Monday, November 12, 2007

『身投げ救助業』(菊池寛著:偕成社)

ものの本によると京都もむかしから、自殺者はかなりおおかった。

都はいつの時代でもいなかよりも生存競争がはげしい。生活にたえきれぬ不幸がおそってくると、思いきって死ぬものがおおかった。洛中洛外にはげしい飢饉などがあって、親兄弟にはなれ、かわいい妻子を失ったものは世をはかなんで自殺した。除目にもれた腹立ちまぎれや、義理にせまっての死や、恋のかなわぬ絶望からの死、かぞえてみればさいげんがない。まして徳川時代には相対死などいうて、一時にふたりずつ死ぬことさえあった。

自殺をするにもっとも簡便な方法はまず身を投げることであるらしい。これは統計学者の自殺者表などを見ないでも、すこし自殺ということをまじめに考えたものに気のつくことである。ところが京都にはよい身投げ場所がなかった。むろん鴨川では死ねない、深いところでも三尺ぐらいしかない。だからおしゅん伝兵衛は鳥辺山で死んでいる。たいていは縊れて死ぬ。汽車はひかれるなどということはむろんなかった。

 しかしどうしても身を投げたいものは清水の舞台から身を投げた。『清水の舞台から飛んだ気で』という文句があるのだから、この事実にあやまりはない。しかし下の谷間の岩にあたってくだけている死体を見たりまたそのうわさをきくと、模倣づきな人間もニの足をふむ。どうしても水死をしたいものはお半長右衛門のように桂川までたどっていくか、逢坂山をこえ琵琶湖へでるか、嵯峨の広沢の池へいくよりほかにしかたがなかった。しかし死ぬまえのしばらくを、じゅうぶんに享楽しようという心中者などには、この長い道程もあまり苦にはならなかったのだろうが、一時も早く世の中をのがれたい人たちには、二里も三里も、歩くよゆうはなかった。それでたいていは首をくくった。聖護院の森だとか、糺の森などにはしいの実をひろう子どもが、宙にぶらさがっている死体を見て、おどろくことがおおかった。
それでも京の人間はたくさん自殺をしていた。

すべての自由をうばわれたものにも、自殺の自由だけはのこされている。牢屋にいる人間でも自殺だけはできる。両手両足をしばられていても極度の克己をもって息をしていないことによって、自殺だけはできる。
ともかく、京都によき身投げ場所のなかったことは事実である。しかし人びとはこの不便をしのんで自殺をしてきたのである。適当な身投げ場所のないために、自殺者の比例が江戸や大阪などにくらべて小であったとは思われない。

明治になって、槇村京都府知事が疎水工事をおこして、琵琶湖の水を京にひいてきた。この工事は京都の市民によき水運をそなえ、よき水道をそなえるとともに、またよき身投げ場所をあたえることであった。
疎水は幅十間ぐらいではあるが、自殺の場所としてはかなりよいところである。どんな人でも、深い海の底などでフワフワして、さかななどにつつかれている自分の死体のことを考えてみると、あまりいい気持ちはしない。たとえ死んでも、適当な時間に見つけだされて、葬いをしてもらいたい心がある。それには疎水は絶好な場所である。蹴上から二条をとおって鴨川のへりをつたい、伏見へ流れおちるのであるが、どこでも一丈ぐらい深さがあり、水がきれいなのである。それに両岸に柳が植えられて、夜は青いガスの光がけむっている、先斗町あたりの弦歌の声が鴨川をわたってきこえてくる。うしろには東山がしずかに横たわっている。雨のふった晩などは両岸の青や赤の灯が水にうつる。自殺者の心にこの美しい夜の掘り割りのけしきが、一種のRomanceをひき起こして、死ぬのがあまりにおそろしいと思われぬようになり、フラフラと飛びこんでしまうことがおおかった。

しかし、からだの重さを自分でひきうけて水面に飛びおりるせつなには、どんな覚悟をした自殺者でも悲鳴をあげる。これは本能的に生をしたい死をおそれるうめきでもある。しかしもうどうともすることができない。水けむりをたてて沈んでみな一度は浮きあがる、そのときは助かろうとする本能の心よりもほか何もない。手あたりしだいに水をつかむ。水を打つ、あえぐ、うめく、もがく。そのうちに弱って意識を失うて死んでいくが、もしこのとき救助者がなわでも投げこむとたいていはそれをつかむ。これをつかむときには投身するまえの覚悟も助けられたあとの後悔も心にはうかばれない。ただ生きようとする強き本能があるだけである。自殺者が救助をもとめたり、なわをつかんだりする矛盾を笑うてはいけない。
ともかく、京都にいい身投げ場所ができてから、自殺するものはたいてい疎水に身を投げた。疎水の一年の変死の数は、多いときには百名をこしたことさえある。疎水の流域のうちで、もっともよき死に場所は、武徳殿のつい近くにあるさびしい木造の橋である。インクラインのそばを走りくだった水勢は、なお余勢を保って岡崎公園をまわって流れる。そして公園とわかれようとするところに、この橋がある。右手には平安神宮の森にさびしくガスがかがやいている。左手にはさびしい戸をしめた家がならんでいる。したがって人通りがあまりない。そこでこの橋の欄干から飛びこむ投身者がおおい。岸から飛びこむよりも橋からのほうが投身者の心に潜在している芝居気を、満足せしむるものとみえる。

ところが、この橋から、四、五間ぐらいの下流に、疎水にそうて一軒の小屋がある。そして橋からだれかが身を投げると、かならずこの家からきまって背の低い老婆が飛びだしてくる。橋からの投身が、十二時よりまえの場合はたいていかわりがない。老婆はかならず長いさおを持っている。そしてそのさおをうめ声を目当てに突きだすのである。おおくは手ごたえがある。もしない場合には水音とうめき声を追いかけながら、いくどもいくども突きだすのである。それでもつい手ごたえなしに流れくだってしまうこともあるが、たいていはさおに手ごたえがある。それでもつい手ごたえなしに流れくだってしまうこともあるが、たいていはさおに手ごたえがある。それをたぐりよせるころには、三里ばかりの交番へ使いにいくぐらい厚意のある男が、きっとやじうまのなかにまじっている。冬であれば火をたくが夏は割合に手軽で、水をはかせてからだをふいてやると、たいていは元気を回復し警察へいく場合がおおい。巡査が二言三言不心得をさとすと、口ごもりながら、わび言をいうのをつねとした。
こうして人命を助けた場合には、ひと月ぐらいたって政府から褒状(賞状)にそえて一円五十銭ぐらいの賞金がくだった。老婆はこれを受けとると、まず神だなにそなえて手を二、三度たたいたのち郵便局へあずけにいく。

老婆は第四回内国博覧会が岡崎公園にひらかれたときいまの場所に小さい茶店をひらいた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実いり(収入)もあったので、博覧会が岡崎公園にひらかれたときいまの場所に小さい茶店をひらいた。駄菓子やみかんを売るささやかな店であったが、相当に実いり(収入)もあったので、博覧会の建物がだんだん取はらわれたのちもそのままで商売をつづけた。これが第四回博覧会の唯一の記念物だといえばいえる。老婆は死んだ夫ののこした娘と、いえばいえる。老婆は死んだ夫のこした娘と、ふたりでくらしてきた。小金がたまるにしたがって、小屋がいまのような小ぎれいな住まいにすすんでいる。

最初に橋から投身者があったとき、老婆はどうすることもできなくなった。大声をあげて呼んでも、めったにくる人がなかった。運よく人のくるときには、投身者は疎水のかなりはげしい水にまきこまれて、ゆくえ不明になっていた。こんな場合には老婆は暗い水面を見つめながら、かすかに念仏をとなえた。しかし、こうして老婆の見聞きする自殺者は、ひとりやふたりではなかった。ふた月に一度、おおいときにはひと月に二度も老婆は自殺者の悲鳴をきいた。それが地獄にいる亡者のうめきのようで、気の弱い老婆にはどうしてもたえられなかった。とうとう老婆は自分で助けてみる気になった。よほどの勇気とくふうとで、老婆が物干しのさおを使って助けたのは、二十三になる男であった。主家(主人の家)の金を五十円ばかり使いこんだ申しわけなさに死のうとした、小心者であった。巡査に不心得をさとされると、この男は改心をして働くといった。それからひと月ばかりたって、彼女は府庁から呼びだされて、ほうびの金をもらったのである。そのときの一円五十銭は老婆には大金であった。彼女はよくよく考えたすえ、そのころややさかんになりなりかけた郵便貯金にあずけ入れた。

それからのちというものは、老婆はけんめいに人を救った。そして救い方がだんだんうまくなった。水音と悲鳴ときくと老婆はきゅうに身を起こして裏へかけだした。そこに立てかけてあるさおを取りあげて、漁夫が鉾でこいでも突くようなかまえで、水面をにらんで立ってあがいている自殺者の前にさおをたくみにさしだした。さおが目の前にきたときに取りつかない投身者はひとりもないといってよかった。それを老婆はけんめいに引きあげた。通りがかりの男が手伝ったりするときには、老婆は不興(ふきげん)であった。自分の特権を侵害されたような心持ちがしたからである。老婆はこのようにして、四十三の年から五十八のいままでに、五十八のいままでに、五十いくつかの人命を救うている。だから褒賞の場合の手続きなどすこぶる簡単になって、一週で金がおりるようになった。府庁の役人は、「おばあさんまたやったなあ。」とわらいながら、金をわたした。老婆もはじめのように感激もしないで、茶店の客からだいふく代を、もらうように「大きに。」といいながら受けとった。世間の景気がよくてふた月も、三月も、投身者のないときには、老婆はなんだか物たらなかった。娘に浴衣地をせびられたときなどにも、老婆は今度一円五十銭もろうたらというていた。
そのときは六月のすえで例年ならば投身者のおおいときであるのに、どうしたのか飛びこむ人がいなかった。

老婆は毎晩娘とまくらを並べながらきき耳をたてていた。老婆は毎晩娘とまくらを並べながらきき耳をたてていた。それで十二時ごろにもなって、いよいよだめだと思うと「今夜もあかん。」というて目をとじることなどもあった。

老婆は投身者を助けることをひじょうにいいことだと思っている。だから、よく店の客などと話しているときにも「私でもこれで、人さんの命をよっぽど助けているさかえ、極楽へいかれますわ。」というていた。むろんそのことをだれも打ち消しはしなかった。
しかし老婆が不満に思うことが、だた一つあった。それは助けてやった人たちがあまり老婆に礼をいわないことである。巡査のまえでは頭をさげているが、老婆にあらためて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日あらためて礼をいうものはほとんどなかった。
まして後日あらためて礼をいうものはほとんどなかった。まして後日あらためて礼をいいにくるものなどはひとりもない。「せっかく命を助けてやったのに薄情な人だなあ。」と老婆は腹のうちで思っていた。

ある夜、老婆は十八になる娘を救うたことがある。娘は正気がついて自分が救われたことを知ると身も世もないように、泣きしきった。やっと巡査のすきを見てふたたび水中に身をおどらせた。しかし娘はふしぎにもまた、老婆のさしだすなおに取りすがって救われた。
老婆は再度巡査に連れられていく娘のうしろ姿を、見ながら、「なんべん飛びこんでもやっぱり助かりたいものだなあ。」というた。
老婆は六十に近くなっても、水音と悲鳴とをきくとかならずさおをさしだした。そしてまたそのさおをさしだした。そしてまたそのさおに取りすがることを拒んだ自殺者はひとりもなかった。助かりたいから取りつくのだと老婆は思っていた。

ことしの春になって、老婆の十数年来らいの平静な生活を、一つの危機がおそった。それは二十一になる娘の身の上からである。娘はやや下品な顔だちではあったが、色白であいきょうがあった。老婆の遠縁の親類の二男が、徴兵から帰ったら、養子にもらって貯金の三百幾円を資本として店を大きくするはずであった。これが老婆の望みであり楽しみであった。
ところが、娘は母の望みをみごとにうらぎってしまった。彼女は熊野通りニ条下るにある熊野座という小さい劇場に、ことしの二月から打ちつづけている嵐扇太郎という旅役者とありふれた関係におちていた。扇太郎はたくみに娘をそそのかし、母の貯金の通帳を持ちださせて、郵便局から金を引きだし、娘を連れたままどこともなく逃げてしまったのである。

老婆には驚愕と絶望とのほか、何ものこっていなかった。ただ店にある五円にもたりない商品と、すこしの衣類としかなかった。それでもいままでの茶店をつづけていれば、生きていかれないことはなかった。しかし彼女には何の望みもなかった。

ふた月ものあいだ、娘の消息を待ったが徒労(むだな骨折り)であった。彼女にはもう生きてゆく力がなくなっていた。彼女は死を考えた。いく晩もいく晩も考えたすえに、身を投げようと決心した。そしてたえたい絶望の思いをのがれ、一つには娘へのみせしめにしようと思った。身投げの場所は住みなれた家のちかくの橋をえらんだ。あそこから投身すれば、もうだれもじゃまする人はなかろうと、老婆は考えたのである。
老婆はある晩、例の橋の上に立った。自分がすくった自殺者の顔がそれからそれからと頭に浮かんでしかもすべてが一種みょうな、皮肉なわらいをたたえているように思われた。しかしおおくの自殺者を見ていたおかげには、自殺をすることが家常茶飯のように思われて、たいした恐怖をも感じなかった。老婆はフラフラとしたまま欄干から、ずり落ちるように身を投げた。

彼女がふと、正気づいたときには、彼女の周囲には巡査とやじうまとが立っている。これはいつも彼女がつくる集団とおなじであるが、ただ彼女のとる位置がかわっているだけである。やじうまのなかには巡査のそばに、いつもの老婆がいないのをふしぎに思うのさえあった。

老婆は恥ずかしいくらいのような憤ろしいような、名状しがたき不愉快さをもって周囲を見た。ところが巡査のそばのいつも自分が立つべき位置に、色の黒い四十男がいた。老婆は、その男が自分を助けたのだと気のついたとき、彼女はつかみつきたいほど、その男をうらんだ。いい気持ちに寝入ろうとするのを、たたき起こされたようなむしゃくしゃした、はげしい怒りが、老婆の胸のうちにみちていた。
男はそんなことを少しも気づかないように「もう一足おそかったら、死なしてしまうところでした。」と巡査に話している。それは老婆がいくども、巡査に話している。それは老婆がいくども、巡査に話している。それが老婆がいくども、巡査にいうおぼえあることばであった。そのうちには人の命をすくった自慢が、ありありとあふれていた。

老婆は老いた膚が見物にあらわに、見えていたのに気がつくと、あわてて前をかきあわせたが、胸のうちは怒りと恥とで燃えているようであった。

見知りごしの巡査は、「助ける側のおまえが自分でやったらこまるなあ。」というた。
老婆はそれをききながして逃げるように自分の家へかけこんだ。巡査はあとからはいってきて、老婆の不心得さをさとしたが、それはもう幾十ぺんもききあきたことばであった。そのときふと気がつくと、あけたままの表戸から例の四十男をはじめ、おおくのやじうまがものめずらしくのぞいていた。老婆は狂気のようにかけよって、はげしい勢いで戸をしめた。

老婆はそれいらいさびしく、力なく暮らしている。彼女には自殺する力さえなくなってしまった。娘は帰えりそうにもない。泥のように重苦しい日がつづいていく。
老婆の家の背戸(うら口)には、まだあの長い物干しざをが立てかけてある。しかしあの橋から飛び込む自殺者が助かったうわさはもうきかなくなった。

(出典:『ジュニア版日本文学名作選』25『恩讐の彼方に』偕成社出版)

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