Sunday, December 24, 2006

ノスタルジー文学研究会

2000年(平成十二年)の春、なにげなく日本経済新聞の文芸欄を読んでいると、酒井隆之氏の顔写真が芥川賞作家平野啓一郎氏と並んで掲載されていた。

まず最初に浮かんだのは「あいつに、たいして文学の才能があるとは思えなかったけど、いつの間にこんな大物になったんだろう」という酒井の出世をいぶかしむ気持ちだった。


記事を読んでみるてわかったのは、まず酒井氏が三島由紀夫を題材に評論を書いて、その作品が第一回新潮新人賞を受賞したこと。そして気鋭の若手評論家として平野啓一郎氏とともに期待されているということだった。


大学の文学研究会に所属し、会長は別の人物がつとめていたとはいえ、実質的に文学研究会を牽引する2人だっただけに、多少複雑な気持ちになったのは事実であるが、京都という地理的なハンデを乗り越えてよくやったなという快挙を喜ぶ気持ちも多大にあった。


酒井氏が入会してきたのは1回生の秋、世間知らずで文学を真剣に探求する気もない会員が多い中で、よく世間というものを知っており、野性的で、文学に対しては純粋で真剣だった。


当初、私は彼のあまりのガラの悪さに時折、嫌悪感を示した。


テニスサークルと掛け持ちをしている女の子と3人で金沢に行こう、泊まるのはラブホテルでいい、突然の彼の提案を拒否したこともあった。


彼は私を国の金融機関に勤める良家の子弟とみなしてくれたようで、会話をすると「ホオ、お前はそんな風に考えるの。俺には考えられへんな」というようなやりとりがしばしばあった。


彼としては真摯に文学を突き詰める会員を求めてきたらしいが、「文学では飯は食えない」と子供のころから親に厳命されてきた私の、文学に関心を持つものなら誰でも受け入れるという柔軟路線に飽き足らず、大阪市の職員になったS君という会員と脱会し「非望」という雑誌を作って硬派路線をうちだした。


早々と路線の違いを示し脱会した彼であるが、やはり文学的な香りのする会話は恋しかったらしく、準会員というような身分で頻繁に部室を訪れては、社会や人物について毒を吐き、最後には私の書いたくだらない随筆や小説を「お前の書くもんはマンガみたいに読めんねん」と会費も払っていないのに持っていった。


後でよく思い出してみると、彼は経済学部の授業にはまったくでず単位もほとんどとっていなかったが、よく本を読んでいたという記憶がある。


大学の生協で大量に本を買ってきて何気なく部室に置いていると、1年後輩の瀬崎君という後に東大の大学院に進学するような勉強家が眼を丸くし、「酒井さん、あんまり本を読まないで下さい。ぼくがおいつけなくなるじゃないですか」と言っていたのを記憶している。


真摯で強烈な酒井の文学観は、熱烈な酒井フリークをつくった。瀬崎君やK君は文学研究会を脱会した。


その自信家の酒井が酷く落ち込んで部室で沈んでいたのを見たことがある。


何でも京大の「浅田彰先生を囲む会」のようなものに出席したらしいが、まったくその雰囲気に馴染めなかったらしい。


大阪の下町に生まれた彼はリングネームに「マルクス」とつけるくらい、子供のころから左寄りの思想を畏敬していたらしいが、その権化である浅田彰先生とその取り巻きの雰囲気に馴染めなかったことが相当なショックであったらしい。


しばらくして、酒井は右傾化していった。双子の弟である康之氏と大学の外で西部邁氏の講演会を手伝ったりしていることが、部室に貼られたビラでわかった。私は東京への電車賃もいとわずに文学の道に邁進する姿に学ぶものがあった。


やがて4回生になり就職活動に入るが、教員志望の彼は教員免許取得のための単位不足で教員になる道を閉ざされ、大学院志望に変わった。私は内心「卒業単位を52を残して、経済学部の大学院かよ」と内心せせらわらったが、彼は一ヶ月ほどの勉強で、理論経済学の大学院試験に受かった。そのときは本当に驚いた。


最期に酒井と会ったのは、野坂昭如氏の講演会の後、京都の古びた飲み屋の2階で野坂先生を交えて歓談していると、宴たけなわの時、ほろ酔い加減の酒井氏とその一党が「野坂に議論をふっかけてやろう」というような勢いで飲み屋の階段を上ってきた。


しかしながら、酒井はギラギラした眼でジッとその酒宴の様子を眺めていたが、「今はそのときに非ず」と思ったか、酒井はスゴスゴと階段を下りていった。


それが最後である。


最近寡聞にして酒井氏の噂は聞かないが、文士は醸造される酒のように長い年月を経て、熟成されて現れるのであろう。


われわれは、そのときを待とう。



(後日譚)
ある会社に入社後、酒井氏のパン工場ちかくの寮にいくと、雨が降るなかきちんと傘をさして駅まで見送ってくれた。非常に礼儀正しい方だと感心した次第である。

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