Sunday, November 07, 2010

『日蝕』(平野啓一郎著:新潮文庫)

 本書の紹介文は以下の通りである。


「現代が喪失した「聖性」に文学はどこまで肉薄できるのか。舞台は異端信仰の嵐が吹き荒れる十五世紀末フランス。賢者の石の創生を目指す錬金術師との出会いが、神学僧を異界に導く。洞窟に潜む両性具有者、魔女焚刑の只中に生じた秘蹟、めくるめく霊肉一致の瞬間。華麗な文体と壮大な文学的探求で「三島由紀夫の再来」と評され、芥川賞を史上最年少で獲得した記念碑的デビュー作品。」


平野啓一郎氏の作品は初めてだが、読み終えて、ともかく1999年(平成十一年)以降の十二年後くらいの「世界の腐敗と堕落」を予見した出色の作品という印象を受けた。


 内容の検証にはミシェル・フーコーの「性の歴史(知への意志)」と「世界宗教史」を読みこなさないと不可能かなとも思った。十五世紀末のフランスを舞台にしながら、擬古文調でさらに漢字を彫琢したところがこの作品の奥行きの深さを感じさせる要因になっているのではないか。


勿論、ある評者のいうように「人間は理解不能な神秘への憧れを止められない」ということを敢えて難解な表現でしるしたかった、という欲求もあるかもしれないが、私は平野氏がキリスト教グノーシス派を採りあげたことを彼の文学的な意志表明として注目したい。


話は変わるが、経済的な飽和状態ならびに物質的な発明の行き詰まりを人々が感じる現在、人びとは内面的(=精神的)充足を求めて西田哲学における精神的鉱脈、西田哲学における「純粋経験」の再評価が行われているらしいのである。


西田哲学を身近な例でいえば、読書において作家の秘めたる意図あるいは難解な描写の情景が読者にとどき理解されたときに感じる純粋な感動、それは個人的であり、かつ生々しく簡単には言葉で言い表せない純粋な塊ではなかろうか。西田哲学においてはこの大きな塊が如何に人間の言語、非言語として取捨選択され再生産されてゆくかの意識の過程をも追求してゆく学問である。


平野氏がモチーフを現代社会ではなく、十五世紀のフランスおよびグノーシス派に依るのは、この宗派の「厳密な意味でのではなく、当時、広範囲に流布していた神話や思想や神観念に対する、大胆で、奇妙なほど悲観的な再解釈なのである」。「(前略)ついには肉体の牢獄から解放されるであろうことを学ぶのである。要するに彼は、誕生は物質への堕落にひとしいが「再生」は純粋に霊的なものになることを発見するのである」。「世界は偶発的なできごとや災難の結果生じたものであり、無知に支配され、邪悪な力によって統治されていると考えているため(中略)規範と制度のすべてを拒絶する。彼らは霊知によって獲得された内面的な自由の力によって思うままにふるまい、望みどおりに行為することができるのである」といった性質にあると考える。


つまり、私は彼が言語的に不可知な領域へおも踏み込む表現上の決意表明のために、もっともそれに適した教えであったグノーシス派を選択したのではないかと思うのである。もっとも本人曰く「(歴史的な軸で眺めると)逆に今っていう時代がどういう流れのなかに位置付けられているかもわかる」そうだ。 つまり享楽的な時代に生きる節操のない朋輩たちに対して、復古主義、現代に生きる人の聖なるもの、つまり自らの志操とは何か、を強烈に問いかけた作品であると思う。また、社会とは自己と他人の領域の交差点である。「自己の領分」を明確に位置づけておかないと後に自らの志向性と異なった領域への逸脱や侵犯を起こしたり受けたりして、それこそ収拾のつかない事態に陥る、という警鐘であると考える。



(参考文献:『世界宗教史』(ミルチア・エリアーデ著:ちくま文芸文庫)



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