Saturday, January 13, 2007

インプットとアウトプット +α (アルファ)論

人間は教育によってさまざまな事をインプットされます。

そして、人間はインプットされた情報に基づいて、なんだかの情報をアウトプットします。

アウトプットされ生産される情報の中には、言葉によって表現されるものもあれば、書き言葉によって表現されるものもあります。

しかしながら、必ずしも人間はインプットする量に比例して、アウトプットする量が増加する訳ではありません。

かつて荻野アンナ女史が、テレビ上で、ある大学人を「インプットばかりが多く、アウトプットが少ない人間」を車に例えて「ガソリンの給油は多いんだけれども、燃費の悪い人間」と揶揄したことがあります。

私もその例に漏れず、インプットする情報量は多いけれども、それをアウトプットして活用する術を知らない「燃費の悪い人間」かもしれません。

情報の生産物が厄介なのはその客観的な価値の測定手段が存在しないからです。

情報の生産物ほど、客観的な測定が難しいものはありません(ホワイトカラーの生産性の測定の難しさはそこにあります)

それでは情報の成果物はどのようにしてその価値を測るべきなのでしょうか。

私は情報のアウトプット(生産物)は2つのパターンがあると思います。

まず、第1にインプットされた情報を正確に伝達する能力。

そして第2にインプットされた情報を他のさまざまな情報と関連付けて、新しい成果物を創造する能力。(これは、Reference能力といいます。オタク研究家で、元東京大学講師の岡田斗司夫さんが提唱されています。何の関連のないものを結び付けてはいけません)

それでは、現代の情報化社会において、第1の能力と第2の能力どちらが価値があるのでしょうか?

かつてYMCAで英語を教えてもらっていた大学の先生が

「君、僕の大学院時代の友人に引き出しというあだ名の人物がいてね、そいつに聞いたら何でも情報が引き出しみたいに出てくるんだ」

と語ったことがありますが、これは第1の能力を持つ人物に該当するでしょう。

しかしながら、インターネット万能の時代に最早、このような辞書のような能力を持つ人間の重要性は薄れてくるでしょう。

これからは、むしろ第2の能力、インプットされた情報を他のさまざまな情報と関連付けて、新しい成果物を創造する能力が高く評価される時代が来るでしょう。

人の思っていないような視点から全く関連のないような事柄をリンクさせ、論理的にその事柄を関連付ける能力。

このような思考訓練をすることがこれからの時代、必要ではないでしょうか?

最後に筆者が懸念していることを一つ述べさせていただきます。

ある司法修習所の教官の述懐ですが、最近の若い司法修習生は問題の回答をすぐに求める傾向があり、問題をじっくりと考えてそのプロセスを楽しもうとしない、と嘆いておられる。

受験勉強においては、初めての問題を解こうとしたとき、じっくりとその回答プロセスを考えるより、すぐに回答のページをめくって正解を暗記してしまったほうがてっとり早く、要領がよいというのは事実です。

これも“Quick Lunch Study“ともいえる現代教育のもたらした弊害でしょうか。

しかし、じっくりと回答へのプロセスを思考するという段階を素通りしてしまった人には何かが欠落しているように思えてなりません。

一般社会に正解など存在しません。

人間は与えられた断片的な情報を手がかりに、さまざまな試行錯誤を繰り返しながら正解に近い何かを求める動物です。

思考の試行錯誤を繰り返したことのない人間はいつかその罠にはまってしまいます。特にきれいな正解が必ず参考書の巻末に存在する、という幻想を抱いている、受験エリートはこの罠にはまりやすいと考えます。


(後日譚)
学者の方にも色々な役割の方がいらっしゃり、いろいろなものを蓄積して充電中の人もいれば、色々吸収したものを放出し放電中の人もいます。あまり象牙の塔のことに一般市民および学生が口をはさむべきではないと思います。

以上が、私の「インプットとアウトプット +α (アルファ)論」です。

ご清聴有難う御座いました。

Thursday, January 04, 2007

『世界は村上春樹をどう読むか』(国際交流基金、柴田元幸、沼野充義、藤井省三、四方田犬彦;文藝春秋)

現在、村上春樹の作品は40ヶ国で翻訳・出版され、中国では1980年代以来、「非常村上」という流行語が生まれるくらい村上ブームが起こり、台湾を基点に香港、上海、北京と展開し、シンガポールにたどりついたという。

アメリカでは最近『海辺のカフカ』が翻訳され、ジョン・アップダイクが「ニューヨーカー」で三ページにわたって書評を書き、「ニューヨークタイムス・ブックレビュー」や「ヴィレッチ・ボイス」という有名な雑誌でもとりあげられている。

こういった世界の村上春樹ブームに目をつけた国際交流基金が、2006年3月25・26日東京、29日札幌・神戸と17ヶ国23人の翻訳家・作家・研究者を一堂に集め「国際シンポジウム」を開催した。
その中でも最もユニークだったのはリチャード・パワーズの「ハルキ・ムラカミー広域分散ー自己鏡像化ー地下世界ーニューロサイエンス流ー魂シェアリング・ピクチャーショー」(英題は”Global Distributed Self-Mirroring Subterranean Neurological Soul-Sharing Picture Show")

彼は三ダースの言語に翻訳され、ヨーロッパではベストセラーリストの常連となり、環太平洋地域では偶像的存在になりつつある村上文学の魅力をこう分析します。

1. 国際的なユースカルチャーの巧みな利用
2. 後期グローバル資本主義がもたらす疎外感、民族アイデンティティの喪失感の表現
3. 反響し相互作用を試るニューロン的コズモポリタリズム
4. 作品の中に潜む普遍的(universarity)な愛

と述べています。最後に氏は、『海辺のカフカ』の一節を引用して講演をしめくくっています。

「愛というのは、世界を再構築することだから」と大島さんはカフカ君に言います、「そこではどんなことも起こりうるんだ」

その後、各国の識者が「我が国における村上春樹」をとりあげ、語るという形式になっています。

私にとって意外であったのは、世界の翻訳者が村上作品に日本的なこころを感じるというところである。

夏目漱石の『鉱夫』に類似性を見出す人もいれば、村上作品の鍵にアップダイクのように日本の「神道」に答えを見出そうとするような人もいる。

また、父親が禅僧であったところから「無」の境地をそこに見出す人もいた。

ただ、私にとって残念であったのは日本の文壇の村上春樹文学に対する冷ややかな反応である。村上文学は社会学の範疇とされ、文学界は村上春樹から距離を置きたがっている。

翻訳の面白さについても語られ、各国の翻訳者がどのように村上春樹の文章を訳すか、またそのプロセスが大変面白いお薦めの本である。

Tuesday, January 02, 2007

私の会計監査論(2)

 あるベンチャー企業の監査役にお会いしたことがあります。


 その時、非常に画期的な「適法性監査」を実施されておられ感心したことがあります。


 何とその監査役は、終業時間後取締役以上の方々に時間を割いてもらい、商法における取締役の職務権限および責任を講義されていたのです。


 講義が終了すれば、全取締役のサインをもらって、監査役は「適法性監査」の一部を実践したという証拠とする訳です。


 今回のライブドア事件をみて分かるように、案外取締役であってもその取締役自身の職務権限および責任について知悉しておらず、自己の哲学において会社を運営できることについてあまりご存じないというケースが多いのです。



 特に急激な業績拡大によって成長したベンチャー企業の取締役は、ウナギ上りに上がる職位に対応するため自己の専門領域の知識の吸収につとめ、自己の職務権限および責任を認識していないケースが多いように思われます。


 ライブドア法廷における被告人と裁判長のチグハグなやりとりは、被告人の遵法意識の欠如に起因します。


 昔、監査役という役割は取締役になれなかった人がなるものと相場が決まっていて、いままでの功労に対して報いる「おつかれさん」という職分であったので、「閑査役」と呼ばれていたものです。


 ところがエンロン事件以来、アメリカで制定されたサーベランス・オクスリー法の波が押し寄せてくることになり、監査役は企業情報を護る非常に重要なポジションになってきました。


 監査役は非常に忙しく職務執行が難しいポジションに変わりました。

私の会計監査論(1)

 私は大学の卒業論文に「実態監査の必要性」のようなものを書きました。

 企業の財務情報だけに監査を限定する「情報監査」に向かいつつある会計監査の在り方に警鐘を鳴らした当時主流になりつつあった脇田良一教授の主張を簡潔にまとめただけのものです。


「財務諸表の作成の責任は企業にある」(*1)というのは自明のことです。


それが「公認会計士に摘発されなければ、適正な決算書なのだ」という誤った価値観が実業界に蔓延しているのも、問題であると思います。


会計士の責任は、その職務上必要とされる技術を用いて決算書の監査を行わなかった場合において過失を問われるものであり、組織的な粉飾に必ずしも対応できる訳ではありません。


まずは、経営者自身が企業が適正な財務諸表を作成し開示することは、利益をあげる以上に、優先順位の高い社会的責任であることを認識するべきであると思います。


そもそも「株主重視経営の原点」を考えていただきたいと思います。


人は事業を始めるときに、親しい友人や、考え方に共鳴してくれる人に出資してもらい事業を開始します。


したがって、自分がその一年間してきたことを報告し、客観的な数値である適正な決算書を提示し説明するのは、信頼してくれた人に対する恩返しでもあり、相互の信頼の証でもあるのです。


決して金銭的な報酬のみが信頼の証となるのではありません。


事業が悪化すれば正直にそれを報告し、それに対する打開策を株主に説明し納得してもらうのも、相互信頼の証であり、それが最も大切な株主とのあいだの絆であると考えます。


これが、私の会計監査論です。


ご静聴有難う御座いました。


(*1)
平成16年の証券取引法の改正で、違法行為に対する課徴金制度が導入されました。虚偽記載のある発行開示書類により有価証券の募集等を行った者には、違法行為による経済的利得を基準として算出される課徴金が課されます。
平成17年には継続開示書類の虚偽記載にも課徴金納付制度命令がくだされることになりました。