Friday, October 05, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第4講 現象学」

「アロンは自分のコップを指して<<ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!>>
サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それはかれが長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるがままの事物を、・・・・・そしてそれが哲学であることを望んでいたのである」
サルトルがはじめて現象学と出会ったときの情景を、シモーヌ・ドゥ・ボーヴァールが『女ざかり』の中でこう描いてみせている。1932年、ベルリンのフランス学院で歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していたレーモン・アロンがパリに帰省し、モンパルナスのとあるキャフェでサルトルやボーヴォワールと一夕を過ごした折の話である。
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

第一次大戦中の前からイデオロギー危機だといわれていてヨーロッパではあらゆる価値が根底から揺さぶられていました。哲学は実証主義と主観主義に分裂し、若者は何を信じてよいのかわからなくなっていました。そこへ現れたのが現象学だったのです。

現象学の主唱者、フッサール(ドイツ哲学者)とはどんな人だったのでしょうか。フッサールがゲッチンゲン大学やフライブルグ大学で講義をしたところ、最初はギッシリだった教室にだんだん空席が目立ちはじめて、最後は誰もいなくなったといいます。

このフッサールの講義の様子を「フライブルグ詣」に出掛けた田辺元、高橋里美、九鬼周造、三宅剛一のうち高橋里美(日本哲学者)が次のように記しています。

「彼の講義が諄々として説いては倦まざるの程度を遥かに通り越して、恰も回転する車輪の如くに、此の時間も、次の時間も、またその次の時間も、幾回となく同じ様な事を倦まず墝まず反覆し、一週四時間の講義が一学期もかかって、ほんの「現象学的還元」を漸くにして終わるだろうといふことは、誰が想像し得ようか」(フッセルの事)

この現象学は、ジャン=ポール・サルトル(フランス哲学者作家)の『存在と無』に大きな影響を与え、西田幾多郎(日本哲学者)も明治四十四年にフッサールを紹介しています。

フッサールの弟子ハイデガー(ドイツ哲学者)は『解釈学的現象学』をあらたに始め、『存在と時間』を著しました。

この思想が流行したのは敗戦後、面白いことに第一世代のSF作家が若い頃によく読まれています。筒井康隆氏然り、小松左京氏はフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を大学ノートに全部書き写したといいます。

それではフッサールの「現象学」とはどのようなものだったのでしょうか。

フッサールは哲学とは、人を感心させる体験や知識の多さとか、ひとを感動させる心の広さや深さ、ひとを驚かせるあたらしい視点とか思考だとか、そんなものじゃないんじゃないか、と考えました。

そんなことよりも、ものをありのままに見る能力とか、考え方の筋道をきちんとたどる能力を学ぶべきではないかと考えました。

普通の人間は自分の生きているこの世界は、ちゃんとそこに存在しているし、わたしたちが見たり読んだり聞いたりしているその世界についての情報は、だいたいにおいて正しいという考え方をもっています。

しかしながらフッサールはこうした『自然的な態度』というのがまず問題であると考えました。そういうものをすべてカッコの中へ入れて横に置いておけと言いました。

何故そんなことをするのかというと、必ずしも人間の意識するものは実在するとは限らないからです。

例えば、大きな翼をつけた男が「田中です」と現れて挨拶をしてあなたの頭上を羽ばたいて去ってゆく。こんな事ありえませんよね。

次に、あなたが会社の採用面接で応募書類を見てみると、そのなかに「原民喜」という名前を見つけたとします。文学好きなあなたは広島の原爆詩人、黒い丸眼鏡を掛けた原民喜を思い浮かべる。そして何故か、遠藤周作さんが少女との映画を見に行く約束を破ると、原民喜が現れて「キミガ、アノヒトヲオイテキボリニスルダロウトオモッタカラ、ミニキタンダ」と咎める哀しいエピソードを思い出したりもする。上司から「おい君」と言われてわれに返る。

一のように実在しないものを意識したり、ニのように意識を意識できるのは、フッサールの先生、ブレンターノ(ドイツ哲学者)曰く「内部知覚」によると言われています(対義語:「外部知覚」=ものがそこにあるのを意識すること)

フッサールの言っている意識とは何か。それは『純粋意識』だといいます。つまり主観なんてものがあると思ってはいけない。それはただそこにあると信じているだけのことであって、人間が誰でも持っている、眼に見えるものを信じようとする根本的な力、フッサールの言葉でいうと『原信憑』が働いているからである。
だからこそすべてを、その働きの外へ置け、即ち『カッコでくくって』しまえというわけです。

これが現象学的なものの見方をする第一歩、つまり『判断中止』です。

しかしながらそんなことをすれば、はっきりと理解できるものとか、自信をもってこれは何なにだと言って断言できるものが、何ひとつなくなってしまいます。

フッサールは、その通り。何かについて確かなことがわかるなんてものは、ひとつもないんだ、と言います。

しかしながら、たとえそうであっても、意識に直接訴えかけてくるものがあるのなら、それがどんなものかはわかる筈だとフッサールは言います。

本来、意識というものはごちゃごちゃの筈です。ところがフッサールはこれは経験主義に毒された考え方だと言います。

われわれには赤い色は見えているし、今聞こえてくる音も聞こえてくる。われわれはそこでもって色と音との本質的な区別を直観的にとらえているではないか、こう主張します。

その直観的にとらえたものが色や音のイデアまたは形相(エイドス)だと言います。

つまり、あるひとつの物事には時間的空間的なもの、歴史や場所といった、その物事にくっついて想像してしまうようなごちゃごちゃしたものやたらにある。それを全部とっぱらってしまえということです。

そうして得たものこそが純粋意識だ、先験的主観性だというわけです。

すべての現実は、現実そのものとしてではなく、自分の意識のなかだけにある純粋な現象として扱うべきだといいます。これを『現象学的還元』といいます。

つまり現象学は、純粋現象の科学だというわけです。

さて、そのごちゃごちゃしたものを除去してどうするか。今度はそのひとつひとつのものごとを想像力の中でいろいろに変化させて見て、最後にそのなかから絶対不変なものを発見するという作業をおこないます。

そうやって出てきたものが本質、つまりは形相(エイドス)というわけです。

この現象学から最も影響を受けたのはジョルジェ・プーレ(フランス批評家)、ジャン・スタロビンスキイ(スイス批評家)、ジャン・ルーセ(フランス批評家)、ジャン=ピエール・リシャーレ(フランス批評家)等のジュネーブ学派で、作品にあらわれている作者の純粋意識だけに注目するべきだといいました。

テーマや文体、イメージや言語、そういった部分をばらばらに研究して、それが全体へどうつながるかに注意して、そのつなげていく本質こそが作者の精神だ、と判断しました。つまりその作家がものを体験したり認識したりするそのしかたを見つけるというのが現象学的批評のやり方となりました。

この現象学的批評は公正でなければならないという考えから、作品を消極的に受け入れて、(=作家の思想、作品の歴史的視座、作品のなかに流れるある考え方まで『判断停止』(=排除する)その作品の精神的な本質だけを純粋に記述してゆく。これが批評であると考えました。

つまりその作家がものを体験したり認識したりするそのしかたを見つけるというのが現象学的批評のやり方となりました。

つまり現象学的批評は公正でなければならないという考えから、作品を消極的に受け入れて(=作家の思想、作品の歴史的視座、作品のなかに流れるある考え方まで排除する)その作品の精神的な本質だけを純粋に記述してゆく。

例えば遠藤周作の『侍』を批評する際に、遠藤周作がカトリックの作家であるとか、石田殿のお国から派遣された田中、長谷倉、西の3人がローマ法王パウルス5世陛下と本当に会うことができたのだろうかとか、そもそもベラスコというマニラやノベスパニア(メキシコ)に交易を求めるエスパニア人宣教師が存在したのか、など余計なことを考えずに作品の精神的な本質だけを純粋に読んで記述する。

これが批評であると考えました。


(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(参考文献:『現象学』(木田元著:岩波新書)

次回は「第5講 解釈学」


(後日譚)読めもしないのに、アマゾンの古本店で『現象学』を購入しました。

本を開けてみると薄い鉛筆で見事な傍線、囲い、重要事項には丸がつけてありました。左利きの人なのか何故か傍線が左に引かれています。そして欄外にはその頁を読んだ日付と時刻が几帳面に書かれていました。

おそらく哲学の学究の方が刻まれたものだと思いますが、その几帳面さと精密さに思わず背筋が寒くなりました。

ひとつ例にとってみると、P140 ‘03.4.25. 7.24AM、P141 8:58am、1ページを読まれてあれこれと思惟なさるうちに一時間半というときが流れ去っていったのでしょう。

 素晴らしい古本にめぐりあえたことに感謝します。

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