Thursday, November 01, 2007

遠いアメリカ

8年前の記憶です。くだらない記憶ですがよろしければご覧ください。

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初春、日本から太平洋を横断してサンフランシスコに至るまで都立大学高専講師のH氏とその同僚某氏と同席した。何でもアラスカで開催される学会に出席されるとのことで父と同じ系列の学校の方だったので非常に話が弾んだ。延々と海がつづくなか十七時間後、雲間から整然と箱庭のようにつくられたサンフランシスコの街がようやく時折顔をみせた。何と美しい街か、と思った。

 霧で私がフライトを予定していた便が欠航するとのことだったので、前の便の空席に慌てて申し込んで荷物のカウンター・マンにその旨をつたえた。果たして荷物が届くのか不安だった。サンフランシスコ空港からセスナ機でシアトルに向かうと通路沿いの外国人が熱心に小説を読んでいた。私はといえばセスナ機が雲海に入っていくなかでいっそこのままセスナ機ごと爆発したらいい、というような心境だった。

 シアトル空港に着くと入国審査官(だと思う)のお姉さんが、いきなり子供をあやすように “ Welcome to Seattle” と言いながら笑顔をつくって私に向かって手を振ってきたのに驚かされた。その女性とはほぼ同じくらいの身長だったのだが、子供と間違われているのではないかと思いパスポートを出すと、案の定“Oh,Sorry Mr.”と言っていそいそとスタンプを押してくれた。とても27歳には見えなかったのでしょう。

また、空港の中でお婆さんに物を尋ねたとき、ついつい90(ninety)と19(nineteen)をいい間違えてしまった。するとお婆さんは何度も、“nineteen、nineteen”と繰り返し私に練習をするように迫ってきた。その様子を見た黒人の警備員が「この人は外国人なんだから、そんなことさせなくてもいいんだよ」とお婆さんに言うと、お婆さんは「何言っているの若いうちからこういう訓練をしなければ云々」と口論を始めてしまった。
すると、たちまち人だかりが出来てしまい私は“Thank you Mrs.grandmother.”と言い残して人だかりの中から消えた。とても27歳には見えなかったのでしょう。

シアトル空港からスペース・ニードルまで行くバスに乗ろうとしたら、皆チケットらしきものをポケットから出して車掌に渡している。チケットなどあるはずもなく困っていたら、列の後ろの女の子が自分のチケットをちぎって私に渡すとそそくさとバスに乗り込んだ。
バスのチケットをタダでもらったとあらば日本人としての沽券に関わると、くだんの少女を探し出しチケット代を払うと言ったら,“No. I gave you this ticket. No money.”と言われた。アメリカというと犯罪と殺人の多発地帯と思い込んでいただけに、意外とアメリカ人ってのは優しくていい人が多いんだなぁと思った。

最後にシアトル郊外のスペース・ニードルを歩いていると、オバさん3人組が、私の方を指差して“Look that Indian!!‘’と街中で珍獣をみつけたような凄まじい勢いで叫んでいた。顔の色は白けれどイスラム系の彫の深い顔、されど身体的には脆弱な感じ。私は非常に珍しい種族だと思われたのだろう。

バガボンド・インというホテルに宿泊した。30分ほどするときちんとサンフランシスコから荷物が届いた。あらためてアメリカの流通産業の正確さに驚ろいた次第である。
そこの裏道を散歩しようとしていたら、しきりと車のなかから小指を立てて男たちが手をあげる。ヒッチ・ハイクをしている人と勘違いされているのだろうか、とそのとき思っていたのだが、後で調べてみるとその場所は男娼が拾われる場所であったそうな(ちなみにシアトルは治安が全米で2番目によい)

バガボンド・インをチェック・アウトすると黒人の親切なカウンターレディに”I owe you. You owe me.”と言われた。後ろにはギッシリ黒人の運送業者の方々がきちんと整列して並んでいて、「黒人は危険である」という認識も変わったし非常に簡素ではあるがたのしいホテルだったと思う。

 次回、サンフランシスコ空港からセスナ機でシアトルに向かうと通路沿いの年の頃70歳過ぎの外国人のお婆さんがナップサックに入れたおむすびのような食べ物を凄まじい勢いで食べていて私は驚愕した。私はこのときは体力的にも心理的にもぼろぼろで初回時のような清々しさがなかった。陰鬱な思い出ばかりである。

 初秋、シアトル空港に着くと入国審査官にたどりつくまで長蛇の列。入国審査官のところにたどり着くのに30~40分かかった。「今夜何処へ泊まるのか?」と訊ねられて「スペース・ニードル」とこたえると「あなたは公園に泊まるのか?」と尋ねられたので「いや、ちゃんとホテルに泊まります」と答えた(私はスペース・ニードルの近くに泊まるのだ、と答えた。おそらく私の顔は白い顔ながらイスラム系の顔なので不法侵入者と間違えられたのでしょう)

 立派なホテルに泊まったのだが食事が口に合わない。しかたなくホテルのピザを頼んだ。すると長身のイタリア系のボーイが何故か必要以上に肛門を引き締め爪先立ってピザを運びに入ってきたので驚愕した。ピザは夕食だけでは食べきれなかったので3~4日そのままおいて置いた。するとチェック・アウトの際、ヒスパニック系のホテルマンが「二度と来るな」という態度で私の勘定を済ませた。

 スペース・ニードルから歩いて市街地まで戻ろうとしたら、中国人の軽自動車に乗った中年の女性が「チャイニーズ・タウンに行くの?乗りなさい」と言ってくれた。私が少し躊躇していると向こうも私が中国人でないことに気がついたのだろう、「あ、この人違う」といった風情ですぐに去ってしまった。

 ながいながい小山のような坂を上り下るとそこは中華街だった。中国人・朝鮮人・日本人が共存してすんでいるのだが、最終的には雑然とした中華文明に飲みこまれてしまう。私の目的は日本人が初めて開いたという「宇和島屋」と言うショッピングセンターを見にいくことであったのだが、残念ながらその宇和島屋は日本ではどこにでもある小さなショッピング・センターに過ぎなかった。19世紀にシアトルにたどりついた日本人なんて西洋人から疎外されて中華文明に吸収されてしまう、そんな存在だったんだ、と再認識した。キング・ドームに近づくと黒い皮のジャンパーに鎖を羽織った屈強そうな黒人が二人現れた。あわてて市内列車に乗りこんだ。

 再びながいながい坂を上ると、整然と茶色いタイルが敷きつめられたシアトルの魚市場に出る。防波堤の上に登って湾曲した港をながめていると吐く息が白いのに気がついた。


(2005年4月16日(土)記、一部改善)


(後日譚)
日本人はアメリカ人から見ると非常に若く見えるといいます。当時27歳だった私も10歳くらい年若に見えたのでしょう。アメリカ人の人から見れば、おそらくティーン・エイジャーの若者が空港に降り立ったようにみえたのでしょう。二回目にシアトルに行ったときは「顔はこころを顕すといいます」、ぼろぼろの心理状況でおそらく私は貧しい人にみえたのでしょう。

個人的な理由により個人的な体験を綴るのは今回で止めさせていただきます。
私は一介の素浪人ですので、個人的な体験を一切書いてはいけないのです。ご了承ください。

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