいく。歴史の変化というのはそういうものです。

誰かがこういうふうにしようといって周到な設計図を書いて、あたかもプラモデルを組み立てるように、新しい制度を構築していくことなんてことではないんです。

今の混沌というのは、やはりある種のパラダイム・シフトといいましょうか、世の中を支配してきた制度とか組織とか政策とかの原理が大きく変わる入り口ではないかと感じているわけです」

今、併読して“Japan‘s First Strategy for Economic Development”
(IUJ-IDP Press: Written by Inukai Ichiro)という本を読んでいるのですが、経済活動についても同様の記述が見えます。

(以下、抜粋)
“First, it was the Kogyo Iken which first defined the central of indigenous components of the national economy in modern economic growth in Japan and projected the growth of productivity of agricultural and rural industries within a traditional framework of small-scale enterprises.

“ a tremendous gap exists between the “policymaker’s world of economy” and the “people’s world of economy.” Calculations which are rational to the people whose participation is crucial for the achievement of the plans. The overall approach of the Kogyo Iken was one of consciously attempting to bridge this gap, an issue often neglected in contemporary development plans in the countries of the third world. The most striking feature of the Kogyo Iken as a development plan was that the government knew what to tell the people to do.

意訳させていただきますと、

とてつもない大きなギャップが「政策者の企図する世界経済」と「民衆の企図する世界経済」の間に存在しました。
計画の達成のためには、参加者である民衆にとって合理的な見積もりが必須の条件なのです。
興業意見の包括的なプローチはこのギャップを意識的に埋めようとしている。この種の問題は、通常、発展途上国の開発計画において見過ごされがちなことである。
興業意見の最も大きな特徴は、政府が人々に対して何をつたえるべきかを明確に理解していたことである。

※ indigenous = http://en.wikipedia.org/wiki/Indigenous
“Japan‘s First Strategy for Economic Development”
(IUJ-IDP Press: Written by Inukai Ichiro)をお読みになりたいかたは、
http://gsir.iuj.ac.jp/j/index.cfmへお問い合わせください。無償で送ってくださいます。 。(現在はおこなっていないと思います)

「共進会」や「同業組合」が、”The central of indigenous components of the national economy in modern economic growth in Japan”であったと論じていることが興味深いですし、『興業意見』こそ、カール・マルクスの『資本論』やメイナード・ケインズの『一般理論』の基礎をなすものと、犬飼教授は語っておられます。

忙しい方にお薦めの一冊

小学館「本の窓」2007年6月号から抜粋、要約:

「日本語を愛する~人間関係を豊かにする~」

1.「日本語力を鍛え優しさを身につける」山川健一氏(作家)
(以下、部分要約)

「腹に据えかねる」という言葉から「キレる」という言葉の変遷から、時代がすすむにつれその部位が「腹」から「頭」へと上に移動していると論ずる。

また、ポップソングの変遷から情景描写が消え(=メタファー、暗喩)、ストレートなメッセージ(=直喩)が巷にあふれることになったと説く。

最後に、ヴァージニア工科大で32人射殺したチョ・スンヒ容疑者がNBCテレビに送りつけた犯行声明はあきれるほど稚拙なものだったという。

描写力、表現力が弱まっているのは日本に独自の現象ではないかもしれない、と結論づける。


2.「新しい共同体のために必要な日本語教育」平田オリザ氏(劇作家・演出家)
(以下、要約)

オリザ氏は「社会の重層性」と「言葉の重層性」を関連付けて説く。

社会の重層性とは少数意見の尊重であり、江戸時代の歌舞伎のように家族で一日がかりでエンターテーメントを楽しみ父親が薀蓄を語るような行為であると語ります。

重層性の少ないサルの社会では、ボキャブラリーが少なくて、威嚇の言葉とか勝ち負けを表す言葉くらいしかないそうです。

地域社会も床屋を例に挙げ、かつて昼間っから将棋をさしているおじさんがいたりしたコミュニティスペースであった床屋が、経済の効率化のため人がいては困る場所になってしまったと語る。

最後に、「国語」とい授業を「ことば」と「表現」という授業の二つに分けた方がいいという非常に刺激的な意見を説いておられます。

内容を詳しくお知りになりたい方は、以下の住所に購読申し込みをして下さい。
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Saturday, May 12, 2007

日本語を学ぶ奇特な外国人の方のために

創慧研究所の「価値研究家」の長谷川さんとお話をしていて、日本語を外国人に論理的に教えるのが如何に難しいかを語った。

 野球に例えれば、ノムさん流の理論づくでバッティングのコツをつかむのではなく、とにかく練習の球を大量に打ち続けて無意識にコツを掴む方がよいのではないかと思った。

 であるからして、日本語を学ぼうとなさる奇特な外国人の方は、文法を学ぶのはそこそこにして、日本語の文章を大量に読んでください。

「習うより慣れろ」です。

C・W・ニコルさん、リービ英雄さん、デビット・ゾペティさんのような外国人の日本語小説の書き手が出てきて欲しいものです。

Thursday, May 10, 2007

うるおいのある社会へ

昔、内田裕也さん主演の「水のないプール」という映画がありました。

地下鉄の職員を辞めた内田さんが一人暮らしの女性のアパートに侵入し、女性にクロロフォルムを嗅がせてはよからぬことをする、というストーリーだが、犯人が変わっているところは、朝になったら必ず女性のために朝食を作って帰ってゆくところである。

間抜けなことに犯人は犯行後に自分のまいたクロロフォルムを嗅いで眠りこけてしまい、逮捕されるのだが女性は何故か告訴をとりさげる。

「だって、なぜか優しかったんですものあの人」

その後、犯人と女性が灼熱の炎天下の中、裸足で水の入っていないプールのプールサイドに腰掛けて足をぶらぶらさせているシーンが最後に映し出されて THE END。

高度成長期の潤いがなくなりつつある社会に生きる、二人のこころには満々たる水がたたえられている。

若松孝ニ監督の見事な描写とメッセージ性に感服した。

Sunday, May 06, 2007

想像力と物語性が失われつつある現代社会

1.
『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著:講談社新書)を読んでいて、愕然とする事実に数多くぶち当たった。

最近、「正当な権利」と「個人の身勝手」の境界線が引けない人が多くなってきたそうだ。

これは筆者の言うとおり「他者の立場にいることを想像して、他者に配慮する」ことが出来なくなっている証拠でもある。

つまり、現代人に想像力が徐々に乏しくなっていることを示唆している。

これは何に起因するのだろうか、と考えてみた。

すると、コンテンツ産業が国家戦略となった途端、ファイナル・ファンタジーやドラゴン・クエストなど壮大な物語性のあるものがなくなった、というくだりに当たった。

昔、アメリカ人が忙しさのあまり、壮大な長編小説を読まず、短編小説しか読まなくなったという“Quick Lunch Literiture”という現象が起こったが、ゲーム界にもそれと同じような事象が起こりつつあるそうである。

現代における物語性の喪失である。

評論家の中村雄二郎氏によると、「物語」はいろいろな面で人と人とを「つなぐ」はたらきをもっているという。

「物語の知」の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味を持ったものとしてとらえたい、という根源的な欲求」である、と指摘している。

つまり、物語を鑑賞し思索するという行為の喪失が、現代人の他者の立場にたって考えるという、想像する力の欠如につながっているのではないかと、私は考える。


2.
「週刊文春」の清野徹さんは、本が売れない現状をこう分析している。

「本というものはフィクション・ノンフィクションを問わず「社会的他者という」存在を教示してくれる。

本がまったく売れないということは、現在ここにいる人が他者を欲せず自己の領域にとじこもることを意味する」
(「週刊文春」清野徹のドッキリTV語録より引用)

人間は読書によって自分の体験できない世界を仮想体験し、人間はその行為によって、他人のものの見方や考え方、自分の所属する社会以外の社会の存在や仕組みがわかるようになる。

もはや日本人は日々の生活に忙殺され、他者を理解するために物語に触れるこころの余裕も失っているのか、と考えさせられてしまう。

先日の寶田時雄さんのDVD講義の「人間の座標軸に情緒(=歴史、文化的存在)をすえよ」という言葉が浮かんできた。

私はその時、とっさに「何故、座標軸に情緒? 論理ではないのか?」と考えたが、それは間違いであることに本書を読んでいて気が付かされた。

世の中にはいくら論理的に説明しようと言葉を尽くしても説明できない事項が数多く存在するのである。

例えば、今朝フジテレビに出演していた藤原正彦さんが幼少時代に命ぜられたという「卑怯なことをするな」という父親の言葉。

仮に「弱いものを大勢でいじめるのは卑怯である」と言われた子供が「何故?」と問い返したとする。

親は「それがまっとうな人間のおこなう行動であり、正義であると脈々たる歴史が証明している」としか説明できない。

もし子供がその言葉に小賢しい論法で反論してきたら、それこそ張り倒すしかないだろう。

人間の社会には論理では説明できない、人間が悠久の歴史をかけて築き上げてきた道徳と倫理というものがあるのだ。

物語に触れて、情操を涵養するという行為は、若年期にしかできない行為である。したがって、その行為が人間を人間らしくあらしめ、劣化する日本人を救ってくれるのではないか。


3.
しかしながら、小説を読むことは非常に億劫な行為である。こころと時間に余裕がないと決して読む気にならない。

かく言う小生も最近は物語性のある小説ではなく、論旨が明確な新書ばかり読んでいる。

昔、理科系の友人に「何故、本を読まないのか?」と質問したら、

「だって時間の無駄って感じがするじゃん」と言われた。

島田雅彦氏が大学に講演に訪れた際、大江健三郎氏との対話で、

「小説ってのは林の木を一本、一本描くのではなく森全体を漠然と描いていくものじゃないですかねぇ」という結論で一致したと言った。

確かに小説を読むという行為は、鬱蒼とした森を探検するのに似て、小説から何かを感じとることは出来ても、その感動や不気味さを言葉で表現することは難しい。

作品のメッセージや意図は作者によって巧妙に隠され、問題点は小説の各所に散りばめられている。

読者は作者の意図するところを論理ではなく、情感で感じとることを要求される。

小説をたくさん読んで何を得たのか? と聞かれても答えられない。

でも、物語を読むことによって世知辛い世の中から一時(いっとき)離れることができて、救われてきた感じがしないでもない。

それ故に、小生は読書を奨めるのである。

Friday, May 04, 2007

赫奕たる日蝕・三島由紀夫と石原慎太郎

三島由紀夫と石原慎太郎の出会いから離別までを断片的に記述します。

(以下、『国家なる幻影』(上)(下)石原慎太郎著:新潮文庫から抜粋引用)

1.
「偉人は体が大きい」という思い込みがあった石原氏はトレンチコート姿の三島氏が思いのほか小柄(158cm)であったのに驚き、初対面にもかかわらず「僕、三島さんてもっと大男なのかと思っていましたよ」と言ってしまう。三島由紀夫、何とも言えない顔で「いやあ、わっはっはっ」。笑い飛ばす。

文藝春秋社の屋上で二人そろってグラビア写真を撮影する。

石原氏、手摺が煤煙でひどく汚れていることを注意すると、三島氏かまわずに大きく身をのりだす。

撮影後、汚れはてた手袋を叩きながら「いやあ、わっはっはっ」。「それよりも君この写真のタイトルは何にするかね。僕は決めてきたんだよ、新旧横紙破り。どうだい」。三島氏、呵々大笑。文春のカメラマン、その日の三島氏の姿を見て、「何だか三島さん、えらく気負っていたなあ」

三島由紀夫の最後の大河小説「豊穣の海」を苦労して読み終えた石原氏は思わず涙する。

その作品のあまりに無残な退屈さと三島氏の作家としての内面の衰弱のため。

最も無残なのは、若かりし頃の自分の作品を模倣して書いているところだと語り、「ああ、あの三島さんにしてこんなに衰弱して死んでしまったのか」と嘆息する。この評価に天国にいる三島由紀夫は「いやあ、わっはっはっ」と、笑い飛ばすことが出来るだろうか。

2.
ある日、弟の裕次郎氏が映画をみて帰ってきて、石原慎太郎氏に「三島由紀夫が映画に出てたぜ」と言ったところ、慎太郎氏はそのことにたいへんな衝撃を受けた。当時は、文士というものが映画などというものに出演すること自体異例な出来事だったらしい。

それを機に石原氏は三島由紀夫の熱心な読者になるわけですが、石原氏は三島氏のそういう前衛的な部分に惹かれたのかもしれません。

この現象を現代に置き換えてみると、かぶりものを着た坂本龍一氏がダウンタウンの番組に出演し、ダウンタウンと水中で棒を振り回して殴りあう映像と同じくらい衝撃度があるでしょう。

3.
三島由紀夫と石原慎太郎を語る上で欠かせない挿話は、病床に伏せる石原氏宛に送った三島氏の一通の手紙である。

ベトナムから帰国し重篤な肝炎に倒れた石原氏は三島氏から懇篤な一通の手紙を受け取る。
その手紙には

「自分も以前に潮騒の取材で同じ病気にかかったが、実に嫌な病気だった。君の今の心中は察するに余りあるが、一旦病を得たなら敢えてこれを折角の好機と達観し、ゆっくり天下のことを考えるがいい」

とあった。

この一通の手紙が石原氏の心を平明に開いてゆき、やがて政治の世界に飛び込むことを決意させる。石原慎太郎氏は昭和四十三年参議院全国区で最高得票を獲得し、国会議員として道を歩み始める。

4.
皮肉なことに石原氏の政界入りによって、石原氏と三島氏との関係に亀裂が入ってしまうこととなる。後に石原氏はこの間の三島氏との関係を「おもちゃの奪い合い」のような関係になってしまったと回想しているが、三島氏の嫉妬はやがて三島氏を過激で尖鋭化した政治活動に向かわせることとなる。

毎日新聞上に「石原慎太郎への公開状」なる文章を掲載し、自民党の禄をはむ人間であれば批判など一切すべきではない、それは武士道にもとる。本気で批判するなら諫死の切腹をせよなどという、毎日新聞のデスクも頭を抱えざるをえないような内容の論旨を展開しだした。

さらに、保利官房長官が今日出海氏、三島氏、石原氏の三氏を呼んで雑談をしたところ、三島氏は政府が自衛隊を使っての反クーデターの詳細な計画を滔々と語りだし、保利官房長官を当惑させたりした。今氏に「君、三島君はどこまで本気なのかね」と問われた石原氏は「これから書くつもりの小説のプロットじゃないですかね」と答えた。

※ 「赫奕たる逆光」(野坂昭如)、「三島由紀夫の日蝕」(石原慎太郎)を入手されたい方はAmazon.comか紀伊国屋書店の古書のコーナーで入手して下さい。

第66回 7,000人来訪記念 文化相違の「笑い」と、今まで書いたものの棚卸
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-21)

第67回 「無名であるといふこと」 郷学研究会の講義(上)
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-28)

第68回 「乾ききった社会」 郷学研究会の講義(中)
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-28-1)

第69回 「昇官発財」 郷学研究会の講義(下)
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-28-2)

第70回 知識人がボロリと漏らす重要な言葉
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-05-03)

Thursday, May 03, 2007

知識人がボロリと漏らす重要な言葉

(1)対談集『気骨について』(城山三郎;新潮文庫) より抜粋
城山三郎氏と加島祥造氏との対談にて、

加島祥造氏:
「老子を私は英語訳で読んだんですが、英語だとじつにモダンに映るんです。

「コップは、中が詰まっていたら何の役にもたたない」という言い方から始まって、部屋の中だって中がいっぱいだったら部屋じゃないとか。

英訳だと、すごく新鮮に響くんです。

彼らは簡単な言葉に言いかえてますからね。

原文を読んでいるときはまったくピンと来なかった。
(『タオー老子』筑摩書房参照)

(感想)
ヨーロッパ人が漢字を知ると、一つ一つの記号がそれぞれ意味を持っているという、漢字の厳密な思想に驚くそうです。

そして東洋の思想家は、日常の思考や言語から区別されるだけでなく、他の知識分野や考察方法からも区別される、独自の用語と方法が形成されることを望む。

したがって、漢字で書かれた文章は訓詁学的に難しくなる。

化学記号は漢字の考え方を敷衍して出来たといいますが、日本の学術用語も、意味を限定し、厳密であろうとしすぎるがゆえに難解になってしまうのではないかと思います。

朝日新聞の天声人語に「止揚(アウフベーン)」という哲学用語をドイツの下女が何気なく使っているのを日本の哲学者がみて感心したところ、それは一般日常用語であった、という例が書いてありました。

日本の学術用語は少し難しすぎるのではないでしょうか。

とりあえず、老荘思想を理解するにはまず、英語からということです。


(2)『下流志向』(内田樹;講談社)より引用
内田樹氏:

精神科のお医者さんに聞いたんですけれども、思春期で精神的に苦しんでいる場合、親に共通性があるそうです。

(中略)

子供たちが発信する「何かちょっと気持ち悪い」とか「これは嫌だ」とかいう不快なメッセージがりますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。

(感想)
親がいやがる不快な事象や記号は、遺伝的に子供にもいやな事象や記号として伝わると解釈してよいのでしょうか。

(たとえば親子とも貧乏を想起させるイメージや記号を極度に恐れ、嫌悪する等)

そうだとすれば、これはちょっとした発見である。

そうした子供たちが嫌がる対象物を知覚して、それへの適切な処方箋を提示できるのは、親である可能性が最も高い、いうことになります。


(3)『ザ・プロフェッショナル』(大前研一;ダイヤモンド社)
大前研一氏:

さらに、会計士です。

エンロン・スキャンダルをはじめ、西武鉄道グループやカネボウの粉飾決算など、プロフェショナリズムの不在は言うまでもないでしょう。

しかも、アメリカでは<クイッケン>をはじめとする家計簿ソフトが登場したことで、スペシャリストとしての会計士や税理士が提供する財務サービスの大半が「コモディティ化」、つまり洗剤や歯磨き粉のような、ありふれた存在になってしまったのです。

早晩、日本でも同じ状況が訪れるでしょう。


(感想)
たしかに優秀な会計ソフトベンダーに、制度会計を標準化するソフトを開発してもらえば、会計処理のあいだに人が介在する余地をなくならせてしまうでしょう。

しかしながら「現代は答えのない時代に直面する時代」だそうです。

試算表が出来る前にどんな工程が存在するのかを認識して、制度化できない部分に価値の比重がかかって来るようになるのではないでしょうか。

特に経営者向けの情報を作成する企業内会計(Management Accounting)の分野は企業によって費目の重要性(特にホワイトカラーの数値的な表現)が異なるため、企業ごとに思考する会計サービスというものが重要になってくるでしょう。

アメリカには(Management & Discussion)という項目があります。文章表現が巧みな者がアンダーライターとなりうるでしょう。

財務会計はSAP、ディスクロージャーは亜細亜証券印刷・宝印刷のノウハウをシステム化すれば簡単に出来てしまいます。民間企業の会計監査は簡便なものとなるでしょう。

会計士は会社内会計士としてマネジメント・アカウンティングをとるか、公会計に携わって公の会計士となるか、民間企業の監査に当たるか会計士にとって三つの選択肢があるわけです。コンピュータ対人間という構図になるわけです。

Saturday, April 28, 2007

「昇官発財」 郷学研究会の講義(下)

寶田さんの「昇官発財」は、中国の歴史を材料に、エリートが国益に資するという純粋な動機ではなく、財力、性欲、地位といった欲望によって動機付けられ、難関をくぐりぬけ、国家権勢を握る。

つまり「手段と目的の逆転現象」が中国の歴史では既に発生していた事実を述べる。

「国益を任せるに耐えうる人材を選び抜く」試験という「手段」が、パスすれば栄達を得られる、つまり試験にパスすることが「目的化」しはじめる現象が古来中国にあり、教師もそのような欲望を駆り立てることによって勉強をさせていた、という実例が示されている。

そして、徐々にその指導層のおこないが国民の生き方にも反映されていく、ということの危険性に警鐘を鳴らした資料である。

「魚は頭から腐る」との諺のとおり、国を代表するものが利に溺れるようになれば、下の者もそれに倣う。

この状態を資料の漢文からぬきだせば、

「天下は壤々として(集り群がって)みな利のために往き、天下は熙々として(喜び勇んで)みな利のために来る」(六韜)

「ことごとく、仁義を去り、利を懐いて相い接わるなり。かくの如くにして、亡びざるものは、未だこれ有らざるなり」(孟子・告子)

「勢を以って変わる者は、勢傾けば別ち絶つ。利を以て交わる者は、利窮すれば則ち散ず」(文中子、礼楽)

今のエリート層に言えることは、幼稚園の頃から一般庶民と、スタート・ラインからことなるという事である。エリート層は、隔離された特別な社会の中で育ち、一般庶民との触れ合う機会がない。

私が日経新聞の「わたしの履歴書」を読んでいて驚かされたのが、住友の大番頭だった伊部恭之助さんが東大在学中に学徒動因でかりだされて、二等兵として上官の背中を流すことから始めていることである。

流し方が悪いとか言ってはブン殴られたりした、とアッケラカンと語っている。

戦後、住友の大番頭として采配が振るえたのも、こういった経験を経てきたため、下々のこころを慮る度量があったからであって、決して頭が良かったからだけではないのだと、私は思う。

伊部恭之助さんの善政も、寶田さんが大切にする言葉、視線は常に「下座視」であり、「常に立場の弱い一般庶民と同じ目線で」あったためである、と私は考える。人間、それでなければ感じ取ることができないものが数多く存在する。

蛇足であるが、小生が今精読中の”Japan's First Strategy For Economic Development"(Wrirtten by Ichiro Inukai)にも、明治維新の成功の要因として、

”successful implementation of conservative change depends primarily upon two factors: the elite's familiarity with social condition, and its ability to determine what elements of value structure are indispensable to the continuity of the culture"

意訳させていただきますと、

日本が国体を維持したまま改革に成功したのは二つの要因による。
一つは、エリート層の社会状況の十分な理解、もう一つは文化の継続性の為にはどのような価値体系が不可欠かを決める能力があったからである。

講義の最期は、寶田さんが尊敬する孫文の言葉でしめくくられた。

「日本はアジアの希望。日本民族は、西洋覇道の爪牙となるか、東洋王道の干城となるか、それはあなたがた日本国民が選択する道である」

最期に思ったのは、一般的に思想というものは危険なものとみなされるが、思想がなければ人間、機軸のない独楽のようなもので、方向性もなく常に軸が揺らぐ(私がそうである)

こういった啓蒙活動こそが、人間に機軸を与え、「人はパンのみに生きるに非ず」という乾ききった日常から救ってくれるのではないかと。

禅は自分自身をテーマにして、現実の自分の中に、もう一人の自分を探索する“自分探し”をおこない、そのために坐禅をします(坐禅と言う漢字は、人が二人座って坐禅となっています。現実の自己を「感性的自我」、もう一人の自己を「本来の自己」と呼びます)

郷学研究会にせよ、八木博さん率いるチーム・ヴァイタリジェンスにせよ、アプローチは異なるとはいえ、日常の雑踏の中で埋もれてしまっている本来の自己(セルフ)を発見させ、人を活性化させるところに変わりありません。

縦割りの社会ではなく、このような横断的な社会活動に参加することによって、人は一箇の独立した精神を持った人間としての尊厳と自覚を持ち、賢明なる市民に変貌してゆくキッカケをつかむのではないか、と考える。

ヘーゲルは、人が歴史的に意味のある仕事に情熱を持って取り組むときに、

「個人は一般理念のための犠牲者となる。
理念は存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱を持って支払うのです」

つまり、一般社会を変革するには、過酷な現実と対峙せず、宿命としておとなしく受け入れる日常ではイカン、情熱をもって立ち向かえ、という事である。

日本流ソーシャル・キャピタル構築の新潮流が胎動しつつあることを感じています。

「乾ききった社会」 郷学研究会の講義(中)

そして極め付きは、日本人の変遷に関する言説である。(=寶田先生はこの計画は二百年前に計画されたものだが、誰が「われわれ」なのかには言及しなかった)

寶田先生の激しい言葉をそのまま速記させていただくと、

「われわれは全ての信仰を破壊し、民衆のこころから神と精霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える」

この言葉はニューチェが26歳の時に執筆した『悲劇の誕生』に出てくる記述と同じです(以下、引用)

「日々の祈りにかわる新聞、鉄道、電信。巨大な量のさまざまの関心のただ一つの魂のうちへの集中化。そのためにはこの魂はきわめて強く転変自在でなければならない」(引用終わり)

「思索と鑑賞の暇を与えないために、皆の気持ちを商工業(ビジネス)に向けさせる」

「自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤に置かなければならない」

「商工業が大地からとりだした富は民衆の手から投資家を通してわれわれの金庫に収まる」
(確かに、日本はアメリカの国債に投資し、そのお金でアメリカ人は日本株に投資している。これを偉い人は「デット・エクイティ・スワップ(債券と株式の交換)」と呼ぶ)

「経済的生活で優越を得るために激しい闘争と市場での投機は、人情薄弱な社会をつくりだす」

「高尚な政治や宗教に嫌気がさし、金儲けだけの執念が唯一の楽しみとなる」

「民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。民衆は高邁な目的で財を蓄えるわけではなく、ただ錯覚した上流階級への嫉妬にかられ、われわれに付き従う」

これ程、直截に戦後の日本の姿の変容を言い表した言葉があるだろうか。

作家の五木寛之さんは、

「戦後の日本人はウェットな涙やら人情やらを意識的に遠ざけて、カラカラに乾いた世界に閉じこもるようになってしまった」

と述べる。

また、現代人は「科学の知」の有用性とその合理性をよく知っており、その恩恵によって現在の便利で快適な生活を享受している。

しかしながら、経済大国になった今、この「科学の知」は袋小路に入り、「科学の知」偏りすぎた「現代の知」がかえって社会に閉塞感を生んでいるのではないだろうか。

中村雄二郎氏によると、人間は科学の知のみに頼るとき、人間は周囲から切り離され、まったくの孤独に陥るという。科学の「切り離す」力は実に強い。

人間的な情緒が失われ、日本人同志でさえ信じえなくなってしまった日本社会のさみしい帰結が表現されている。

人間は容(かたち)あるハンディなら認識できるのだが、表面上からは容易にうかがい知れない社会の構造上の欠陥による、人間のこころの停滞が起きていることには気が付くことが出来ない。

日本経済は見かけ上、繁栄を取り戻したかのようにみえるが、内的な制度上もしくはこころの「見えざる危機」が未解決のまま山積している、と感じさせられた。

「無名であるといふこと」 郷学研究会の講義(上)

郷学研究会の寶田時雄さんから2枚のDVDと2冊の本が送られてきた。

早速、「官制学の限界、経師と人師」と「人間学講話(郷学研究会)」の2枚のDVDを拝見させていただいた。

「官制学の限界、経師と人師」は、亜細亜大学の教職講義で語られたもので、単に書物を解説する机学先生(=経師)になることなかれ、体験を糧に感動、感激を通じて人間のあるべき姿を説く師匠(=人師)になれ、と説く。

また、教師は、独楽の軸のようなしっかりとした情緒(=歴史、文化的存在)を基軸として、縦軸に天地、横軸に東西南北、の円を回転し情報を集めよ、とも説く。

独楽の軸に「論理」を持ってこなかったのが、寶田さんらしい。

寶田さんが最も大切にする姿勢は、視線は常に「下座視」であれ、ということである。

「下座視」の「下座」とは、広辞苑によれば、①座を降りて平伏すること、②しもての座、末座という言葉であるが、寶田さん流に言うと、「常に立場の弱い一般庶民と同じ目線であれ」という事である。それでなければ感じ取ることができないものが、世の中、数多く存在する。

「新宿公園や墨田川にビニール・シートに住まう人々とも、どんなに地位のある人、著名な人とも対等に話すことのできる人間となれ」

これが寶田さんの目指す究極の人間像である。

寶田さんは師である故安岡正篤氏から「市井の中に埋もれた人々を掘りおこし光をあてる活動」である郷学研究会を起こすように言われたとき、厳命されたのは「ただし、自身は無名のままでおやりなさい」と言うことであった。

私はその「無名性」、つまりあくまでも主人公は参加する人であり、活動の発起人は名を残す名誉さえも捨て去って活動に没頭する、という無私の境地に在るところに感銘を受ける。


DVDでは「THINK JAPAN」の大塚さんも同席されていたが、名利にこだわることなくして誰とでも平等に語り合うことのできる好漢、これは私が寶田氏、大塚氏から感じる人物像そのものである。

私はいつも寶田さんと語ると、自分の出発点である行動規範について考えさせられる。

「読書の姿勢」からしてそうである。

寶田氏のメールを引用させていただくと、

>
>読書も「古教照心」ではなく「照心古教」でなくてはならない。
>明治以降の官制学校歴カリキュラムのマニュアルから脱却しない限り、「我ナニビト」が判明しない。
>つまり自己実現のための表現と、自己を認知したものの表現では結論さえ逆になってしまうということで
>す。
>

小生も当ブログの読者数が予想外に増加していくにつれ、「自分の書きたいものを書く(=自己の中で疑問が生じ、そこを出発点として書く)」ことから「読者に飽きられないように書く(=自己の中では疑問が生じていないのに、読者の為、アクセス数を維持するために書く)」という姿勢に変わってしまったような気がします。

「手段と目的の逆転現象」

大いに反省すべき点です。

Friday, April 20, 2007

「イタリア、韓国にみる民主主義の萌芽と日本の危機」、『ひきこもりの国』より(マイケル・ジーレンガー)(下)

ある英会話学校で英国籍の黒人の女性に言われました。

「あなたは、NPOがこれからの日本では大事である、というけれども日本は平和だし、裕福でそんな社会活動が必要とは思えないは」

その時、とっさに反論する言葉が出ず、沈黙してしまいましたが、後でこころの中で、

(あなたたち外国人には理解できないでしょうけれども、日本には、表面からは見えない人々のこころのエネルギーが不足している、という社会問題があるんです)

と思いました。

本書で紹介されているのは、こころの鎖国を続けている日本と対照的に民主化に成功をおさめた例として、北イタリアと韓国を挙げています。

ロバート・D・パトナム教授が発見した、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」という概念。その中で、「信頼」は重要な構成要素となる。

教授は、未知の人間と信頼関係を築く能力こそが、北イタリア人を豊かにしていると発見した。

市民が参加し、市民意識のあるコミュニティや住民が「お互い公正にふるまい、法を守り、公平・平等の原則を守り、水平的な組織形態をとる」
こうした「市民コミュニティ」は連帯、市民参加、誠実を重んじ、民主主義を機能させる、としている。

ノーベル平和賞を受けたバングラディシュのムハンマド・ユヌス氏のグラミン銀行は、貧困層に少額融資をおこなっていますが、その融資の条件は土地ではなく、「仲間からの信頼」であるといいます。

融資を受ける側が事業計画書を作成し、仲間がその計画をチェックする。その信頼性で融資を決めるといいます。

この無担保で、貧困層に融資する仕組みは「マイクロクレジット」と呼ばれ、アフリカやラテン・アメリカに広がっています。

「人からの信頼」という無形ものが「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」、重要な資産となるのです。

また、1998年、国ごと金融破綻した韓国を再生させる原動力として、市民間の相互信頼を形成するのに宗教の力が大きく作用した例を本書は挙げています。

いまや韓国はIMFに対する債務を4年で完済し、GDP成長率は七パーセント、国内の財閥は解体され、外国資本が韓国の有力な企業の所有者となっている。

韓国は日本よりはやく、資本のコズモポリタニズム化を達成したのである。

政治経済の分野において、「368世代」という1990年に大学を卒業した世代が活躍し、若者は活力に満ちあふれている。

韓国社会は家族や地域、学校や財閥企業の階級的序列にしばられていた。その呪縛を解いたのが、キリスト教の

「普遍主義―神の目に映る人はすべて平等である―や個人主義―一人ひとりの人間は神からそれぞれ固有の才能をあたえられているのだから、その才能をよい方法で表現する義務がある」

という教えで、この意識が韓国の人々の間に強固な信頼のネットワークを築いた。

余談であるが、筆者も、

「人は本性のまま自由に可能性を伸ばす天賦の権利を持っており、そののびやかに生きようとする可能性を侵害することは非常に罪深いことである」

という考えを持っており、図らずも本書でこの考え方は、偶然、西洋の普遍主義と似ているということに気が付き、喜びを覚えた。

最後に著者、マイケル・ジーレンガー氏は、「ひきこもりの国(日本)と面倒見のいいおじさんの国(アメリカ)」という表現で、日本の危機について語っている。

教育についても複雑な論法を用いて問題を分析したり、蓄えた知識を現実世界の状況に応用するなど、グローバル・テクノロージーにそくしたものに変えるべきだと提言している。

最後に、筆者の意見をいわせてもらうと、マイケル・ジーレンガー氏の言う「日本の意識改革」は案外簡単なことから出来るかもしれないと言うことです。

日本の子弟教育は、完璧な子供、弟子あるいは部下をつくりあげようと、80点を採っていても残りの20点についてだけ、厳しく叱責する。90点採れていても残りの10点についてだけ厳しく叱責すると言った、堀場雅夫氏のいうところの、「引き算の採点法」である。

子供、弟子あるいは部下は「これだけ頑張ったのに、この評価か」とがっくりし、伸ばし引っ張りすぎた輪ゴムのように、最終的にゲンナリとたるんでしまい、本来の用途に耐えられなくなってしまう。

私のブログにコメントをいただいた、ほめ屋さんと私の共通項は「他人の長所だけみて、そこをたたえる」ことが出来るということです。

人が他人と異なることを恐れず、人と違う得意分野を持つこと、異なる人をとがめず、そして人の長所をみつけては褒め、伸ばしてやること。

これが一般化し社会に広まるだけでも、世の中は変わるのではないでしょうか。

日本は一度、「こころの洗濯」をするべきです。


(後日譚)
「マイクロ・クレジットという試み」(http://www.cafeglobe.com/news/gramin/index1.html)。おそらくこれは、アジア各地の産業をぐるりとみわたして、その土地に適した産業を国際開発基構のような団体が伝授して始めたのではないでしょうか。

Thursday, April 19, 2007

「個人主義とコジンシュギの違い」、『ひきこもりの国』(マイケル・ジーレンガー)(中)

まず、本書で紹介されている五木寛之さんの言葉を紹介します。

「これは国の危機であり、心の危機である。人々は自分の命を軽く見ている。自分の命を尊重しない日本人はお互いのことも尊重しない。自殺率が高いのは人々が心に神を持っていないからだ」

これは、世界に冠たる自殺大国として名をはせる日本の現状、そして責任のとりかたとして自殺を美徳とする社会の風潮に警鐘を鳴らす言葉です。

「人々は自分の命を軽く見ている。自分の命を尊重しない日本人は、お互いのことも尊重しない」

とあるのは、統計の数字にも表れている。

本書によると、日本は民族的、文化的に強い絆で結ばれているというが、アメリカで「他人を信用できる」という質問にアメリカ人が四十七パーセント、日本人は二十六パーセントが信用できると答えた。

また、「世の中に利他的な人が多いと思うか」という問いに対しては「思う」が、アメリカ人が四十七パーセント、日本人は十九パーセント。これほどまでに人間不信が強いというのはちょっと驚きである、と書いてある。

日本人は同じ民族でも他の人を信用できない、信用できないからお互いを尊重しない、というさみしい民族になってしまったのである。

「人々が心に神を持っていないからだ」

と、あるのは個人主義についても言えます。

河合隼雄さんは、

「欧米の個人主義はキリスト教に根ざした考え方で、いつも天からあなたを見下ろし、どんな好き勝手なことをしていても、なんらかの評価を下す神の存在をかたときも忘れなることはないでしょう」

という西欧人も(まあ、日本にも、お天道さまがみているよ、といって天地自然に手を合わす習慣はありますが)と日本のメディアからみて吸収して会得したつもりになっているコジンシュギは異なると厳しく峻別します。

日本のコジンシュギは、一家団欒がなく家族旅行もしない、自分の仕事ばかりを大切にする西欧の個人主義よりもさらにコジンシュギだ、と揶揄されるそうです。

私はなんとなく「愛」という言葉をきいただけで、背中がムズ痒くなるというか、愛されたいし、愛したいのだけれども、それを表沙汰にするのが恥ずかしいという、そんな感覚が根本にあります。

こういう感覚を持つ人は日本人に多くいると思います。そんな日本人の気質が、日本人の男性を家族愛やキリスト教の「愛」という精神から遠ざけているのではないか、と私は考察します。

欧米人には、国の憲法や法律、中世から近世に至るまでの市民か築き上げた「個人主義」が確立しており、歴史によって積み上げられた「普遍的価値基準」に基づく行動規範が存在しているという。

では、最終的に「個人主義」がなく「コジンシュギ」がある日本人の拠りどころとするのは何かというと、堺屋太一さんは、


「日本人はこのような相対主義的な信仰システムがあるため、絶対不可侵の神聖な教えとか、倫理原則の確固たる「指針」というものがない」

と言う。

「日本人にとって道徳的に正しいということは、きょうの日本人の大多数が正しいと考えていることなのです」

と言い、さらに

「日本人のよりどころになるものは相対的で、人間中心で、実際的だ。ある時代、ある局面で権力を握っている者が「よい」と考えているものだ、という。時の最高権力者は通常、多数派に属しているので、彼がよいと考えるものは他の者がよいと考えるものと合致している。会社の従業員を支配している者にとってよいことは、会社全体にとってもよいことなのである」

と結論づける。

これでは困るではないか、善悪の判断、社会的正義の執行といった行動をとるために一体われわれは何を規範とすればよいのか、ということである。

無宗教と名乗る人が(まあ、そういう人も密やかに仏教やキリスト教を信じているのだが)おおい日本人は法律を拠りどころとするしかないのか、という問題にぶち当たります。

また本論がらズレますが、日本人は信仰心がありながらも、自らの宗教を明らかにせず、何故、無宗教と名乗るのか、そこら辺も不可解なところです。

中江兆民は、学校教育に必要なのは徳性の涵養であるとし、いかに外国語を教えても、人格が高くならなくては教育とはいえない、西洋ではキリスト教をもって徳育の根本としている、日本としては孔孟の教えを教えるべきと、文部省に掛け合ったそうです。

今後、何を日本の「普遍的価値基準」にするかが大きな問題となるでしょう。

「何故、青年は社会的ストライキを起こすのか」、『ひきこもりの国』(マイケル・ジーレンガー)(上)

この本は日本国全体が「ひきこもり」である、と指摘する衝撃の本だった。

小泉改革で、日本はアメリカの「年次改革要望書」通り、開国し開かれた国になった、と思いきや、著者のマイケル・ジーレンガー氏によると日本はいまだ鎖国状態であるという。

『ひきこもりの国』という本を読みながら、私が感じたのは日本の社会システムは人間システム(ヒューマンウェア、特に35歳以下の若者層)に合わなくなっているのではないかという疑問です。

そこでその点をブログ仲間であるほめ屋さんに述べたところ、以下のような返信があった。

>この点は、私も同意します。
>国民国家というシステムが私たちに合わなくなってきているのではないかと思います。
>
>より踏み込んで言えば、OSの絶えざる更新が必要なのではないでしょうか。旧時代のOSの上に最新のア>プリケーションを載せているような言論が多くて、目も覆うばかりです。
>

OSとはコンピュータのインフラであり、ユーザーの都合によって変更を加えることが出来るが、アプリケーションの変更のように容易に取り替え可能というものではない。

しかしながら、社会システムがあって人間のシステムがあるのではなく、人間あっての社会システムである、と発想を逆にすると、社会のインフラである憲法以外のはじめさまざまな法制度や人々のパラダイムといったものを、これからの社会を担う若者向けに変えてゆかねばならぬ、という論法も成り立つ。

この本の著者(マイケル・ジーレンガー氏)はまず、社会にストライキを起こしている、ひきこもりの青年の実態を把握することで現在日本の抱える病理の根本が分かるのではないかと、リサーチしている。

ひきこもりは日本にしか存在しない現象である。

何故、ひきこもりが発生したかを著者は、朱子学の影響を受けた日本の社会が、恭順、規律、自制、集団の和が極度に強調される社会であるため、その集団の和から疎外された者、プレッシャーに耐え切れない者が逃避しはじめた結果であるという。

次に、河合隼雄さんの提唱する「イエと家」の概念が引用され、戦前のイエ社会の変形版である企業社会の「個々人の人権より、集団の利益優先」という体質についていけなくなった若者たちの姿がある、という。

河合さんによると、昔からずっと、日本人は個人のアイデンティティの追及よりも家系の存続が優先されてきたのだという。

戦後GHQがアメリカ人からみて人道的な制度とはみなされなかった戦前の家族法を撤廃し、日本に個人主義が根付くであろうと思ったところ、日本人はイエに変わるものとして企業社会にその存在意義を見出し、そこに支配―従属的な関係を築きあげ、滅私奉公しだしたというのだ。

現代の青年は、イエの存続ならば自分を犠牲にするという、個人の人権よりも集団の利益を重んじ、イエのためなら個人を犠牲にしてもやむなし、とする社会に出ることを拒否する。

そのような社会の中で、自己表現できないことに不満をおぼえからだ。

また、欧米からのメディアなどの影響で個人の自主性や自己表現といった手法をおぼえてしまったかれらは、日本社会の集団的抑圧にアレルギーを示す。

本書では、

「多くのひきこもり青年たちが自分の本音を捨てられないのは「実社会」で必要とされる処世術と、自分の純粋な気持ちとの矛盾を受け入れることが彼らにとっては苦痛で困難だから」

と述べる。

しかしながら、いまや日本の人口の5分の1が60歳以上という時代である。

昔はある仕事を任せるにも、「かれ。かれが駄目なら、こいつ。こいつが駄目なら、あいつ。あいつが駄目なら、あそこにいる奴」と取り替え可能な人材が大量に存在したが、現在は若い労働力が減少しており、「もはや君しかいない」という状態なのである。

防波堤を守る防人よろしく、若者一人が欠ければ、その防波堤ラインに穴があくほど人手不足の時代が到来しているのである。

さまざまな異質なものをもとりこむ、度量のあるアローワンスの広い社会を構築してゆく必要性があるのではなでしょうか。

小泉内閣でジェンダーの公正推進を訴える坂東真理子さんはこう言った。

「フリーの評論家だったら、私はこう訴えるでしょう。私たち日本人は社会を再構築すべきだ。年寄りたちは、不満と失意のなかにある若者たちにももっとチャンスをあたえるべきだ。危険を覚悟で若者たちの挑戦を許し、新しい夢を持つべきだと」

Wednesday, April 18, 2007

冬の長距離マラソン

中学生になると、必ず冬に長距離マラソンが実施される。

10Kmに満たないくらいの距離だっただろうが、長距離を走らされるというのは走りなれていない陸上部以外の者には恐怖そのものであった。

まず、自分が何位に入賞できるのかが、自分の誇りにかけて、重要であった。間違っても最下位でゴール・インして憐憫の拍手などもらいたくないものだ、と思った。

次に、果たして10Kmもの距離を走りぬけるだろうか、という体力面の不安もある。途中で、棄権などしたら、それこそ一生の恥である。

やがてその朝が来て、吐く息が白く、異常な緊張感がみなぎる中、同級生の男子250名余りは、卵子に突入する精子の群れよろしく、凄まじい勢いと闘争心と功名心をもって走り出す。

長距離マラソンの3分の2を走り終えた頃だろうか、私は急に気分が悪くなり道路の植え込みの街路樹に向かって嘔吐した。

一緒に走っていた周囲のランナーは、この異様な出来事を無言で避けて通るか、露骨に「ワッ、きたねえ」という罵声を浴びせて、わたしをおいてどんどん先に先にいってしまう。

残りの3分の1を無事走り終える事ができるだろうかと、不安がよぎり、最悪のリタイアまでも考えた。

その時、後続集団にいた前の学年で仲のよかった大森君が、

「タダシ、大丈夫か。俺は先にいくぜ」

とポンと肩を叩いて、先に行った。彼の励ましに、再び走る気力を見出した私は気をとりなおして走り始めた。

するとさっき励ましてくれた大森君が、植え込みに向かってゲーゲーやっている。

「K、大丈夫か」

と声を掛けると、K君は、

「タダシ、俺に構うな、先に行ってくれ」

という。仕方なくK君を置いて、先に走っていった。

そして運動場に入り、あと運動場一周でゴールというところまで来て、250名のうちで真ん中あたりだったので、まずまずかなという安堵感とともに走っていると、後ろから、

「うおーおー、タダシ」

という異様な叫び声が聞こえてきた。はるか後続にいる筈のK君が猛烈な勢いで私を追い抜かんばかりの速度で走ってくるではないか。

私は負けまいと最後の力をふりしぼり必死に走る。K君も私に負けまいと必死に走る。ゴール間近の運動場をほとんど二人併走、という状態で走りこんでいた。

表彰されるトップのランナーたちが決まり、一時の興奮から静まりかえっていた会場は中盤に起こった思わぬデットヒートに注目し歓声を上げた。

そしてK君と私はほとんど同着でゴールした。

後先を決めかねた先生が、私にK君より先着の札を与えた。私が、

「K、お前のおかげで走りなおすことが出来たんだから、お前が先でいいよ」

といって札を渡そうとすると、K君は苦しい息の中、いらん、いらんと手を振った。

「まあ、どうでもいいか」

私は言った。

Tuesday, April 17, 2007

松田優作さんを偲ぶ

大阪の本町駅を歩いていたら、大きな赤いリュックサックを背負った外人さんが、

「チョット、スミマセン」


と声をかけてきた。

「ウメダヘ、イクミチガワカリマセン」

というので一緒に御堂筋線に乗った。「どこの国から来たのか」と聞くと、

「オーストラリアデス」と答えた。よく外国人の人が「アナタ、カミヲシンジマスカ?」と聞くので、逆に聞いてみようと聞いてみたら、

「アングリカン・チャーチ(イギリス国教会)」と胸を張って答えた。

「オウ、ブリティシュ・エンパイアーズ・・・・・」

ということで、わずかな間だけれども、イギリスの話をした。イギリスの英語教育機関ブリティシュ・カウンシルに入ったけれども、開口一番スコットランド独立の英雄マイケル・コリンズを尊敬しているといったら、IRAと勘違いされたのか、非常に冷ややかな態度でした、と言ったら、「ワッハッハッハ」と笑ってくれた。

彼は日本人のお嫁さんを持ち、大阪をこよなく愛してくれているとのことである。

そういえば、大阪は「ブレード・ランナー」をつくった巨匠、リドリー・スコット監督の映画の舞台にもなったんですよ、と言ったら、「オウ、ブラック・レイン」と言葉が返ってきて、「ユウサク・マツダ」という名前も出た。

そして、久しく忘れていた松田優作さんの「ブラック・レイン」出演にともなう欧米メディアの高い評価を思い出した。

今はグローバリゼーションの時代、渡辺謙さんが「LAST SAMURAI」で高い評価を得たのをはじめ、真田広之さん、役所広司さん、松平健さんと、国際映画界で活躍している。

しかしながら、当時は国際舞台への道は狭く、欧米メディアに評価されるなど夢に等しかった。

この作品で高い評価を得た松田優作氏はロバート・デ・ニーロと競演する予定であったが、「ブラック・レイン」出演中に進行中であった癌が悪化し、「ブラック・レイン」封切り後にあっけなく死亡した。

死を悟った松田優作が、入院中であることをひた隠しにして出演した番組がある。

「おしゃれ30-30」という番組である。

アシスタントのジャズ歌手、阿川泰子さんと劇団で同期であったために出演したそうなのだ。

松田さんが死の間際であるということを知らない司会の古舘伊知郎氏と阿川泰子さんは「松田優作がトーク番組に出演するのは珍しい」と大喜びで出迎えた。

松田優作さんといえば「太陽にほえろ」のジーパン刑事。その時のVTRが流れた。

犯人の銃弾を集中的に浴びて白いシャツが赤く染まったジャーパン刑事は、

「なんじゃこりゃ。血だ、血だ。俺は死にたくねえよー。俺は死にたくねえよー」

と絶叫する。

松田さんの病状を知らない古舘さんはVTRをみて、

「どう思われます? 自分の若い頃の姿を見て?」

と問うと、松田氏はしばらく考えたあと、

「頑張ってたねぇ」

とボツリと言った。

その放送から間もなく松田優作氏が死亡したというニュースを聞いた私は本当に驚愕した。テレビをつけると、葬式に参列していた古舘伊知郎さんは悲痛な顔をして、親友の阿川泰子さんにいたっては号泣していた。

松田さんは癌の進行を知っており、「ブラック・レイン」に出演すれば自分が確実に死ぬのはわかっていた。それでも国際舞台に出るチャンスはこれしかないと考えた松田優作は生きることをあきらめて演技をとった。

この姿は私の人生に大きな影響を与えた。

Wednesday, April 11, 2007

俺たちは歩いてゆこう

また、新たな人生を歩むことになりました。

友人には「あいつは、いつも同じところをグルグルとまわっている」と笑われるでしょうが、私にとっては「日々面目新たなり」の心境で、新しい環境に立ち向かってゆく所存です。

この随筆は、先日お亡くなりになられた城山三郎さんの随筆で大好きなものの一つです。

私の友人は「あ、これ読んだことがある」、と思うでしょうが、今どうしても再掲したいのでご勘弁を。


打たれた男が友人の言葉によって慰められたという劇的な一例がある。

そのとき男は三十二歳。地方の私鉄をとりしきる常務であったが、過労につぐ過労がたたって、失明してしまった。

会社は倒産寸前の危機に在った。

文字どおり杖とも柱ともなるべき妻は、乳呑児を残して、家出してしまった。

打ちひしがれたこの男を慰めようと、一度、仲間が集まってきてくれた。

会が終わって、飲み歩き、さてバスに乗って帰ろうとすると、まだ車の普及していない時期だったため、多数の客が待っていて、バスが来ると、いっせいに殺到し、大混乱になった。

にわかに盲目となったこの男は突きとばされ、転倒するところだったが、仲間の中でも兄貴分というか親分格の友人に助けられた。

その友人は、

「おれたちは歩こう」

といい、腕をとって歩き出した。続いて、次のようなことをいいながら。

「いま日本中の者が乗り遅れまいと先を争ってバスに乗っとる。無理して乗るほどのこともあるまい。おれたちは歩こう。君もだんだん目が悪くなっているようだが万一のことがあっても、決して乗りおくれまいと焦ってはならんぞ」

情のこもったまことにいい言葉である。それもそのはず、この友人とは、いまは亡き火野葦平氏。

(『打たれ強く生きる』(城山三郎著;新潮文庫)

火野葦平 (1907年1月25日~1960年1月24日)
火野葦平は『糞尿譚』で第六回芥川賞を受けた。火野はこのとき36歳で中国杭州で従軍中だった。文藝春秋社が派遣した小林秀雄の手から、“戦場の授賞式”で時計と副賞五百円を直接贈られている。
火野は沖仲士を業とする家の跡取りであったが、入隊し、中国戦線の経験から『麦と兵隊』などを書いて戦時中のベストセラー作家となった。戦後も新聞小説なので評判作を発表、一般には安定した作家活動を展開中と思われていたが、1960年1月24日自殺。庶民の善意・誠実が社会の巨大な力で翻弄され、打ちのめされていく彼の作中人物の姿は、作者そのものであったかもしれない。

Thursday, April 05, 2007

優雅な団塊貴族はモノいう株主に

団塊とは「堆積岩中に存在する、周囲より硬いかたまり(大辞泉)」のこと。

通商産業省の鉱山石炭局に勤務していた堺屋太一さんが、この鉱業の用語から「団塊の世代」と名付けたそうです。

私は証券会社のまわし者でもなんでもないのですが、ドラッカーの予言した「世界の資本主義市場の行き着く先を“年金ファンド型社会主義”」といった言葉を日本で実現するのは、今年から会社をリタイアする団塊の世代ではないかと思いました。

イギリスの大学に留学していた大学の恩師が、

「イギリスの貴族は、資産を株で運用して、ポロをやりながら、株で儲けた部分を生活費にあてて暮らしているんだ」

と聞いて驚いたことがあります。

まず、社会の範たるべき貴族が遊んで暮らしていること。

「労働こそ善」と信じていた私にとっては大きなショックでした。

次に、資産を株で運用していること。

昔、「住友マンは浮利を追わず」などという格言があったくらいで、株で資産を運用して着実な利益が得られるのか?

という疑問でした。

しかしながら、外国の株式市場の本を読んで、退職金が入ってきて第三の人生を歩む団塊の世代こそが、個人投資家の利益を代表する団体の代表になってくれるのではないかと思いました。

まず、団塊の世代の方々が同僚と話し合って、退職した会社の株式を株主提案権(総株主の100分の1の株式を保有する、または300個以上の議決権をもつ)が得られるくらい保有する。

そして、送られてくる決算書を見て、OBからの眼から見て会社の運営面でおかしいなとか、こうしたら利益が上がるのではないか、という建設的な意見を株主総会で提案して、期間内での回答を求める。

会社からみれば、うるさい株主が増えると思うかもしれないが、元社員からみた指摘や改善策は、経営陣の盲点を突く貴重な意見となり、事故が起こる前の転ばぬ先の杖となるかもしれない。

また、会社のOBに大量の株式を持ってもらえれば、外資の銀行やら証券会社から身を守る防御策にもなるかもしれない。

団塊の世代は、モノいう株主として社会を再活性化する役割を果たすのです。

団塊の世代の命名者である堺屋太一さんは、これから大量退職を迎える団塊の世代に対して、

「これまで、団塊の世代はへたに社会のために、と考えてきたから逆に失敗したんです。これからは、社会のためとか考えずに、ひたすら自分のことだけを考えて行動すればいいんです」

とおっしゃっていました。

自分が買った株の価値が下がって損をしたという憤りから、会社の決算書や経営者の見通しを知り、それについて制度に則ったかたちで提言する。

しかし、個人では出来ることが限られている。そこで、昔、同じ釜の飯を喰った仲間同士で会社に対する改善書を書いてみる。

そういった横断的な組織をつくることが出来るのは、団塊の世代しかいないと思いますが、如何でしょうか?

Tuesday, April 03, 2007

東京アジア金融センター論(下)

もし東京に公平、開放的、透明度の高い国際的な金融市場をつくるのならば、この本に書いてあることを実践しなくてはならないだろう。

『ウォール街の大罪』(日本経済新聞社)の著者アーサー・レビット氏は、1993年から2001年までクリントン大統領の下、SEC委員長をつとめた人物である。

投資家のウオーレン・バフェット氏をして「小口の投資家の最良の友にして、揺るぎない信念をもって投資家の利益に奉仕する市場を目指した人」と言わしめた人物である。

 アーサー・レビット氏は16年間ウォール街の証券会社で働き、社長まで上りつめた人である。

日本人なら当然、このような証券業界にいた人が本当に自分がかって在籍した業界の反対を押し切って、立場の弱い個人投資家の利益のために働くことができるのか、過去に自分の在籍した業界の為に働いてしまうのではないか、と言う疑問を持ってしまう。

 しかしながら、SEC委員長という役目柄、公共への奉仕という使命感で、一部の業界人だけが儲けることのできる不公正な市場を健全なものとするため、また、まったく議会に対して何の働きかけができない個人投資家の利益のために敢然と、証券業界、議会、公認会計士業界を敵にして戦うのである。レビット氏の奮闘振りには感心させられた。

 まず、業界内の癒着を断ち切るには業界を知悉し、それでいながら自分の在籍した業界と完全に決別できる人物でなければならない、と思った。

レビット氏の改革は、まず有名無実となっていた投資銀行業務と調査部門を隔てるチャイニーズ・ウオールを完全にシャットダウンすることを業界内に勧告し違反者には罰則を課すこととし、次に「公平情報開示規則(Regulation FD)」という、企業の重要情報はある一定期間まで絶対に開示してはならないという規則を設け、企業幹部が重要な情報を証券関係者にうっかり漏らすという悪しき慣習を断ち切ることができた。

これによって、一般投資家よりも先に企業情報を手に入れて利益を得ていたアナリスト、仲介業者や機関投資家は、同じスタート・ライン上で一般投資家と競わなくてはならなくなった。

そして、レビット氏の次なる改革は一般投資家がもっともよりどころする決算書を監査する公認会計士協会にも及んだ。

ストック・オプションの費用化を渋るハイテク業界と会計基準を設定するFASBを説得し、コンサルティング契約(企業を健全化し適正な決算をつくるために助言する業務)と監査(企業が健全かどうか審査する業務)という相反する目的を持つ業務を受託していた監査法人にこういった慣行を止めさせるように勧告した。

 また、ハイテク業界内でおこなわれていた合併にともなう営業権を仕掛り研究開発商品として一気に減損償却して、来期以降の利益を過大にみせるといった決算書上のカラクリを非難し、もっと透明度の高い会計基準を設定するように注意する。

 さらにレビット氏はコーポレート・ガバナンスにもメスを入れた。監査委員の全員が社外取締役でなくてはならないという規則を法制化し、形骸化していた社外取締役に財務報告書の妥当性を検証させるという責任を負わせた。

 ものすごい改革をやってのけたレビット氏だが、この改革には経済界、会計士協会、投資信託協会などから送り込まれたロビイストの凄まじい反発があった。

その中でレビット氏は「個人投資家の利益を守り、公正で透明性の高い市場を構築する」という目標の下、アメリカの消費者連合や消費者同盟、AFL-CIO(米国労働総同盟産別会議)、AARP(全米退職者協会)など、消費者や組合労働者、高齢者などの個人を代表する団体の支持を得て改革に成功した。

 レビット氏の改革への情熱もさることながら、その背後には個人の利益を代表するさまざまな団体が市場の健全化を願って株式の運用者を注意深く監視していたという事実も見逃せない。

 前述した『日本の選択』を書いエモット氏やタスカ氏は、日本はいまだ企業主体の経済体制であって、「前川レポート」にあったような消費者主体の経済を確立していないという。

 健全な株式市場をつくろうと思えば、株式市場というスタジアムを運営するプレイヤーが健全であるだけでなく、観客である投資する側も同様に眼が肥える必要がある、と考えさせらた一冊でした。

東京アジア金融センター論(上)

知日家であるイギリスのエコノミストの対談、『日本の選択』(ビル・エモット、ピーター・タスカ著;講談社インターナショナル)を読んで、最も印象に残った箇所である。
 
「やはり、日本はアジアの国際金融センターにならないと、国際社会でのプレゼンスを保てないのか」

とため息混じりに思った。

しかしながら、タスカ氏の日本の最悪のシナリオである、

もし、アメリカがこう言いだしたらどうなるでしょう。「中東の混乱を収拾するには中国の力が必要だ。中国はイランを始めとする中東の産油国に大きな影響力を持っている。われわれには中国の力がどうしても必要だ。悪いが日本は独自の道を歩んでもらいたい」

という文章を読んで、改めて日米関係は日本が外交上、魅力的なカードを提示し続けない限り存続し得ないのだ、という現実に気が付かされた。

エモット氏によると、金融は日本の得意分野であるという。

日本人の平均的感覚からすると、農耕民族の日本人は狩猟民族の流れをくむアングロ・サクソンと比較して金融の能力に劣ると思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。

タスカ氏は日本の東京はイギリスのシティのようになるべきだ、という。

規制をゆるやかにして、外国人の納税義務を出来るだけ軽くし、厳しい規制を逃れてきた海外の投資家を大量に受け入れ、東京だけを特別な都市に仕立て上げるべきだと論じる。

更には、イギリスで他国籍の人間がイギリスの企業を所有するといった“ウィンブルドン現象”に学ぶべきだと説く。企業の所有者が日本人でなくなっても拒否反応を起こさず、経営能力が優れていれば積極的に外国人に会社の運営を委託すべきだという。

私はここまで読み終えて、日本も一時のライブドア騒動や村上ファンド問題の頃のような弱肉強食の金融資本主義の仲間入りをしなければならないのか、と嘆息しましたが、近代金融資本主義というものは必ずしもそういうものではないと述べられています。

本書でも述べられているように、ドラッカーは世界の資本主義市場の行き着く先を“年金ファンド型社会主義”と規定しています。

エモット氏の意見を抜粋すると、

資本主義やM&Aは、汗をかかずに私腹を肥やすホリエモンのような個々のベンチャー・キャピタリストのためだけにあるのではありません。たとえば、投資家であると同時に、慈善家でもあるウォーレン・バフェットのように、人々の尊敬と崇拝の対象になる人もいます。

それでは、公平かつ開放的で、透明性の高いグローバルな市場を東京につくるにはどうしたらいいかと考えると、やはり株式市場で一歩先をゆく、アメリカを範にしたいと思います。

私はこの本の後に、SECの委員長として、株式市場の公平性と透明性を勝ち得たアーサー・レピット氏の体験を綴った『ウォール街の大罪』(日本経済新聞社)を読みました。

そこで、次回は「東京アジア金融センター論(下)」で、アメリカの証券市場の透明性を高め、個人投資家の利益を守った、レピット氏の株式市場におけるさまざまな改革の方策を紹介して、それを他山の石としたいと思います。

Monday, April 02, 2007

日米比較 Discussionする日本人

 某金融機関に勤務する川本女史が言った。

「どうして日本人は議論しないんでしょう。議論しなきゃ何も始まらないのにね」

まさにその通りだと思った。

昔、読んだ深田祐介さんの『新西洋事情』(新潮文庫)に、西洋人は会議では、口に唾しながら激しく議論し、時には激昂したりもするが、会議が終わると一変、喧嘩をしていた二人が何事もなかったかのようにニコニコしながら握手を交わして食事を一緒にとる、といった光景を見て驚いた、とその本に書いてあった。

西洋人にとって議論は、その場限りのものであり、プライベートな交流には何も影響を及ぼさない、と書いてあった。

おそらく西洋人は議論を情報交換の場と心得ており、お互いの立場を主張し理解してもらうことに議論の意義を見出しているのだろう、と考える。

これは、日本人にはなかなか出来ない芸当である。日本人が議論したならば、お互いその傷を後々まで引きずってしまうのではないだろうか。

「和をもって貴し」となす日本人が生来、議論を嫌うのはわかるが、おそらく日本人は議論下手なのではないか。

いまだに、外資系の会社でも議論することはタブーだという。

お互いの優劣を競う議論ではなく、建設的な情報交換をおこなう議論ならば、大いにするべきだと思いますが、如何でしょうか。

Tuesday, March 27, 2007

「人格なき社会を憂ふ」 「文化的資本」=「教養」=「人格」論 (下)

「ヨーロッパ語においては、教養イコール文化であり、教養というものは、文化的存在としてその人の全人格的なあらわれそのものである」といいます。

やはり、「教養」=「文化的資本の蓄積」=「人格」であると思わざるを得ません。

おそらく、私はこの人は損な人生を歩んでいるな、とか、不運な人だな、と思われるに違いありません。

しかし、私はむしろ幸運であったし意義の有る人生だった、と言うことが出来ます。そう言う事が出来るのは、さまざまな会社での苦い経験を差し引いても余りある豊かな精神世界を持てたということです。

私はさいわいにして高い教養のある人に巡りあうことが出来ました。

時には打ちのめされますが、そのことに触発され、その人の住む広い世界を知ることによって私の精神世界が広がったことに対して感謝にたえないのです。

私は教養人ではありませんが、その方々とたまに会って、すぐに特定の分野について共通の基盤に基づいてコミュニケーションできるという快感は何物にも変えがたいものです。

最近、
「学校で教えることが何の価値があるのか」

という子供が増えているそうですが、彼らは学校という学びの場で学習した共通言語、そしてその場で経験した友情、喧嘩、恋愛、苦悩、試練など人生の諸体験が、その後のコミュニケーションの形成の基盤となることを知りません。

外国語が堪能になれば、その国の人と精神世界を分かち合うことができます。数学が得意になれば数学の言葉で数学の世界を分かち合うことができます。豪華な食事をしなくても、立派な車に乗らなくても、お互いの世界観が通じ合えばそれで幸せを感じることが出来ます。

コミュニケーションの基盤が脆弱であれば脆弱であればこそ、コミュニケーションが通じる相手の数が少なくなり、やがてその人は自らの貧弱なコミュニケーションしか通じない世界に閉じこもるか、孤立してしまうことでしょう。

ましてや、日本は経済的な合理性を優先してきたため、地縁共同体も血縁共同体、宗教共同体などもほとんど壊滅状態です。こういった状況の中、義務教育による共通の基盤を大切にして守ってゆくことが大切な生命線であるのに、と思わざるを得ません。

私は日本における最後のセーフティーネットの砦は、こういった共通の体験に基づく相互のコミュニケーションであると思います。

ですから、これからの若い人たちには、読書やインターネットを通してさまざまな世界を知り、その人の他の何者にも代えがたい自我、人格を高めていっていただきたいのです。

「人格なき社会を憂ふ」 「文化的資本」=「教養」=「人格」論 (上)

「爽秋の春風駘蕩ならざる日々」の来訪者がお陰様で5,000人を超えました。

毎回、1,000人を超えるたびに、ウイットのきいた(つもりの)ジョークを掲載してきたのですが、あまり読者受がよくありませんでした。

また、私が感動した本の文章をそのままの引用しているだけの記事へのアクセス数も少ないことに気が付きました。

案外、読者の方々は真面目な私一個人としての視点なり、意見を尊重して読んでくれているのではないか、という錯誤に基づいて今回は意見を述べさせていただきます。


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皆さんの中で、集団の中でひとりだけ疎外感を覚えたとか、仲間との距離を感じたという体験はありませんか?

村上春樹さんがプリンストン大学の客員教授として招かれた時に書いたエッセイの中にこういう面白い体験があります。

(以下、引用)

でも、僕の知っているプリンストン大学の関係者は、みんな毎日『NYタイムス』を取っている。『トレントン・タイムズ』(ローカル・ペーパー、その地域でしか読まれていない)をとっているような人はいないし、僕がとっているというと、あれっというような奇妙な顔をする。『NYタイムス』を取っていないというと、もっと変な顔をする。そしてすぐに話題を変えてしまう。

とくに『NYタイムス』を週末だけ取って、毎日『トレントン・タイムス』を読んでいるなどというのはここではかなり不思議な生活態度とみなされる。もっと極端に言えば、姿勢としてコレクト(正しきこと)ではないのだ。

ビールについても言える。プリンストンの大学関係者はだいたいにおいて輸入ビールを好んで飲むようである。ハイネケンか、ギネスか、ベックか、そのあたりを飲んでいれば「正しきこと」とみなされる。

ある教授と会ったときに世間話のついでに「僕はアメリカン・ビールの中ではバド・ドライが好きでよく飲んでますよ」と言ったら、その人は首を振ってひどく悲しい顔をした。「僕もミルウォーキー出身だからアメリカのビールを褒めてもらえるのは嬉しいけど、しかしね・・・・」
と言って、あとは口を濁してしまった。

要するにバドとかミラーといったようなテレビでばんばん広告をうっているようなビールは主として労働者階級向けのものであって、大学人、学究の徒というのはもっとクラシックでインタレクチュアルなビールを飲まなくてはならないのだ。

ここでは何がコレクトで何がインコレクトなのかという区分がかなり明確である。

(『やがて哀しき外国語』(村上春樹著;講談社文庫))

この文章から読みとれるのは、プリンストン村の中には深い伝統に根ざした独自の文化があり、客員教授として招聘された村上氏でさえ乗り越えられない壁が存在する、という話である。

人間とはこういった些細なことからも疎外感を感じてしまう動物である。

この例は些細な生活習慣上の違いですから、マイナーな事として片付けられますが、言語が同じであるのに、相互に文化的基盤が違いコミュニケーション出来ないという事態に至った場合はさらに悲惨な感じがします。

五木寛之さんの作品に『黄金時代』という短編があります。

五木さんの実体験から書かれた小説だと思いますが、戦後の焼け跡の中から東京に出てきた五木さんが、金がないため、神社の境内で寝泊りし、血を売って生活していた頃の話である。

売血所の女の子とようやくデートにこぎつけ、その女の子と一緒に喫茶店にいた主人公。やがて、偶然一緒の喫茶店にやってきた同じ早稲田の金持ちのカップルと同席することになります。

3人が文学やクラッシックの話で盛り上がる中、痺れを切らした売血所の女の子が会話の輪の中に加わろうと、採血の仕方や消毒の話をしはじめる。

どう反応してよいか困って困惑する金持ちカップル。「よせよそんな話」と恋人にいう主人公。

その場の雰囲気にいたたまれずに「私、帰ります」と席をたった女の子。何もせず見送る主人公。

悲しいかな、売血所にいた女の子は、高等学校を卒業するや否や、採血場に入り労働していたため、大学生の語るような形而上的な知識を身につけることなく世の中に出てしまったのでしょう。

しかしながら、彼女はけなげにも職場で覚えた知識を話すことによって、3人と共通のコミュニケーションをしたいと願ったのですが、その話は3人の文化的基盤とは大きく離れてしまったため、座は白け、彼女は人格的に否定されたようないたたまれない気持ちになってとびだしてしまった。

こんな経験、ありませんか?

私も年上の女性とデートした時に解消できない壁があって悔しい思いをしたことも、知識人との会話にまったくついてゆけず、無言のまま3時間過ごした、という悔しい思いでもあります。

そんなときに必ず感じるのは彼我の差と、人格的なあつみの違いです。

Sunday, March 25, 2007

追悼・城山三郎氏

城山三郎氏が亡くなった。まさに「昭和の巨星墜つ」といった感じである。
(http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070322NT002Y16622032007.html)

司馬遼太郎、松本清張、城山三郎といえば、「昭和大衆文学の3大巨頭」である。

戦前の国粋主義に陥れた歴史観を変えるため、客観的なデータをもとに日本の歴史を綴った司馬遼太郎氏。人間のこころの奥底にひそむ暗部を描いた推理小説や戦後の混乱期に起こった事件の真相をえぐりだした松本清張氏。そして、戦前から戦後の経済人の活躍を描いた城山三郎氏。

追悼の意として、城山三郎氏の印象に残った随筆をここに記します。

(以下、引用)

「ざっくばらんの強み」

 東大などの一流校を出て、中央官庁に就職したエリート中のエリートの自殺が、ときどき伝えられる。
 
 不満があったり、挫折があったりしたところで、前途洋々の身である。少し辛抱さえしていれば、天下の大道を歩いてゆけるのに-と思うのだが、やはり死を思いつめる他なくなるのであろう。

 なぜ、そうなってしまうのか。

 ひとつは、彼等の育ってきた環境による。つまり、子供のころから、友人を選び、学校を、師を選んで、その他のつき合いをしない。

 知的に劣ると思った友達も、つき合ってみれば、思いがけない魅力がある。教育、とくに受験教育には練達とはいえない教師にも、人間としてすばらしいよさがあったりする。

 どんな人間にも深く付き合えばよさがあるのだが、深く付き合うとか、つき合いに耐えるという習慣を身に付けないまま、大人になってしまった。

 就職してみると、同僚も上役も、自分で選んだ人間ではない。内心、知的に劣ると思った人たちが居ても、じっと耐えて行かなければならない。そのことがやりきれなくなる。

 次に、エリート中のエリートであるだけに、自分の仕事に完全を期待する。ノン・キャリアのベテランに教われば簡単にわかることまで、自分ひとりで解決しようとする。

 人間は万能ではなく、いくらエリートでも大学で習わなかった官庁事務については、ただ考えてわかるわけではない。

 だが、エリートの誇りが、助けを求めることを許さない。

 とにかくひとりで抱えこみ、ひとりで悩み続ける。そのうち、
「この程度のことも、自分にはできないのか」

 と、誇りや自信が打ち砕かれる。そこで助けを求めればいいのに、とにかく自分でやってしまうと、その成果について完全主義者だけに採点がきびしく、自らに絶望してしまうという構図である。

「なまじっか学校に行っていると、裸になって人に聞けない。そこで無理をする。人に聞けばすぐにつかめるものが、なかなかつかめない。こんな不経済なことはない」

と、本田宗一郎さんはその初期の著書『ざっくばらん』でいっている。

「僕の特徴は、ざっくばらんに人に聞くことができるということではないかと思う」

とも。

本田さんは、聴講はしたけれども、正式には学校を出ていないということでかえって、だれに対しても、こだわらずに、ざっくばらんに聞くことができ、ひとつにはそのおかげで今日があるというのである。

打たれ強くなるための工夫以前の工夫のひとつであろう。


(出典:『打たれ強く生きる』(城山三郎著;新潮文庫)