Wednesday, November 21, 2007

『弥縫(びほう)録-中国名言録』(陳舜臣:中公文庫)

■弥縫(びほう)

鎧をつけた平清盛は、息子の重盛がやってきたので、あわてて法衣をそのうえから着こんでごまかそうとした。かきあわせた襟元から、鎧の端がちらりとのぞく。―そんなのが弥縫の一例である。

(中略)
左氏とは左丘明という人物のことで、『史記』の作者司馬遷の文章によれば、失明したことで発奮して、著作活動をしたという。目が見えないのである。左氏本人は、自分の目が縫い合わされているとかんじたのであろうか。そのために、「弥縫」ということばを愛用したのかもしれない。

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「一字(いちじ)の師」(99頁)

現在の文壇には師弟関係といったものはもう存在しないようだ。秘書を使っている人はいるが、「お弟子さん」ということばをきいたことがないから、それに類する人を抱えている作家はいないのであろう。画壇や劇壇の世界では、いまでもちゃんと師弟関係があるらしい。

某展覧会へ行ってびっくりした。会場で羽織袴白足袋の老人は、そばにいた婦人に、最敬礼をしていた。彼らは老人を「先生」と呼び、先生と呼ばれた老人は、そばにいた婦人に、「うちの弟子たちでしてな」などと言っていた。これは敬老精神といった上等のものではなく、封建思想を絵にしイヤらしいシーンであった。いまの文壇にそんな恥ずかしい雰囲気がないのは、まったく幸いといわねばならない。

絵画の世界では、「先生」が「弟子」の絵を直すことがよくある。さすがは先生で、さっと一筆くわえただけで、その絵が見ちがえるほどよくなる。そんな実例をみれば、最敬礼をしてもよいから、先生が欲しくなってくる。詩文では一字を直しただけで、ぜんたいがぐっとよくなることがあり、むかしの人はそれを「一字の師」と呼んでいた。

晩唐の鄭谷という詩人は、僧斉己(せいき)の「早梅詩」の一字を直して、それをみちがえるほど良くしたというので、一字の師といわれるようになったそうだ。どんなところを直したのか、そういわれると興味がわいてくる。

前村、深雪の裏(うら)
昨夜 数枝開く

の句のなかに「数」を「一」にしただけである。早咲きの梅をよんだ詩だが、早咲きであるから、数枝より一枝のほうがたしかにしまったかんじがする。種明かしをすれば、なぁんだ、そんなことか、と思えるのがこのテのエピソードの特徴であろうか。

「一字の師」については、どんな小さなことでも教えてくれた人はみな自分の師である、という解釈もある。
旧時代の中国では、児童の教師は「千字文」といって、基本的な千個の文字をおしえることになっていた。千字を教えてくれた人も先生なら、一字を教えてくれた人もおなじく先生であるはずだ。

ある大学者が一字読みまちがえ、小役人にそれを指摘され、相手を「一字の師」と呼んだ故事がある。吉川英治はよく、「我以外みな我が師」といったことばを色紙にかいたが、それに似たことであろう。謙虚であれ、という意味がこめられているようだ。日本のコトワザにも、

―負うた子に教えられて浅瀬を渡る

というのがある。

われわれは、いつ、どこで、誰に、どんなことを教えられるかわからない。いつでもそれをうけいれる態勢をもたねばならない。そのためには謙虚であるべきだ。一筆で全体もよみがえらせるようなすぐれた師匠、と解するよりは、負うた子も師匠、とするほうがおもしろいように思う。

清末の詩人龔自珍(きようじちん)の詩に、

― 本無一字是吾師(もと一字として是れ吾が師は無し)

という句がある。ほかの解釈もあるが、

「私は一字として先人の文章を師として借用したりしない。すべて独創である」

と読みたい。誇高き文人の自負に、こころよいめまいをかんじるではないか。

(出典:『弥縫(びほう)録-中国名言録』(陳舜臣:中公文庫))


(後日譚)

平清盛と重盛の親子の関係について触れた文章を発見したので付け加えておきます。

    忠ならんと欲すれば則ち孝ならず。

    孝ならんと欲すれば則ち忠ならず。

    重盛の進退ここに窮(きわま)る。


(出典:頼山陽の『日本外史』(上)

Thursday, November 15, 2007

『サラリーマン タブー集』(三鬼陽之助著:カッパビジネス)(家庭編)

3. 家庭 ―なぜ結婚をするのか

161. 早婚をためらうな
162. 社内結婚をするな 
163. 上役の娘をもらうな
164. 美人を妻にするな
165. 大学出の女と結婚するな
166. 結婚相手の年齢を気にするな
167. 婿養子には行くな
168. 上役に仲人をたのむな
169. 結婚式に上役をよぶな
170. はでな結婚式を挙げるな
171. 離婚をためらうな
172. 三十までは子どもをつくるな
173. 女房・子どもと遊ぶな
174. 女房・子どもの病気を欠勤理由にするな
175. 家事を手伝うな
176. 家で仕事のことを帰るな
177. 「晩酌亭主」になるな
178. 家にはまっすぐ帰るな
179. ワイフに帰宅時間を約束するな
180. 睡眠時間をケチるな
181. 教育パパになるな
182. 浮気を自慢にするな
183. 故郷には帰るな
184. 父親の「七光り」を自慢するな
185. 父親のまねをするな
186. 親兄弟の犠牲になるな
187. 母親の絆にしばられるな
188. 女房の実家にたよるな
189. 身内の人間を会社に来させるな
190. 貯金をするな
191. ボーナスはそっくり女房に渡すな
192. 共稼ぎはするな
193. スネかじりを恥じるな 
194. 「二百五十円亭主」を恥じるな
195. 月賦で買い物をするな
196. 会社の近くに住むな
197. マイホーム作りを急ぐな
198. 社宅に住むな
199. 親との同居にあまんじるな
200. タブーにとらわれるな  (終わり)

(免責事項)
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『サラリーマン タブー集』(三鬼陽之助著:カッパビジネス)(対人関係編)

2. 対人関係編

101. 無能な上役の顔を立てるな
102. 上役の「恥部」にふれるな
103. 上役に私事を相談するな
104. 同僚の私生活は、上役に話すな
105. 上役の太鼓持ちになるな
106. 上役の盆暮れのつけとどけをするな
107. 上役の病気見舞いはするな
108. 上役の自宅は訪問するな
109. 上役の私用を引き受けるな
110. 仕事以外では上役と付き合うな
111. 「会社のために」を、口に出すな
112. 弱者に同情するな
113. 同学の同僚に気を許すな
114. 同僚の学歴を問題に気を許すな
115. 二部卒社員を軽視するな
116. 万年平社員に遠慮するな
117. 「若年寄り」になるな
118. けんかを避けるな
119. 徒党を組むな
120. 社内の同窓生にはいるな
121. 友情と心中するな
122. 義理人情にしばられるな
123. 虚礼にしばられるな
124. 社内の「人気者」になるな
125. 「いい子」になるな
126. 聖人君子ぶるな
127. 自己宣伝をためらうな
128. 孤立を恐れるな
129. 「猛烈」を売り物にするな
130. 喜怒哀楽を表面にするな
131. 喜怒哀楽を表面に出すな
132. しゃべりすぎるな
133. ウーマン・パワーを軽視するな
134. ハイ・ミスをバカにするな
135. 社長秘書を敬遠するな
136. 受付嬢を軽視するな
137. 女子社員にお茶くみをさせるな
138. 社内の女に手を出すな
139. 金がなくてもない顔をするな
140. 金があってもある顔をするな
141. 上役におごらせるな
142. 同僚におごるな
143. 同僚に金を貸すな
144. 賭け金の支払いをケチるな
145. 借金の保証人になるな
146. 守銭奴になるな
147. 金を過信するな
148. なじみのバーに上役を案内するな
149. 酒席での席順を気にするな
150. 酒席で、上役に酌をするな
151. 宴会で隠す芸をするな
152. 宴会で母校の寮歌を歌うな
153. 忘年会の二次会には付き合うな
154. 二級酒は飲むな
155. 酒席で、上役に酌をするな
156. 酒を人間関係の潤滑油にするな
157. 下戸を恥じるな
158. 酒豪を自慢にするな
159. ヤケ酒を飲むな
160. 人間関係の過敏症にかかるな  (つづく)

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Wednesday, November 14, 2007

『サラリーマン タブー集』(三鬼陽之助著:カッパビジネス)(仕事編)

1.仕事

1. 会社と心中するな
2. 組織の奴隷になるな
3. 辞表を肌身から離すな
4. 十年以上同じ会社にいられると思うな
5. 定年制にあまんじるな
6. 社風に染まるな
7. 社則にとらわれるな
8. 社則を破って得意がるな
9. 会社のバッジをつけるな
10. 自社の株価を気にするな
11. 「会社のために」を、口に出すな
12. ゲバ棒精神を忘れるな
13. 「日和見」社員になるな
14. 「他律反応型」社員になるな
15. スペシャリストになるな
16. 「タレント」になるな
17. 「評論家」になるな
18. 趣味で名を売るな
19. 能ある鷹は爪をかくすな
20. スタンドプレーをするな
21. 言い逃れをするな
22. マイペースをくずすな
23. 虚栄心を失うな
24. 常識を軽視するな
25. 人まねを恥じるな
26. 「食わずぎらい」になるな
27. 弱音をはくな
28. 強がりを言うな
29. 本職を内職の犠牲にするな
30. 重役になろうと思うな
31. 「長」の肩書きをほしがるな
32. 上司の人事異動を気にするな
33. 左遷に動じるな
34. 地方転勤でくさるな
35. 「出世主義者」を軽蔑するな
36. 「エリート社員」を手本にするな
37. 社長に惚れるな
38. 社長の訓辞を鵜のみにするな
39. 社長に遠慮するな
40. 下克上をためらうな
41. 上役の顔色をうかがうな
42. イエスマンになるな
43. 上役の責任をかぶるな
44. 上役に対して敬語を乱発するな
45. 勤務中に上役に対して敬語を乱発するな
46. 「義理居残り」をするな
47. 「ほされる」ことを恐れるな
48. やたらにあやまるな
49. 上役の道具になるな
50. 他人の仕事にちょっかいをだすな
51. 他人の職場の悪口を言うな
52. 知ったかぶりをするな
53. 名刺で仕事をするな
54. 仕事をしているふりをするな
55. 忙しがるな
56. 酒を飲みながら、仕事の話はするな
57. タクシーの中で仕事の話はするな
58. 小さな声でしゃべるな
59. 小さな仕事を軽蔑するな
60. 仕事で借りをつくるな
61. 有給休暇を残すな
62. 日曜・祭日には仕事をするな
63. 休み時間には仕事をするな
64. 残業をするな
65. 仕事がすんだら会社にいるな
66. 同僚の遊んだ翌日は遅刻するな
67. 二日酔いの日は出勤するな
68. 朝食ぬきで出勤するな
69. マイカーで通勤するな
70. 恋人に会社へ電話させるな
71. 遊びの服を着て出勤するな
72. 長髪・無精髭を売り物にするな
73. カフスボタンで出勤するな
74. 自分の金で社用をたすな
75. 会社から金を借りるな
76. 安月給にあまんじるな
77. 月給で人を判断するな
78. 接待マージャンで負けるな
79. 取引先のもてなしに溺れるな
80. 安いリベートで身売りするな
81. 適の「使い」になるな
82. ライバル会社の社員を敬遠するな
83. 業界紙の記者をけむたがるな
84. 取引先に自宅の住宅・電話を教しえるな
85. コネで仕事をするな
86. 社用族になるな
87. 組合幹部になることを辞するな
88. 御用組合にはいるな
89. スト破りをやるな
90. 「組合片輪」になるな
91. 組合を出世の手段にするな
92. 組合にたよるな
93. ノンポリ組合員になるな
94. 経営用語をむやみに使うな
95. 「英語屋」になるな
96. 三面記事をばかにするな
97. 経営学の本を読むな
98. 立志伝に惚れるな
99. ハウ・ツウ書一辺倒になるな
100. 修養書を読むな  (つづく)

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Monday, November 12, 2007

『身投げ救助業』(菊池寛著:偕成社)

ものの本によると京都もむかしから、自殺者はかなりおおかった。

都はいつの時代でもいなかよりも生存競争がはげしい。生活にたえきれぬ不幸がおそってくると、思いきって死ぬものがおおかった。洛中洛外にはげしい飢饉などがあって、親兄弟にはなれ、かわいい妻子を失ったものは世をはかなんで自殺した。除目にもれた腹立ちまぎれや、義理にせまっての死や、恋のかなわぬ絶望からの死、かぞえてみればさいげんがない。まして徳川時代には相対死などいうて、一時にふたりずつ死ぬことさえあった。

自殺をするにもっとも簡便な方法はまず身を投げることであるらしい。これは統計学者の自殺者表などを見ないでも、すこし自殺ということをまじめに考えたものに気のつくことである。ところが京都にはよい身投げ場所がなかった。むろん鴨川では死ねない、深いところでも三尺ぐらいしかない。だからおしゅん伝兵衛は鳥辺山で死んでいる。たいていは縊れて死ぬ。汽車はひかれるなどということはむろんなかった。

 しかしどうしても身を投げたいものは清水の舞台から身を投げた。『清水の舞台から飛んだ気で』という文句があるのだから、この事実にあやまりはない。しかし下の谷間の岩にあたってくだけている死体を見たりまたそのうわさをきくと、模倣づきな人間もニの足をふむ。どうしても水死をしたいものはお半長右衛門のように桂川までたどっていくか、逢坂山をこえ琵琶湖へでるか、嵯峨の広沢の池へいくよりほかにしかたがなかった。しかし死ぬまえのしばらくを、じゅうぶんに享楽しようという心中者などには、この長い道程もあまり苦にはならなかったのだろうが、一時も早く世の中をのがれたい人たちには、二里も三里も、歩くよゆうはなかった。それでたいていは首をくくった。聖護院の森だとか、糺の森などにはしいの実をひろう子どもが、宙にぶらさがっている死体を見て、おどろくことがおおかった。
それでも京の人間はたくさん自殺をしていた。

すべての自由をうばわれたものにも、自殺の自由だけはのこされている。牢屋にいる人間でも自殺だけはできる。両手両足をしばられていても極度の克己をもって息をしていないことによって、自殺だけはできる。
ともかく、京都によき身投げ場所のなかったことは事実である。しかし人びとはこの不便をしのんで自殺をしてきたのである。適当な身投げ場所のないために、自殺者の比例が江戸や大阪などにくらべて小であったとは思われない。

明治になって、槇村京都府知事が疎水工事をおこして、琵琶湖の水を京にひいてきた。この工事は京都の市民によき水運をそなえ、よき水道をそなえるとともに、またよき身投げ場所をあたえることであった。
疎水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としてはかなりよいところである。どんな人でも、深い海の底などでフワフワして、さかななどにつつかれている自分の死体のことを考えてみると、あまりいい気持ちはしない。たとえ死んでも、適当な時間に見つけだされて、葬いをしてもらいたい心がある。それには疎水は絶好な場所である。蹴上から二条をとおって鴨川のへりをつたい、伏見へ流れおちるのであるが、どこでも一丈ぐらい深さがあり、水がきれいなのである。それに両岸に柳が植えられて、夜は青いガスの光がけむっている、先斗町あたりの弦歌の声が鴨川をわたってきこえてくる。うしろには東山がしずかに横たわっている。雨のふった晩などは両岸の青や赤の灯が水にうつる。自殺者の心にこの美しい夜の掘り割りのけしきが、一種のRomanceをひき起こして、死ぬのがあまりにおそろしいと思われぬようになり、フラフラと飛びこんでしまうことがおおかった。

しかし、からだの重さを自分でひきうけて水面に飛びおりるせつなには、どんな覚悟をした自殺者でも悲鳴をあげる。これは本能的に生をしたい死をおそれるうめきでもある。しかしもうどうともすることができない。水けむりをたてて沈んでみな一度は浮きあがる、そのときは助かろうとする本能の心よりもほか何もない。手あたりしだいに水をつかむ。水を打つ、あえぐ、うめく、もがく。そのうちに弱って意識を失うて死んでいくが、もしこのとき救助者がなわでも投げこむとたいていはそれをつかむ。これをつかむときには投身するまえの覚悟も助けられたあとの後悔も心にはうかばれない。ただ生きようとする強き本能があるだけである。自殺者が救助をもとめたり、なわをつかんだりする矛盾を笑うてはいけない。
ともかく、京都にいい身投げ場所ができてから、自殺するものはたいてい疎水に身を投げた。疎水の一年の変死の数は、多いときには百名をこしたことさえある。疎水の流域のうちで、もっともよき死に場所は、武徳殿のつい近くにあるさびしい木造の橋である。インクラインのそばを走りくだった水勢は、なお余勢を保って岡崎公園をまわって流れる。そして公園とわかれようとするところに、この橋がある。右手には平安神宮の森にさびしくガスがかがやいている。左手にはさびしい戸をしめた家がならんでいる。したがって人通りがあまりない。そこでこの橋の欄干から飛びこむ投身者がおおい。岸から飛びこむよりも橋からのほうが投身者の心に潜在している芝居気を、満足せしむるものとみえる。

ところが、この橋から、四、五間ぐらいの下流に、疎水にそうて一軒の小屋がある。そして橋からだれかが身を投げると、かならずこの家からきまって背の低い老婆が飛びだしてくる。橋からの投身が、十二時よりまえの場合はたいていかわりがない。老婆はかならず長いさおを持っている。そしてそのさおをうめ声を目当てに突きだすのである。おおくは手ごたえがある。もしない場合には水音とうめき声を追いかけながら、いくどもいくども突きだすのである。それでもつい手ごたえなしに流れくだってしまうこともあるが、たいていはさおに手ごたえがある。それでもつい手ごたえなしに流れくだってしまうこともあるが、たいていはさおに手ごたえがある。それをたぐりよせるころには、三里ばかりの交番へ使いにいくぐらい厚意のある男が、きっとやじうまのなかにまじっている。冬であれば火をたくが夏は割合に手軽で、水をはかせてからだをふいてやると、たいていは元気を回復し警察へいく場合がおおい。巡査が二言三言不心得をさとすと、口ごもりながら、わび言をいうのをつねとした。
こうして人命を助けた場合には、ひと月ぐらいたって政府から褒状(賞状)にそえて一円五十銭ぐらいの賞金がくだった。老婆はこれを受けとると、まず神だなにそなえて手を二、三度たたいたのち郵便局へあずけにいく。

老婆は第四回内国博覧会が岡崎公園にひらかれたときいまの場所に小さい茶店をひらいた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実いり(収入)もあったので、博覧会が岡崎公園にひらかれたときいまの場所に小さい茶店をひらいた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実いり(収入)もあったので、博覧会の建物がだんだん取はらわれたのちもそのままで商売をつづけた。これが第四回博覧会の唯一の記念物だといえばいえる。老婆は死んだ夫ののこした娘と、いえばいえる。老婆は死んだ夫のこした娘と、ふたりでくらしてきた。小金がたまるにしたがって、小屋がいまのような小ぎれいな住まいにすすんでいる。

最初に橋から投身者があったとき、老婆はどうすることもできなくなった。大声をあげて呼んでも、めったにくる人がなかった。運よく人のくるときには、投身者は疎水のかなりはげしい水にまきこまれて、ゆくえ不明になっていた。こんな場合には老婆は暗い水面を見つめながら、かすかに念仏をとなえた。しかし、こうして老婆の見聞きする自殺者は、ひとりやふたりではなかった。ふた月に一度、おおいときにはひと月に二度も老婆は自殺者の悲鳴をきいた。それが地獄にいる亡者のうめきのようで、気の弱い老婆にはどうしてもたえられなかった。とうとう老婆は自分で助けてみる気になった。よほどの勇気とくふうとで、老婆が物干しのさおを使って助けたのは、二十三になる男であった。主家(主人の家)の金を五十円ばかり使いこんだ申しわけなさに死のうとした、小心者であった。巡査に不心得をさとされると、この男は改心をして働くといった。それからひと月ばかりたって、彼女は府庁から呼びだされて、ほうびの金をもらったのである。そのときの一円五十銭は老婆には大金であった。彼女はよくよく考えたすえ、そのころややさかんになりなりかけた郵便貯金にあずけ入れた。

それからのちというものは、老婆はけんめいに人を救った。そして救い方がだんだんうまくなった。水音と悲鳴ときくと老婆はきゅうに身を起こして裏へかけだした。そこに立てかけてあるさおを取りあげて、漁夫が鉾でこいでも突くようなかまえで、水面をにらんで立ってあがいている自殺者の前にさおをたくみにさしだした。さおが目の前にきたときに取りつかない投身者はひとりもないといってよかった。それを老婆はけんめいに引きあげた。通りがかりの男が手伝ったりするときには、老婆は不興(ふきげん)であった。自分の特権を侵害されたような心持ちがしたからである。老婆はこのようにして、四十三の年から五十八のいままでに、五十八のいままでに、五十いくつかの人命を救うている。だから褒賞の場合の手続きなどすこぶる簡単になって、一週で金がおりるようになった。府庁の役人は、「おばあさんまたやったなあ。」とわらいながら、金をわたした。老婆もはじめのように感激もしないで、茶店の客からだいふく代を、もらうように「大きに。」といいながら受けとった。世間の景気がよくてふた月も、三月も、投身者のないときには、老婆はなんだか物たらなかった。娘に浴衣地をせびられたときなどにも、老婆は今度一円五十銭もろうたらというていた。
そのときは六月のすえで例年ならば投身者のおおいときであるのに、どうしたのか飛びこむ人がいなかった。

老婆は毎晩娘とまくらを並べながらきき耳をたてていた。老婆は毎晩娘とまくらを並べながらきき耳をたてていた。それで十二時ごろにもなって、いよいよだめだと思うと「今夜もあかん。」というて目をとじることなどもあった。

老婆は投身者を助けることをひじょうにいいことだと思っている。だから、よく店の客などと話しているときにも「私でもこれで、人さんの命をよっぽど助けているさかえ、極楽へいかれますわ。」というていた。むろんそのことをだれも打ち消しはしなかった。
しかし老婆が不満に思うことが、だた一つあった。それは助けてやった人たちがあまり老婆に礼をいわないことである。巡査のまえでは頭をさげているが、老婆にあらためて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日あらためて礼をいうものはほとんどなかった。
まして後日あらためて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日あらためて礼をいいにくるものなどはひとりもない。「せっかく命を助けてやったのに薄情な人だなあ。」と老婆は腹のうちで思っていた。

ある夜、老婆は十八になる娘を救うたことがある。娘は正気がついて自分が救われたことを知ると身も世もないように、泣きしきった。やっと巡査のすきを見てふたたび水中に身をおどらせた。しかし娘はふしぎにもまた、老婆のさしだすなおに取りすがって救われた。
老婆は再度巡査に連れられていく娘のうしろ姿を、見ながら、「なんべん飛びこんでもやっぱり助かりたいものだなあ。」というた。
老婆は六十に近くなっても、水音と悲鳴とをきくとかならずさおをさしだした。そしてまたそのさおをさしだした。そしてまたそのさおに取りすがることを拒んだ自殺者はひとりもなかった。助かりたいから取りつくのだと老婆は思っていた。

ことしの春になって、老婆の十数年来らいの平静な生活を、一つの危機がおそった。それは二十一になる娘の身の上からである。娘はやや下品な顔だちではあったが、色白であいきょうがあった。老婆の遠縁の親類の二男が、徴兵から帰ったら、養子にもらって貯金の三百幾円を資本として店を大きくするはずであった。これが老婆の望みであり楽しみであった。
ところが、娘は母の望みをみごとにうらぎってしまった。彼女は熊野通りニ条下るにある熊野座という小さい劇場に、ことしの二月から打ちつづけている嵐扇太郎という旅役者とありふれた関係におちていた。扇太郎はたくみに娘をそそのかし、母の貯金の通帳を持ちださせて、郵便局から金を引きだし、娘を連れたままどこともなく逃げてしまったのである。

老婆には驚愕と絶望とのほか、何ものこっていなかった。ただ店にある五円にもたりない商品と、すこしの衣類としかなかった。それでもいままでの茶店をつづけていれば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女には何の望みもなかった。

ふた月ものあいだ、娘の消息を待ったが徒労(むだな骨折り)であった。彼女にはもう生きてゆく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。いく晩もいく晩も考えたすえに、身を投げようと決心した。そしてたえたい絶望の思いをのがれ、一つには娘へのみせしめにしようと思った。身投げの場所は住みなれた家のちかくの橋をえらんだ。あそこから投身すれば、もうだれもじゃまする人はなかろうと、老婆は考えたのである。
老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分がすくった自殺者の顔がそれからそれからと頭に浮かんでしかもすべてが一種みょうな、皮肉なわらいをたたえているように思われた。しかしおおくの自殺者を見ていたおかげには、自殺をすることが家常茶飯のように思われて、たいした恐怖をも感じなかった。老婆はフラフラとしたまま欄干から、ずり落ちるように身を投げた。

彼女がふと、正気づいたときには、彼女の周囲には巡査とやじうまとが立っている。これはいつも彼女がつくる集団とおなじであるが、ただ彼女のとる位置がかわっているだけである。やじうまのなかには巡査のそばに、いつもの老婆がいないのをふしぎに思うのさえあった。

老婆は恥ずかしいくらいのような憤ろしいような、名状しがたき不愉快さをもって周囲を見た。ところが巡査のそばのいつも自分が立つべき位置に、色の黒い四十男がいた。老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついたとき、彼女はつかみつきたいほど、その男をうらんだ。いい気持ちに寝入ろうとするのを、たたき起こされたようなむしゃくしゃした、はげしい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。
男はそんなことを少しも気づかないように「もう一足おそかったら、死なしてしまうところでした。」と巡査に話している。それは老婆がいくども、巡査に話している。それは老婆がいくども、巡査に話している。それが老婆がいくども、巡査にいうおぼえあることばであった。そのうちには人の命をすくった自慢が、ありありとあふれていた。

老婆は老いた膚が見物にあらわに、見えていたのに気がつくと、あわてて前をかきあわせたが、胸のうちは怒りと恥とで燃えているようであった。

見知りごしの巡査は、「助ける側のおまえが自分でやったらこまるなあ。」というた。
老婆はそれをききながして逃げるように自分の家へかけこんだ。巡査はあとからはいってきて、老婆の不心得さをさとしたが、それはもう幾十ぺんもききあきたことばであった。そのときふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、おおくのやじうまがものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のようにかけよって、はげしい勢いで戸をしめた。

老婆はそれいらいさびしく、力なく暮らしている。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰えりそうにもない。泥のように重苦しい日がつづいていく。
老婆の家の背戸(うら口)には、まだあの長い物干しざをが立てかけてある。しかしあの橋から飛び込む自殺者が助かったうわさはもうきかなくなった。

(出典:『ジュニア版日本文学名作選』25『恩讐の彼方に』偕成社出版)

Saturday, November 10, 2007

こんな生きかたもあります

Sister Wendy Becker has been a nun for nearly 50 years, since she was 16. Most of the time she lives in solitary confinement in in caravan in the grounds of a Carmelite monastery in Norfolk, often not speaking to anyone for 22 hours a day. But every few months she leaves her caravan and travels round Europe, staying in international hotels and eating in famous restaurants. Why is she leading this double life?
How does a nun who has devoted her life to solitude and prayer become a visitor to the Ritz?

Sister Wendy has a remarkable other life. She writes and presents an arts programme for BBC television called ‘Sister Wendy’s Grand Tour’. In it, she visits European art capitals and gives her personal opinions on some of the world’s most famous works of art. She begins each programme with with these works of art. She begins each programme with these words: ‘For over 20 years I lived in solitude. Now I’m seeing Europe for the first time. I’m visiting the world’s most famous art treasures’.

She speaks cleary and plainly, with none of the academic verbosity of art historians. TV viewers love her common-sense wisdom, and are fascinated to watch a kind, elderly, bespectacled, nun who is so obviously delighted by all she sees.

They are infected by her enthusiasm. Sister Wendy believes that although God wants her to have a life of prayer and solitary contemplation, He has also given her a mission to explain art in a simple.

‘ I think God has been very good to me. Really I am a disaster as a person. Solitude is right for me because I’m not good at being with other people. But of course I enjoy going on tour. I have comfortable bed , a luxurious bath and good meals, but the joy is mild compared with the joy of solitude and silent and good meals, but the joy is mild compared with the joy of solitude and silent prayer. I always rush back to my caravan. People find this hard to understand. I have never wanted anything else; I am a blissfully happy woman.

Sister Wendy’s love of God and art is matched only by her love of good food and wine. She takes delight in porting over menus, choosing a good wine and wondering whether the steak is tender enough for her to eat because she has no back teeth. However, she is not delighted by her performance on television.

‘ I can’t bear to watch myself on television. I feel that I look so silly― a ridiculous blackclothed figure. Thank God we don’t have a television at the monastery. I suppose I am famous in a way, but as 95% of my time is spent alone in my caravan, it really doesn’t affect me. I’m unimportant.’

Sister Wendy earned £1,200 for the first series. The success of this resulted in an increase for the second series. The money is being used to provide new shower rooms for the Carmelite monastery.

(”Intermediate Student's Book” Titled:Liz&John Soars、Publisher:Oxford university press)

Wednesday, November 07, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第5講 解釈学」(前)

哲学の巨人、ハイデガー(ドイツ哲学者)が登場します。

哲学者木田元氏は氏を賞してこのように述べています。

「『存在と時間』という本は、異様な魅力をもった本である。現代の哲学思想に通じている研究者たちに、ニ十世紀前半を代表する哲学書を一冊だけ選べと言えば、大半の人が『存在と時間』を挙げるのではないだろうか。(中略)サルトルの『存在と無』などは及んだ影響の広がりから言えばもっと大きいかもしれないが、学問的評価という点では比較にもならない」
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

マルティン・ハイデガーがはじめて哲学に目醒めたのは十八歳の時フッサールの先生、ブレンターノ(*1)の本を読んだ時です。二十歳で南ドイツのフライブルク大学へ入学。二十三歳で卒業。普通の人ならそれから何年もかかるところを、翌年に、教授になるための論文を仕あげて合格。さらに、教授の資格をとるために、講義資格を得るための試験講義というものをやるのですが、これも同年に講義し合格。

1916年フライブルグ大学に教授としてフッサール(*2)がやってきました。フッサールはハイデガーをたちまち気に入ってしまい弟子として、そして後継者として育てようと7年間現象学を叩き込みました。

 ところが1923年ハイデガーがマールブルグ大学の教授として招聘されると、ハイデガーはディルタイ(ドイツ哲学者)の『世界観の哲学』や『生の哲学』に関心を向けはじめました。その頃、マールスブルグ大学でハイデガーから教わっていた三木清(日本哲学者*3)が羽仁五郎(日本哲学者*4)に以下のような手紙を送っています。

「ハイデッカーはフッサールのフェノメノロギーに残っている自然主義の傾向を離れて精神科学のフェノメノロギーをたてようとしているが、彼がこの方面でどれほど深く行っているかは別として、とにかく目論見は面白い。フッサールの『イデーン』よりも『論理学研究』の方を重く視る彼の考えも面白い。ハイデッガーはディルタイを尊敬し、私にもディルタイを根本的に勉強するように勧めている」(大正12年12月9日付)
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

後継者ともくしていたフッサールはハイデッガーが離れていってしまうことに危惧を抱き、1927年の夏フッサールはハイデッガーをフライブルグへ呼び寄せ『大英百科事典』に光栄にも『現象学』という項目があらたにできるようなのでこの項目を共同執筆しようとしました。しかしながら師の温かいこの試みも、両人の意見の相違により頓挫する。

フッサールは『超越論的現象学』を唱えました。

「フッサールは理念の衣(数学および数学的自然科学)こそが近代的意識にとってはもっとも根深い先入見であるが、超越論的現象学はこの先入見を排除することによって根源的な生活世界に立ち還り、そこから逆にこの理念の生成を開明しようというのである」(*5)

一方、ハイデッガーは『現存在』を唱えました。

「人間的現存在に即して存在の真の意味を問おうとするには、なにはさておきまずこの現存在の実存、つまり「その存在をおのれの存在として存在しなくてはならない」という固有の在り方を分析し、しかも、浄化的反省とでもいうべきものによってそのもっとも本来的な在り方を浮かび上がらせなくてはならない。言いかえれば、われわれが「さしあたりたいていのばあい」そこで生きている「自然的態度」―ハイデガーはこれを「日常性」とよぶ(*6)

つまりハイデガーに言わせれば、『不安』という体験はフッサールの対象としては扱えない。
つまり「世界があってこそ人間が存在しえる」のではなくて「人間という存在があってこそ世界がある」のではないかと唱えたのである。

フッサールのいう「世界を構成する主観を持った人間までが存在者でない」(*注1)とは言えないのではないか、むしろハイデガーは「他の存在と、人間的現存在のありかたがまったく異なっているということではないか」(*注2)と主張し『現存在』ということばを造りました。

結局、この師弟関係は噛み合わないままでしたが、ハイデガーは『存在と時間』を書き上げ、その本の冒頭にフッサールは献辞を捧げました。フッサールはフライブルク大学を停年で退職し後継者としてハイデガーを就任させました。

しかしながら、その2・3年後『存在と時間』を熟読したフッサールは現象学を歪めたものだと主張しハイデガーを批判しました(つづく)

(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(参考文献:『現象学』(木田元著:岩波新書)

(*1)ブレンターノ
「真面目な文学部唯野教授 第4講 現象学」(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-10-05)
(*2)フッサール
「真面目な文学部唯野教授 第4講 現象学」(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-10-05)
(*3)三木清
哲学者・評論家。京都大学哲学科で西田幾多郎に学んだ後、1912年ドイツに留学。1924年からハイデッガーのもとで研究した。『唯物史観と現代の意識』『構想力の論理』等。治安維持法違反の容疑で拘束され獄死。
(*4)羽仁五郎
歴史家・評論家。ハイデルベルグ大学に入学。リッケルトンのもとで歴史学を学んだ。主著に、軍部の弾圧に抗して発表された『明治維新』『白石・諭吉』『ミケランジェロ』『都市の論理』
(*5)『現象学』(木田元著:岩波新書)61頁
(*6)『現象学』(木田元著:岩波新書)89頁
(*注1)「ヨーロッパでの絶対ということは、Godがそうであるように、如何なるものにも依存しないものをいう。 その上、Godは哲学的絶対者であるだけでなく、きわめて能動的で、まず自分に似せて人間をつくっただけでなく、この世のすべてを創造した」という西欧の絶対の価値観(『文藝春秋』2006年1月号「司馬さんの予言」『この国のかたち』 二 「45 GとF」)
(*注2)筆者の勝手な解釈なのだが、「如来」はすでに存在している世界をみとめた、という存在である」という観念に近いのではないかと解する(『文藝春秋刊』2006年1月号「司馬さんの予言」『この国のかたち』 二 「45 GとF」)


次回は「第5講 解釈学(後)」を割愛させていただきます。ご興味のある方は『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)(P159~P168)をお読み下さい。



(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

Thursday, November 01, 2007

遠いアメリカ

8年前の記憶です。くだらない記憶ですがよろしければご覧ください。

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初春、日本から太平洋を横断してサンフランシスコに至るまで都立大学高専講師のH氏とその同僚某氏と同席した。何でもアラスカで開催される学会に出席されるとのことで父と同じ系列の学校の方だったので非常に話が弾んだ。延々と海がつづくなか十七時間後、雲間から整然と箱庭のようにつくられたサンフランシスコの街がようやく時折顔をみせた。何と美しい街か、と思った。

 霧で私がフライトを予定していた便が欠航するとのことだったので、前の便の空席に慌てて申し込んで荷物のカウンター・マンにその旨をつたえた。果たして荷物が届くのか不安だった。サンフランシスコ空港からセスナ機でシアトルに向かうと通路沿いの外国人が熱心に小説を読んでいた。私はといえばセスナ機が雲海に入っていくなかでいっそこのままセスナ機ごと爆発したらいい、というような心境だった。

 シアトル空港に着くと入国審査官(だと思う)のお姉さんが、いきなり子供をあやすように “ Welcome to Seattle” と言いながら笑顔をつくって私に向かって手を振ってきたのに驚かされた。その女性とはほぼ同じくらいの身長だったのだが、子供と間違われているのではないかと思いパスポートを出すと、案の定“Oh,Sorry Mr.”と言っていそいそとスタンプを押してくれた。とても27歳には見えなかったのでしょう。

また、空港の中でお婆さんに物を尋ねたとき、ついつい90(ninety)と19(nineteen)をいい間違えてしまった。するとお婆さんは何度も、“nineteen、nineteen”と繰り返し私に練習をするように迫ってきた。その様子を見た黒人の警備員が「この人は外国人なんだから、そんなことさせなくてもいいんだよ」とお婆さんに言うと、お婆さんは「何言っているの若いうちからこういう訓練をしなければ云々」と口論を始めてしまった。
すると、たちまち人だかりが出来てしまい私は“Thank you Mrs.grandmother.”と言い残して人だかりの中から消えた。とても27歳には見えなかったのでしょう。

シアトル空港からスペース・ニードルまで行くバスに乗ろうとしたら、皆チケットらしきものをポケットから出して車掌に渡している。チケットなどあるはずもなく困っていたら、列の後ろの女の子が自分のチケットをちぎって私に渡すとそそくさとバスに乗り込んだ。
バスのチケットをタダでもらったとあらば日本人としての沽券に関わると、くだんの少女を探し出しチケット代を払うと言ったら,“No. I gave you this ticket. No money.”と言われた。アメリカというと犯罪と殺人の多発地帯と思い込んでいただけに、意外とアメリカ人ってのは優しくていい人が多いんだなぁと思った。

最後にシアトル郊外のスペース・ニードルを歩いていると、オバさん3人組が、私の方を指差して“Look that Indian!!‘’と街中で珍獣をみつけたような凄まじい勢いで叫んでいた。顔の色は白けれどイスラム系の彫の深い顔、されど身体的には脆弱な感じ。私は非常に珍しい種族だと思われたのだろう。

バガボンド・インというホテルに宿泊した。30分ほどするときちんとサンフランシスコから荷物が届いた。あらためてアメリカの流通産業の正確さに驚ろいた次第である。
そこの裏道を散歩しようとしていたら、しきりと車のなかから小指を立てて男たちが手をあげる。ヒッチ・ハイクをしている人と勘違いされているのだろうか、とそのとき思っていたのだが、後で調べてみるとその場所は男娼が拾われる場所であったそうな(ちなみにシアトルは治安が全米で2番目によい)

バガボンド・インをチェック・アウトすると黒人の親切なカウンターレディに”I owe you. You owe me.”と言われた。後ろにはギッシリ黒人の運送業者の方々がきちんと整列して並んでいて、「黒人は危険である」という認識も変わったし非常に簡素ではあるがたのしいホテルだったと思う。

 次回、サンフランシスコ空港からセスナ機でシアトルに向かうと通路沿いの年の頃70歳過ぎの外国人のお婆さんがナップサックに入れたおむすびのような食べ物を凄まじい勢いで食べていて私は驚愕した。私はこのときは体力的にも心理的にもぼろぼろで初回時のような清々しさがなかった。陰鬱な思い出ばかりである。

 初秋、シアトル空港に着くと入国審査官にたどりつくまで長蛇の列。入国審査官のところにたどり着くのに30~40分かかった。「今夜何処へ泊まるのか?」と訊ねられて「スペース・ニードル」とこたえると「あなたは公園に泊まるのか?」と尋ねられたので「いや、ちゃんとホテルに泊まります」と答えた(私はスペース・ニードルの近くに泊まるのだ、と答えた。おそらく私の顔は白い顔ながらイスラム系の顔なので不法侵入者と間違えられたのでしょう)

 立派なホテルに泊まったのだが食事が口に合わない。しかたなくホテルのピザを頼んだ。すると長身のイタリア系のボーイが何故か必要以上に肛門を引き締め爪先立ってピザを運びに入ってきたので驚愕した。ピザは夕食だけでは食べきれなかったので3~4日そのままおいて置いた。するとチェック・アウトの際、ヒスパニック系のホテルマンが「二度と来るな」という態度で私の勘定を済ませた。

 スペース・ニードルから歩いて市街地まで戻ろうとしたら、中国人の軽自動車に乗った中年の女性が「チャイニーズ・タウンに行くの?乗りなさい」と言ってくれた。私が少し躊躇していると向こうも私が中国人でないことに気がついたのだろう、「あ、この人違う」といった風情ですぐに去ってしまった。

 ながいながい小山のような坂を上り下るとそこは中華街だった。中国人・朝鮮人・日本人が共存してすんでいるのだが、最終的には雑然とした中華文明に飲みこまれてしまう。私の目的は日本人が初めて開いたという「宇和島屋」と言うショッピングセンターを見にいくことであったのだが、残念ながらその宇和島屋は日本ではどこにでもある小さなショッピング・センターに過ぎなかった。19世紀にシアトルにたどりついた日本人なんて西洋人から疎外されて中華文明に吸収されてしまう、そんな存在だったんだ、と再認識した。キング・ドームに近づくと黒い皮のジャンパーに鎖を羽織った屈強そうな黒人が二人現れた。あわてて市内列車に乗りこんだ。

 再びながいながい坂を上ると、整然と茶色いタイルが敷きつめられたシアトルの魚市場に出る。防波堤の上に登って湾曲した港をながめていると吐く息が白いのに気がついた。


(2005年4月16日(土)記、一部改善)


(後日譚)
日本人はアメリカ人から見ると非常に若く見えるといいます。当時27歳だった私も10歳くらい年若に見えたのでしょう。アメリカ人の人から見れば、おそらくティーン・エイジャーの若者が空港に降り立ったようにみえたのでしょう。二回目にシアトルに行ったときは「顔はこころを顕すといいます」、ぼろぼろの心理状況でおそらく私は貧しい人にみえたのでしょう。

個人的な理由により個人的な体験を綴るのは今回で止めさせていただきます。
私は一介の素浪人ですので、個人的な体験を一切書いてはいけないのです。ご了承ください。