Tuesday, November 23, 2010

『熊野集』 (中上健次著:講談社文芸文庫)

文芸評論家の小谷野敦氏によれば、文壇において十年ごとに登場する新しい流派に対する命名は微かに命脈を保っており、昭和五十年代に台頭した中上健次、村上龍、三田誠広は「内向の世代」(古井由吉、黒井千次、高井有一、小川国夫、阿部昭、後藤明生、大庭みな子、富岡多恵子など。いわば政治に関心を持たず自己の内部に向かっている文学)につづく「青の世代」と呼ばれていたらしい。(*1)


 この「内向の世代」は古井由吉に代表される(石川達三は古井の作品「杳子」を読んで「目標喪失の文学」を書き銓衡委員を退いた)「物語の解体」と呼ばれる手法で自己の世界を描いている。 


「物語の解体」とは小説の物語性を拒否し、近代の世界を一つの仕組みとしてながめる発想を避け、主人公の身体の生理と一つになった言葉で目にみえるもの、聞こえるものをなぞってゆき、同時代を生きる小説家の身体や生活の実感、社会の空気を表現する手法で作品を描いてゆく手法である。(*2)


 私が久々に中上氏の作品を手に取ったのは、肉体的な躍動感や雄々しさ、生きるうえで必要な野性味を求めていたからに他ならない。中上氏の言葉を借りれば「切って血の出る物語」、何か現実味の感じられない世界と対極にある極限状態においつめられた人間の生命の呼吸のようなものを味わいたかったからかもしれない。


「暗闇の中での跳躍」。一つ一つの作品に中上氏の移動、ジグザグ試行、揺れ、跳躍があり、その世界が予定調和的でない世界(*3)。泉鏡花を思わせる文体に自らの雄々しい文体を駆使して自己の世界を描く、近年の作家にはみられない肉体をかけた文学、作風は粗いのですが、生理的な欲求から読まされてしまいます。また、幽玄といって良いのでしょうか、死の淵に立つからこそ新鮮に映えてみえる自然の美しさの描写に驚きを覚えます。



(参考文献:(*1)『現代文学論争』(小谷野敦著:筑摩書房)、(*2)『日本文化の源流を求めて2』から「小説の困難と可能性」高村薫、(立命館大学文学部著:文理閣)、(*3)『坂口安吾と中上健次』(柄谷行人著:講談社文芸文庫)



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Sunday, November 07, 2010

『日蝕』(平野啓一郎著:新潮文庫)

 本書の紹介文は以下の通りである。


「現代が喪失した「聖性」に文学はどこまで肉薄できるのか。舞台は異端信仰の嵐が吹き荒れる十五世紀末フランス。賢者の石の創生を目指す錬金術師との出会いが、神学僧を異界に導く。洞窟に潜む両性具有者、魔女焚刑の只中に生じた秘蹟、めくるめく霊肉一致の瞬間。華麗な文体と壮大な文学的探求で「三島由紀夫の再来」と評され、芥川賞を史上最年少で獲得した記念碑的デビュー作品。」


平野啓一郎氏の作品は初めてだが、読み終えて、ともかく1999年(平成十一年)以降の十二年後くらいの「世界の腐敗と堕落」を予見した出色の作品という印象を受けた。


 内容の検証にはミシェル・フーコーの「性の歴史(知への意志)」と「世界宗教史」を読みこなさないと不可能かなとも思った。十五世紀末のフランスを舞台にしながら、擬古文調でさらに漢字を彫琢したところがこの作品の奥行きの深さを感じさせる要因になっているのではないか。


勿論、ある評者のいうように「人間は理解不能な神秘への憧れを止められない」ということを敢えて難解な表現でしるしたかった、という欲求もあるかもしれないが、私は平野氏がキリスト教グノーシス派を採りあげたことを彼の文学的な意志表明として注目したい。


話は変わるが、経済的な飽和状態ならびに物質的な発明の行き詰まりを人々が感じる現在、人びとは内面的(=精神的)充足を求めて西田哲学における精神的鉱脈、西田哲学における「純粋経験」の再評価が行われているらしいのである。


西田哲学を身近な例でいえば、読書において作家の秘めたる意図あるいは難解な描写の情景が読者にとどき理解されたときに感じる純粋な感動、それは個人的であり、かつ生々しく簡単には言葉で言い表せない純粋な塊ではなかろうか。西田哲学においてはこの大きな塊が如何に人間の言語、非言語として取捨選択され再生産されてゆくかの意識の過程をも追求してゆく学問である。


平野氏がモチーフを現代社会ではなく、十五世紀のフランスおよびグノーシス派に依るのは、この宗派の「厳密な意味でのではなく、当時、広範囲に流布していた神話や思想や神観念に対する、大胆で、奇妙なほど悲観的な再解釈なのである」。「(前略)ついには肉体の牢獄から解放されるであろうことを学ぶのである。要するに彼は、誕生は物質への堕落にひとしいが「再生」は純粋に霊的なものになることを発見するのである」。「世界は偶発的なできごとや災難の結果生じたものであり、無知に支配され、邪悪な力によって統治されていると考えているため(中略)規範と制度のすべてを拒絶する。彼らは霊知によって獲得された内面的な自由の力によって思うままにふるまい、望みどおりに行為することができるのである」といった性質にあると考える。


つまり、私は彼が言語的に不可知な領域へおも踏み込む表現上の決意表明のために、もっともそれに適した教えであったグノーシス派を選択したのではないかと思うのである。もっとも本人曰く「(歴史的な軸で眺めると)逆に今っていう時代がどういう流れのなかに位置付けられているかもわかる」そうだ。 つまり享楽的な時代に生きる節操のない朋輩たちに対して、復古主義、現代に生きる人の聖なるもの、つまり自らの志操とは何か、を強烈に問いかけた作品であると思う。また、社会とは自己と他人の領域の交差点である。「自己の領分」を明確に位置づけておかないと後に自らの志向性と異なった領域への逸脱や侵犯を起こしたり受けたりして、それこそ収拾のつかない事態に陥る、という警鐘であると考える。



(参考文献:『世界宗教史』(ミルチア・エリアーデ著:ちくま文芸文庫)



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Monday, November 01, 2010

謝 辞

過日、直木賞設定について偉そうなことを述べましたが、私の知識は直木賞設定の初期のものだけでして、今回、五木寛之著の「僕の出会った作家と作品」を読んで本格的に直木賞作家の作品を読んだことがあるか、といえば皆無に等しいと自覚しました。


 また、私は好きな作家の全作品を通読したことがあるのか、と問われれば、残念ながら歴史・推理小説作家以外は読んだことがありません。今回新進作家の方の数の多さ、作品数の多さを見るにつけ、話題がなくなったと思っておりました文学の世界も随分才能のある人がいるのだ、とわかりました。結論としては、賞をとるも作家としての地位を得るも、作家自身の自己の作風に対する強い執念にあると考えました。


私のような素養のない者が差し出がましく、感想文めいたものを発表してきたことに罪悪感を感じ、また批評家ならびに作家の方の仕事にご迷惑をおかけしておりましたらお詫び申し上げます。


当書評のなかで図書館で是非読んでいただきたいのは、1983年(昭和58年)11月「小説現代新人賞 第41回」の「該当者なし」に書かれた、「軽薄短小を排す」という銓評です。


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「軽薄短小を排す」



(前略)投げ銭目あての大道芸とて、その陰には人に言えない血の涙が流されているはずだ。その苦しみを観客に気取られることなく、はた目に遊びと見える芸こそ、プロのスピリットなのではあるまいか。


こんな文句を選評の場で書きつらねるのも年とって小うるさくなっただけのことなく、最近じつに安易な遊び半分のアマチュア小説を読まされている事に閉口しているせいである。


なにもアマチュアリズムを否定しているわけではなく、たとえ新人賞への応募作品であっても、そこにプロをもひしぐ面構えと気組みがあってしかるべきだと思うのだ。



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