Saturday, December 30, 2006

『シリコンバレー精神』(梅田望夫;ちくま文庫)をめぐる冒険(後)

 私は学生時代、『ハーバード・ビジネス・スクールにて』(土屋守章;中公文庫)を読んで、アメリカでは優秀な学生ほど起業する、というアメリカの現実を知って驚いた。

1995年にマイクロソフト・ウインドウズが日本に上陸し、情報化社会の到来に伴ってベンチャー企業が勃興するシリコンバレーの現実をこの眼でみてみたいと思い、1997年ワシントン州シアトルに立ち寄った帰路、サンフランシスコ空港で降りて、大学の先輩でレジス・マッケンナのコンサルティング会社に勤務する飯田仁子さんに頼み込んでシリコンバレーを見て歩いた。

「セコイアの木に引き寄せられて」
http://www.thinkjapan.gr.jp/sequoia/

私が情報化社会に憧れたのは「個人の自由な発想が評価され活用される会社」の発生により、微力ながらも日本の閉塞した会社社会に風穴をあける活動に参画したいという志と、「活字文化の復活」「コミュニケーションの復活」「書き言葉の復活」を期待したためである。

帰国した後、三菱化学につとめシリコンバレー在住の八木博氏と京都の講演会で知り合い、「週刊シリコンバレー情報」というメールマガジンの発行を手伝い、東京で行われるオフ会に出席し、八木氏の講演会を開催したり、本当に僅かではあるけれども、人々の意識を変える活動を行った。

それだけに日本のこの第三次ベンチャーブームの恒常化には、喜びを感じざるを得ない。

最後に梅田氏は私のもっとも尊敬する生き方をしている人物をこの書物で紹介してくれた。

全世界の精鋭プログラマーの無償の個人の奉仕で開発されたLinuxの創始者で司令塔であるリーナス・トーバルス氏である。

氏はLinux開発の創始者で司令塔であり、アメリカン・フットボールで言えばクオーターバックをつとめるような人物である。

スタンフォード大学で開催されたパネル・ディスカッションには大勢の聴衆がつめかけるほどの人物であるが、昼間はトランメスタという半導体ベンチャーでごく普通のプログラマーとしてごく普通の給料をもらって生活している。しかし、休日は朝夕は無償でLinuxの開発に従事するという生活スタイルをとっている。

氏はフィンランド人であるが、決して報酬や地位を求めようとしない。しかしながら、自らの開発するOSに猛烈なエネルギーを注入する一風変わった価値観の持ち主である。

また新しい時代が胎動する気配を感じる。

最後にリーナス・トーバルス氏の人柄を示すエピソードを紹介して文章をしめくくる。

「リーナスを囲むパネルなのに、リーナスはあまりたくさん話をしない。そんな時だ。会場の隅で赤ん坊がワァーワァー泣き出した。その時やおらリーナスが立ち上がり赤ん坊のほうへ歩いてゆくではないか。赤ん坊に近づいていったリーナスは赤ん坊を母親らしき女性の手からすっと抱きかかえ、ニコニコしながらあやしはじめたのだった。何と、赤ん坊はリーナスの子供だったのだ」

『シリコンバレー精神』(梅田望夫;ちくま文庫)をめぐる冒険(前)

 ここ10年の総括をすると、第三次ベンチャーブームは成功に終わり、常時100社から120社程度が株式を公開することは今後恒常化するであろうと思われる。

ベンチャーの理論的旗手である清成忠男前法政大学総長が唱えた第1ベンチャーブーム、第2ベンチャーブームは画餅に終わったが、今回は本格的に軌道に乗ったといえるであろう。

何といっても、このベンチャーブームの最大の功労者は孫正義氏とその後見人である樋口廣太郎氏の二人である。

当時の記事にはこうある、

1999年10月12日「ナスダック・ジャパン・クラブ」の初会合に先立ち、ナスダック・ジャパン・プランニング(株)社長の孫正義氏と全米証券業協会(NASD)会長のフランク・ザーブ(Frank G. Zarb)氏、ナスダック・ジャパン代表世話人でアサヒビール(株)名誉会長の樋口廣太郎氏の3氏による記者会見が行なわれた。

NASD会長のザーブ氏は、「NASDAQというプラットフォームの拡大で、海外投資もより増加する。日米の市場がインターリンクしてお互いの経済が活発になり、新しい仕事や雇用が生まれるだろう。実際、米国では活発な市場の効果で多くの雇用が生まれている。ナスダック・ジャパンが刺激となり、日本の経済に活気もたらすだろう」とNASDAQが日本に上陸する意義を語った。

樋口氏は、ナスダック・ジャパンの代表世話人として記者会見に臨んだ。樋口氏は、「米NASDAQが米国の経済界に大きな衝撃を与えたのは事実。経済戦略会議の議長として、小渕首相に多くの提言をしたが、『健全にして競争的な日本社会』の実現が共通の目標。この認識の下、ナスダック・ジャパンにも取り組みたい」と述べた。

http://ascii24.com/news/i/mrkt/article/1999/10/12/604887-000.html

孫氏は引責辞任した田淵会長に殉じて野村證券を去った北尾吉孝氏を1996年に自社に迎えるという僥倖に恵まれ、危なっかしいソフトバンクの経営をなんとか安定化させることに成功した。

思えば、1996年は不思議な年であった。

既存のエスタブリシュメントの組織を次々と捨ててゆくエリートが大きく報じられた。

当時の日経新聞夕刊に将来の社長候補とみなされた北尾吉孝氏のソフトバンク入りは驚きを持って報じられたし、「日経ビジネス」には大蔵省、運輸省、日本開発銀行を退職したキャリア3人(構想日本の加藤氏(http://www.kosonippon.org/)、知的財産担保融資の田代氏、大阪府特別顧問の上山氏)の鼎談が掲載されている。

Sunday, December 24, 2006

ノスタルジー文学研究会

2000年(平成十二年)の春、なにげなく日本経済新聞の文芸欄を読んでいると、酒井隆之氏の顔写真が芥川賞作家平野啓一郎氏と並んで掲載されていた。

まず最初に浮かんだのは「あいつに、たいして文学の才能があるとは思えなかったけど、いつの間にこんな大物になったんだろう」という酒井の出世をいぶかしむ気持ちだった。


記事を読んでみるてわかったのは、まず酒井氏が三島由紀夫を題材に評論を書いて、その作品が第一回新潮新人賞を受賞したこと。そして気鋭の若手評論家として平野啓一郎氏とともに期待されているということだった。


大学の文学研究会に所属し、会長は別の人物がつとめていたとはいえ、実質的に文学研究会を牽引する2人だっただけに、多少複雑な気持ちになったのは事実であるが、京都という地理的なハンデを乗り越えてよくやったなという快挙を喜ぶ気持ちも多大にあった。


酒井氏が入会してきたのは1回生の秋、世間知らずで文学を真剣に探求する気もない会員が多い中で、よく世間というものを知っており、野性的で、文学に対しては純粋で真剣だった。


当初、私は彼のあまりのガラの悪さに時折、嫌悪感を示した。


テニスサークルと掛け持ちをしている女の子と3人で金沢に行こう、泊まるのはラブホテルでいい、突然の彼の提案を拒否したこともあった。


彼は私を国の金融機関に勤める良家の子弟とみなしてくれたようで、会話をすると「ホオ、お前はそんな風に考えるの。俺には考えられへんな」というようなやりとりがしばしばあった。


彼としては真摯に文学を突き詰める会員を求めてきたらしいが、「文学では飯は食えない」と子供のころから親に厳命されてきた私の、文学に関心を持つものなら誰でも受け入れるという柔軟路線に飽き足らず、大阪市の職員になったS君という会員と脱会し「非望」という雑誌を作って硬派路線をうちだした。


早々と路線の違いを示し脱会した彼であるが、やはり文学的な香りのする会話は恋しかったらしく、準会員というような身分で頻繁に部室を訪れては、社会や人物について毒を吐き、最後には私の書いたくだらない随筆や小説を「お前の書くもんはマンガみたいに読めんねん」と会費も払っていないのに持っていった。


後でよく思い出してみると、彼は経済学部の授業にはまったくでず単位もほとんどとっていなかったが、よく本を読んでいたという記憶がある。


大学の生協で大量に本を買ってきて何気なく部室に置いていると、1年後輩の瀬崎君という後に東大の大学院に進学するような勉強家が眼を丸くし、「酒井さん、あんまり本を読まないで下さい。ぼくがおいつけなくなるじゃないですか」と言っていたのを記憶している。


真摯で強烈な酒井の文学観は、熱烈な酒井フリークをつくった。瀬崎君やK君は文学研究会を脱会した。


その自信家の酒井が酷く落ち込んで部室で沈んでいたのを見たことがある。


何でも京大の「浅田彰先生を囲む会」のようなものに出席したらしいが、まったくその雰囲気に馴染めなかったらしい。


大阪の下町に生まれた彼はリングネームに「マルクス」とつけるくらい、子供のころから左寄りの思想を畏敬していたらしいが、その権化である浅田彰先生とその取り巻きの雰囲気に馴染めなかったことが相当なショックであったらしい。


しばらくして、酒井は右傾化していった。双子の弟である康之氏と大学の外で西部邁氏の講演会を手伝ったりしていることが、部室に貼られたビラでわかった。私は東京への電車賃もいとわずに文学の道に邁進する姿に学ぶものがあった。


やがて4回生になり就職活動に入るが、教員志望の彼は教員免許取得のための単位不足で教員になる道を閉ざされ、大学院志望に変わった。私は内心「卒業単位を52を残して、経済学部の大学院かよ」と内心せせらわらったが、彼は一ヶ月ほどの勉強で、理論経済学の大学院試験に受かった。そのときは本当に驚いた。


最期に酒井と会ったのは、野坂昭如氏の講演会の後、京都の古びた飲み屋の2階で野坂先生を交えて歓談していると、宴たけなわの時、ほろ酔い加減の酒井氏とその一党が「野坂に議論をふっかけてやろう」というような勢いで飲み屋の階段を上ってきた。


しかしながら、酒井はギラギラした眼でジッとその酒宴の様子を眺めていたが、「今はそのときに非ず」と思ったか、酒井はスゴスゴと階段を下りていった。


それが最後である。


最近寡聞にして酒井氏の噂は聞かないが、文士は醸造される酒のように長い年月を経て、熟成されて現れるのであろう。


われわれは、そのときを待とう。



(後日譚)
ある会社に入社後、酒井氏のパン工場ちかくの寮にいくと、雨が降るなかきちんと傘をさして駅まで見送ってくれた。非常に礼儀正しい方だと感心した次第である。

Sunday, December 10, 2006

(書評)『グーグル Google』(文春新書)

まず語られるのは、Googleの登場による、既存のメディアのビジネスモデルの構造革命である。

インターネット・ユーザーはインターネットを始めるにあったてまず検索エンジンを使う。

そして最もユーザーが検索しやすいエンジンを選択する。検索エンジンはユーザーが入力したキーワードに適した広告を検索結果の間に挿入し配信する。ユーザは検索キーワードにちかい商品の広告を眼にし、ついでにその広告をクリックする。

つまりネットの方が費用対効果が高いのである。

この事実が判明するにつれ、広告代理店はインターネットに広告を配信し、相対的にテレビなどのメディアに広告収入が流れなくなる。新聞などのメディアも、販売店代理店の主な収入源である折り込みチラシは減少し存亡の危機に立っている。

また、Googleは中小零細企業にも優しい。

京浜島で駐車場を経営する山崎夫婦は、敷地はあるが駐車場の存在を知らせることができないため、集客に苦労していた。

そこでGoogleのキーワード入札に参加し、「羽田 駐車場」「羽田空港 駐車場」「羽田空港 民間駐車場」という検索キーワードを落札し、このキーワードで検索してきたユーザーに対して広告を掲載する権利を取得した。

するとまさに適材適所、この広告は海外旅行に行く羽田空港ちかくで2・3日車を駐車させたいユーザーにヒットし、山崎夫妻は申し込みを断らなければならない程の需要を得た。

興味深いのは、キーワード(言語)にオークション形式で値段がつき始めたことである。インターネットにおけるキーワードはあらたな商品となった。


また、佐々木氏が警鐘を鳴らしていたのは、Googleのヴァーチャル社会での権力が増せば増すほど、やがてGoogleは公的な力を持ち、政府の監視社会の強化に力を貸すのではないかという危惧である。

最後に、佐々木氏は小説『ユービック』を引用し、ヴァーチャル世界とリアルな世界との区分が明確でなくなる例を紹介している。

宇宙船の爆発をきっかけに時間退行現象を起こした世界に引きずり込まれた人々。退化現象を矯正する特効薬「ユービック」というスプレー缶のみ。そして爆死したはずのボスからのメッセージがさまざまな場所に届く。スーパーで商品を手に取れば、そのラベルにボスのメッセージが書かれ、店で釣銭を受け取れば、その硬貨にボスの肖像が現れる。やがて死んだのはボスなのか、自分たちが冥界を漂っているのかのリアリティがわからなくなっていく・・・・・

ありとあらゆるところに届くボスのメッセージは神の遍在(ユビキタス)を奇想させ、見えない力に支配される主人公の姿は「監視するユビキタス」を象徴している。

こんな世界にならなければいいが。一抹の不安を覚えた。

Saturday, December 09, 2006

(書評)ヒルズ黙示録・最終章(大鹿靖明;朝日新書)Part2

この本を読んで考えさせられたのは、やはり「いわゆる事前規制型社会から事後チェック型社会の移行」に伴う弊害である。

金融ビックバン以降、国際的な規制緩和の動きの中で、政府の働きは事前に社会の影響を考慮した業界指導から、資本市場の自由にゆだね事後のチェックに当たるのみという夜警国家的な働きに変化した。

一連の保有する優良不動産の保有益に眼をつけた村上ファンドが阪神株を買い漁り、阪急と合併するまでの経緯を読んでいたが、その前に京阪が阪神に統合案を持ち込んでいたという事実に驚かされた。

京阪電気鉄道は大阪のビジネス街、淀屋橋から京都をつなぐ私鉄で阪神はこの統合案で、京都から神戸までの路線を手に入れることも出来た筈である。

さらに、この統合案に大阪の繁華街ミナミのある阿倍野から奈良、阿倍野から名古屋に路線を持つ近畿日本鉄道まで乗り出して来たというのだから興味深い。

もし、この三角合併が成就していれば、名古屋―京都―大阪―神戸を結ぶ一大私鉄連合が形成され、JR西日本の一人勝ちの様相を呈する関西の鉄道地図に一石を投ずることが出来た筈である。

阪急が阪神との合併に乗り気になったのは、不動産開発に失敗した阪急の財務内容の改善を阪神の優良資産が埋めてくれるのを期待したからに他ならない。いわば、企業の都合による合併であり、顧客のメリットを考えた合併ではない。

マスコミの報道姿勢にも問題があり、関西の経済事情に精通していない放送局の制作によるものか、阪神には阪急との合併以外に、関西私鉄連合という素晴らしいオプションが存在することをあまり報道していなかったように思う。

結局、強烈なメディアの報道効果および村上ファンドの強制捜査により、いそいそと阪神は阪急との統合を選んでしまい、顧客よりも企業利益を優先した合併が成立してしまった。

もはや、少子高齢化のすすむ日本にはこれまで培った経営資源を効率的に活用するしかない。

このような無駄な合併は慎むべきではないだろうか。


(後日譚)
既に阪急、阪神、京阪、近鉄、大阪地下鉄は相互乗り入れして顧客の利便性を考えた関西私鉄鉄道網は完成されております。