Tuesday, November 24, 2009

『「新しい人」の方へ』(大江健三郎著:朝日新聞社)

 とかく文学少年というと厄介な存在である。


 私のイメージのなかでの文学少年は、普段は憶病でおとなしくしており、眼の前で起こっていることに対して関心をしめしているのかいないのか判じかねるところがあります。しかしながら、文章を書かかせてしまうときちんとした論理で克明とはいえないまでも事態を一つの話題として形成する能力をもっており、その上地域のなかで処理したい禁忌めいたはなしも自己の哲学であきらかにしてしまう。いわば油断ならない厄介ものとみられがちである。



 そんな“厄介な変わり者”だった大江氏が作家になり、家族関係からも解放された後に回顧する随筆めいた小説十五篇。


 「電池ぐれで」は、戦後占領軍に占拠された寒村の村の小学校で起こった「理科室ボヤ騒ぎ」というエッセイをめぐる“となり村にすむ年上の理科系の少年”からの抗議の手紙からはじまる半世紀ぶりの対話、当時の記憶の修正、その時代の回顧。



 「意地悪のエネルギー」は、いわゆる年上の女性徒による“いじめ”。中学生だった筆者の雑誌に掲載された「詩」をめぐる、二歳離れた姉の友人たちからうけた青少時に特有なカラカイ。ああいった意地悪さって所謂「怨望」じゃないのかなあ、という筆者の回想。


 「知識人になる夢」は、高校時代にフランス文学者の渡辺一夫先生の本を読んで“知識人”になる覚悟をした筆者にあびせられる家族からの“一般的な知識人になる”ことを想定しての反対の声、その時自分なりに思い描いた“知識人”の像、そして今現在「読書人」として生きている自分が“経験を文章で共有できている”という歓び。




 この作品は、誰もが青年期にもちそうな感情を、大江氏固有の感傷や時代背景をただよわせながら非時系列的に、さまざまな利害関係者を傷つけないように綴っておられます。このうねりにうねった文章を読者がたどってゆくと後は、煙のような心地よさだけが残ります。



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