Wednesday, November 22, 2006

(書評)『ウェブ進化論』 (梅田望夫:ちくま新書)

本書を読み終えて、GoogleやAmazonを代表とするシリコンバレーの凄まじいビジネスモデルの変貌の波が起こりつつあることに驚愕するとともに、なかなか具体的なイメージがつかめず、通常の新書を読むように簡単に本書を読み終えることができなかった。

歴史をたどれば「共有された大型コンピュータ」という特定の組織しか持ち得ない情報処理機器をビル・ゲイツが「パーソナル・コンピュータ」というコンピュータを私有することに尽力し成功した。

そしてわずかな年月を経てコンピュータを私有することに慣れた世代のGoogleの創立者であるラリー・ペイジとセルゲイ・ブリングがインターネットという回線を通じて世界中の不特定の人々が無限大の情報を蓄積しているヴァーチャルな空間があることに興味を持ち、その「あちら側」に全く新しい創造物を構築しつつある一種の世代交代を本書は告げているのである。

例えば、個人が自宅のパソコンでGoogleのG-mailを使って送信すれば、メールはインターネットのヴァーチャルな空間(=あちら側)に蓄積されGoogleの技術によって整理され高度な検索が可能になり水と空気と同じように無料で保存し、ウイルス駆除や迷惑メールの駆除を行なってくれる。

しかしながら、Googleはその対価としてコンピュータによって内容を自動的に判断して電子メールにアドセンスという技術を使い最適な広告へのリンクを忍ばせている。

Googleの運営するBlogも同様である。

アドセンス機能は個人が開設したBlogの内容によって広告主にとって最適な広告先を自動的に選定し個人のBlogに貼り付ける。そして、個人のBlogにアクセスしてきた人がその広告をクリックすれば広告料の一部が情報発信主であるBlogの主催者に小切手が支払われる仕組みになっている。

Amazonに至っては手数料15%でAmazonと個人事業者が共同経営できる仕組みを作っている。個人事業者はAmazonの膨大な商品情報だけでなく決済機能までAmazonに依存することができ、あとは顧客向けサービス開発に専念することができる。

あと、私が興味を持ったのは、

Yahoo VS Googleの情報のチョイスの仕方の違いである。
Yahooは情報をチョイス(=HPのヘッドラインを何にするか等)するのに人間を介在させるがGoogleは人間を介在させない。

これから両者はは映像コンテンツ産業にアプローチしてゆくだろうが、この違いがどのような結果をもたらすか楽しみである。

もう一つは、Googleの社員の就業形態である。

80%は既存の業務に従事するが、20%は自分独自のオリジナルな仕事をしなければならないことである。

最後に梅田氏の印象的な言葉。

「いつ失職するかわからない緊張感の中で常に個としてのスキルを磨き自分を客観的に凝視し続ける姿が、いかに個を強化するか」

日本もこういった時代に入ったと言えるだろう。

Sunday, November 19, 2006

(書評)『ヒルズ黙示録~検証・ライブドア~』(大鹿靖明、朝日新聞社)

『ヒルズ黙示録~検証・ライブドア~』(大鹿靖明、朝日新聞社)の続編。

前回、私は村上世彰氏をユニークな必要悪と評し、ホリエモンの側近、宮内亮治を「堀江を凌ぐカリスマ」と評したが、評価を変更する。

村上氏は日本の産業構造の硬直性を批判し、「モノ言う株主」として株主軽視の会社経営のあり方に一石投じるために村上ファンドを設立したはずである。いわば、株主の声を経営に反映させ活用するあたらしいコーポレート・ガバナンスを志してきた。

ところが、ファンドの出資者に収益性の低さを指摘された村上氏は豹変し、ただの金儲けだけが主眼のアービトラジャー、理念なき金の亡者に変節してしまう。

宮内氏はフジとの裁判にかち、莫大な利益を得たとき「やったぜ、フジをかつあげしてやったぜ」と言ったという。また、投資事業組合をつくり会社の金でフェラーリを買う。
これでは、志も品格ももたないただのチンピラである。

この本の中で最も考えさせられたのは、

「いわゆる事前規制型社会から事後チェック型社会の移行にともない司法の在り方が変化した」

ことである。

今回のライブドア事件は、大鶴特捜部長が「額に汗して働く人、リストラされ働けない人、違反すれば儲かるとわかっていても法律を遵守している企業の人たちが憤慨するような事案を万難排して摘発したい」という掛け声の下おこなわれた。

司法は、ライブドアおよび村上ファンドが日本の人々の規範意識に与える影響を重大視し、ライブドアおよび村上ファンドの法律違反が重大か否かを明確に捜査せずに、先にアドバルーンを打ち上げた。

司法は日本社会のモラルに悪影響を与えている存在に対して、まず悪のレッテルを張り、それから法律違反がないか捜査し立件するという方式に変わった。

ドイツの法学者イエーリングは「法は倫理の最低限」という言葉を残したが、司法は法の範疇を超えるモラルの領域にまで触手を伸ばすようになった。

最後に気になったのは、堀江氏の弁護人高井氏の言葉である。

「大きな悪を摘発するために小さな悪を見逃すのなら捜査方法としてありうると思う。しかし、今回は横領や背任といった証券取引法違反より大きな犯罪を意図的に見逃してるとしか思えない」

考えてみれば、堀江氏が立件されたのは①自社株の売却益を売上高に計上したことと、②風説の流布によるものである。

しかしながら、当初国民の関心を最も集めた香港の投資事業組合を使った資金の経路および使途について検察はつまびやかにしていない。

また沖縄で怪死した野口氏は当時副社長として君臨した会社の投資事業組合で一連のマネーロンダリングをおこない、主要窓口になったゲインウエル証券も彼が所属した会社の子会社である。

しかしながら、検察は野口氏が組成した投資事業組合の関係者を告発しないのも不思議であるし、野口氏の所属した会社が当時副社長であった野口氏が別会社であるライブドアの利益追求に手を貸してきたことについて背任の責任追及をしない。

このあたりに捜査の大きな壁が存在するようである。

日本の検察は国際的な壁を越えられるか、水面下での攻防が再び始まっている気配がする。

驟雨の時

日がふりそそぐ縁側で一人、ダルマ落としをして遊んでいると兄が庭からやってきた。いつになく機嫌のよい兄が、
「タダシ、面白いものみつけたぞ。ちょっとこいよ」
と手招きした。

入り口の黒い門扉に通じる小路の木造の塀をゆびさすと、
「見てみろよ」
見上げてみると、茶色い巾着袋のようなものが塀に張り付いていた。

「なに?これ」
「カマキリの卵だよ」
「近くでみていい?」
「うん。いいよ」

私は木造の塀の石垣の上にあがると、間近でその巾着袋のような物体をみた。
「おい!! 絶対触るなよ。そこから大量のカマキリの赤ちゃんが出てくるんだから」
「こんなちっちゃい袋から、本当にカマキリが出てくるの?」
「昆虫図鑑に載ってるよ。ちょっと来な」

兄の部屋に入ると、兄は昆虫図鑑の該当ページを開いた。
すると図鑑の中のページいっぱいに、巾着袋を破って透明で小さなカマキリが大量にでてくる光景が写真に写っていた。
「わあ、すごい」
兄から図鑑を借りると、私は暫くのあいだじっと写真を見つめていた。あまりにも長いので、兄が、
「ハイ。もうお終い」
といって図鑑を私の手から奪った。


しばらくして困った事が起こった。
父が木造の塀のペンキがはげてきたので、ペンキ屋さんに頼んで塀を塗りなおしてもらうというのだ。

私が、
「カマキリの卵、カマキリの卵があるよ」
と言うと、母も
「あなた。せめてカマキリが孵化するまで待ってあげてくれない?」
と同調したが、父は意に介さず、
「ペンキ屋さんにもう頼んじゃったんだよ。いまさら日を変えてくれなんてペンキ屋さんに失礼じゃないか」
と言った。

そして、ペンキ屋さんによる塀の塗り替え作業が敢行された。
茶色い巾着袋のようなカマキリの卵は、黒いペンキでむらなく塗りつぶされた。

それでも私は小路を通るたびに、黒いペンキで塗られたカマキリの卵を見上げつづけた。

いつか透明なカマキリの子供がザーッとなだれでてくる日を祈って。


(お知らせ) 
 当作品は同題名で「同志社文学35」(1993年11月発行)に掲載されました。この後の続きがあるのですが、ブルジョアがブルジョアに帰る、という筋書きなので当ブログで公表したくありません。何卒、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

驟雨の時

 カミツ君という私と同じ幼稚園に通う子供たちと遊び始めたのは、いつの頃からだっただろうか。

彼らは道路に面した入り口の扉を開けて、玉砂利の敷かれた石畳を走り抜けて、二つ目の扉から顔をのぞかせて、
「おばちゃん、タダシ君いる?」
と、尋ねてくるのだ。
おそらく、おばあさんがカミツ君たちと遊ぶなと言うのも、カミツ君が建て付けの悪い長屋に住んでいることから来る偏見だったのだろう。

カミツ君たちとはよくうちの庭で穴掘りをしてコガネムシの幼虫を捕ったり、竹林の中のミノムシを捕って遊んだ。よく、さわ蟹を捕りにカミツ君一党とお堀のちかくまで遠征することもあった。そして、時々カミツ君の家に招かれることもあった。

その日はあいにく長屋の入り口にいる毛の白い大きな凶暴な犬が暴れくるっており、私はその入り口を通ることが出来なかった。
カミツ君は、
「いまだ!! チャンスだ!!」
としきりに私をけしかけてくれるのだが、私はその犬が恐ろしくて中に入ることが出来ない。するとカミツ君がちかくに落ちていたボロ切れの布をスペインの闘牛士よろしく縦横無尽にふりまわし、犬がひるんでいる間に奥にいけと言った。

私は時代劇の豪傑が敵の追っ手を一手に引き受けて、相棒を逃がしてやるシーンを想像し、彼の好意に感謝しつつ犬のかたわらを走り抜けた。

カミツ君の家は長屋の一番端っこにあった。屋外の物干し竿に絵柄入りのTシャツやシーツなど雑多なものが干されていた。入り口には三輪車が二台、それぞればらばらに放置されていた。

カミツ君は四人兄弟の長男で、家にあげてもらうと三人の弟や妹が醤油や泥んこ遊びで汚れたTシャツを着て元気に走りまわっていた。薄暗い部屋の中のテレビが純色のアニメーションを映し出していた。

昼食時になり帰ろうとすると、カミツ君の弟や妹が手を引っ張って、
「ウチで食べてきなよ」
というので、自分より幼い子供に甘えられるというのも初めての経験で嬉しかったので、その好意に甘えることにした。

大きなメロンパンにかぶりついていると、昼時なのに帰ってこない事を心配して様子を見にきた母にその光景を見つかった。
母は、
「まあ、まあ、大きいパンを食べていること」
と喜ぶと、カミツ君のお母さんに、
「いいんですか?昼食までご馳走になって」
とお礼を言いと、カミツ君のお母さんも、
「いいんですよ。気にしないで下さい」
といって世間話を始めた。

驟雨の時

私たち家族は東京から来たので、尾道の人には物珍しかったらしい。

兄は中学校の全校集会の朝礼で、転校の挨拶をした際、
「東京都武蔵野市の本宿中学校から来ました・・・・・」
と言った途端、体育館の中から静かなどよめきがあがった、と言って帰ってきた。
今にして思えば、当時、黒いロイド眼鏡をかけ、始終しかめっ面をしているような兄にとってさぞ迷惑な事だったろう。

母も近所の米屋に買い物に行ったら、
「奥さん。東京から来たんですってね。こんな田舎やおもうたん違いますか。はよう旦那さんの都落ちがとけるといいねえ」
と言われたそうだ。
本当のところは、父は左遷された訳ではなく、本店の業務課長の職をおえ、公庫のお決まりのコースである地方支店巡業の旅に出る、ふり出しの地点にきたというのが真相なのだが。

アルバムを開いて当時の写真を何葉か見てみると、私は眼の瞳が大きく、幾分さびしげで憂いを含んだ表情をしている。特に可愛いとも思えないし、幾分影のある子供に見える。十一ヶ月経過しても言葉を発しなかったので、この子はしゃべることができない子供なのではないかと、随分母を心配させたらしい。

外に出るといつも「まあ、なんて大きい眼をした坊ちゃんなんでしょう。ビー玉みたいな」と言われた。奥様連中が集まると、あまりにも何度も私の眼のことが話題になるので、こちらはうんざりして、
「タダシ君の眼は何の眼?」
と問われると、
「ビー玉の眼」
と答えてみせて、奥様連中をワッと笑わせたこともあった。

東京にいた頃も、見ず知らずのおばさんに道で捕まって、
「なんて可愛らしい坊ちゃんなんでしょう。まあなんて綺麗な眼をしているんでしょう。宝石のような眼だわ」
と言われて、挙句の果てには写真でも撮ろうかという話になって、近くにある木の切り株の上に登らされて、万歳のポーズで写真を撮られたことがある。

母は30の後半になって産まれた私を溺愛し、買い物をするときはいつもアクセサリーのように連れて歩いた。
それでいて近所の人に、
「あら、奥さん。また坊ちゃんとお出掛けですか」
とからかわれると、
「うちのおちびちゃんが、外に連れてってくれとせがむものですから」
と言うのだ。そういう母を私は無言ながらも少し口元をゆがめてみて抗議の意を表してみたものだ。

その大きな眼のことが幸いしてか、社宅の裏の駅前で薬局を開いているおばあさんにも可愛がられた。
昼食が終って、キューピー3分クッキングのテーマソングが流れはじめると、私はもう我慢できなくなって裏口から庭にとびだしてゆく。そのタイミングを見計らってか、おばあさんは必ずお菓子やキャンディーを用意していつも待ち構えていたのだ。

裏庭のブロック塀の隙間から、
「坊ちゃん、ちょっときな」
と呼んでは、お菓子やキャンディーを私に与えてくれた。時折、ただお菓子を与えるだけでは芸がないと思ったのか話をしてくれた。

「坊ちゃんのねぇ、昨日、家の花壇のある方の庭でイタチが歩いていたよ」
「イタチ? 本当」
「本当さ。花壇の隅をそーっと歩いてみせてはサッと姿を隠して」

毎日のように呼ばれるので、流石に嫌な気がしたが、お菓子をもらえるのだから仕方ないと我慢した。

だが、その心優しいおばあさんがしかめっ面をして言うことが一つあった。それは近所に住む、毎日のように遊びに来る子供たちと遊ぶなと言うことだった。

驟雨の時

東京と比べると尾道は古くひなびた町だった。

年中潮風が吹いているせいか、町の石垣は赤茶けており、自転車の後部座席で母の買い物が終るのを待ちながら、なにか町全体がセピア色しているような印象を持ったものである。国鉄の列車がゴトンゴトン、動き出す音が物淋しく聞こえた。

尾道は漁港になるだけあって、山が海にちかく山の稜線は屏風のようになだらかに続いている。そのせいで勾配が急でのぼるのに一苦労する坂がおおい。港付近には漁師とその関係者が集まり、昼間は主婦や子供の姿があるばかりだった。

父が公庫から貸し与えられた社宅は市街地から少し離れたところにあった。社宅の近くに堀があり、堀を流れる小さな川に掛るひと一人しか通れないような狭い橋を渡って、入り組んだ細い道をしばらく歩くと社宅にたどりつく。

社宅は奥まったところにあり、道路に面した入口の黒い門扉をあけてさらに5・6メートル玉砂利の敷かれた石畳を歩いて、もう一つの扉をあけて、竹林の中をしばらく歩くと、やっと枝折戸ごしに芝生の庭が視界に入るような構造になっていた。

その社宅の道路側の敷地に食い込んでいるのは、電電公社の局長さんの社宅で、私はその頃電電公社がどんなものかも知らないのに、
「局長さんの家。僕のうちは局長さんの家の隣です」
とつたない口調で言っていたらしい。

 道の向かいの家は高い石垣の上に建っており、その家の瓦葺きの立派な門にたどり着くにはかなり長い階段を上っていかなければならなかった。僕は子供心に中国の神仙のような人がこの石垣の上に住んでいるのだろうと想像していた。実際、二人の子供は尾道を離れ、今は老夫婦が二人つつましく住んでいるとのことだった。

驟雨の時

ジリジリと照り付ける灼熱の太陽。白光りしてはるか彼方までそびえる石の階段。その階段のはてに白い入道雲がわきあがり、時折青い空がのぞいてみえる。

ロイド眼鏡をかけた中学生の兄とその友人のブーちゃんと呼ばれていた小林さん、そして虫捕り網を持った幼稚園児の私がゆっくりゆっくりと登ってゆく。天から降り注ぐような間断のない油蝉のジージーという鳴き声が降り注ぎ、階段の途上の杉にたかる白い斑点と黒い胴体を持つハンミョウムシの金属色の光沢が不気味にギラリと光る。

ハンミョウムシを捕まえようと、そおっと虫取り網を構えると兄から、
「コラッ。余計なことするな」
という叱責の声がとぶ。

これが尾道という街の名を聞いて、私が最初に思い浮かべるイメージである。

国民金融公庫に勤めていた父が東京から尾道へ転勤となったのは、私がようやく幼稚園に通いだした頃だった。

驟雨の時

夕暮れ雨が降ってきた。

雨が降ると不思議なことに、遠く海から離れた高台の家に海峡を行き交う汽船の鋭く物悲げな音色がしきりと聞こえてくるのだ。

私は読書を中断し眼鏡を外すと、汽笛の音にさそわれるように、白いカーテンを開けてヴェランダに出てみた。すると、さっきまで見えていた淡路島の島影はかき消え、雨に煙る海峡の中にうかぶ汽船の明かりが幾つもほのかにうかびあがっているのが見えた。

急な夕立に海辺の市街地は灰色にくすんだ。

屋根に打ちつける雨音が次第に強くなり、やがて私の顔面までもくちゃくちゃに濡らすようになってきたので、いったん部屋の中に戻り、出窓をのぞいてみると、隣家の柳の枝も突然の夕立になす術もなく枝垂れていた。

私は子供の頃、汽笛の音が好きだった。

汽笛の音を聞くといつも屈強な海の男たちが「おーい、俺たちもやっているぞー。お前たちも元気でやっているかー」というエールを送ってくれているように思われたのである。
たとえその音が昼間に鳴ろうと、夜中に鳴ろうと、わずらわしく聞こえたことは一度もない。それは船男の勇敢な息吹をつたえ、繊細で虚弱な私のこころを鼓舞する合図であったとともに、私と船男を結ぶ心地よいコミュニケーションであったのだ。

そして今ではその音に郷愁を感じる。

私は幼年時代、日本有数の漁港のある尾道で暮らしたことがある。その時の淡い記憶が蘇えってくるのを感じた。