Tuesday, November 24, 2009

『「新しい人」の方へ』(大江健三郎著:朝日新聞社)

 とかく文学少年というと厄介な存在である。


 私のイメージのなかでの文学少年は、普段は憶病でおとなしくしており、眼の前で起こっていることに対して関心をしめしているのかいないのか判じかねるところがあります。しかしながら、文章を書かかせてしまうときちんとした論理で克明とはいえないまでも事態を一つの話題として形成する能力をもっており、その上地域のなかで処理したい禁忌めいたはなしも自己の哲学であきらかにしてしまう。いわば油断ならない厄介ものとみられがちである。



 そんな“厄介な変わり者”だった大江氏が作家になり、家族関係からも解放された後に回顧する随筆めいた小説十五篇。


 「電池ぐれで」は、戦後占領軍に占拠された寒村の村の小学校で起こった「理科室ボヤ騒ぎ」というエッセイをめぐる“となり村にすむ年上の理科系の少年”からの抗議の手紙からはじまる半世紀ぶりの対話、当時の記憶の修正、その時代の回顧。



 「意地悪のエネルギー」は、いわゆる年上の女性徒による“いじめ”。中学生だった筆者の雑誌に掲載された「詩」をめぐる、二歳離れた姉の友人たちからうけた青少時に特有なカラカイ。ああいった意地悪さって所謂「怨望」じゃないのかなあ、という筆者の回想。


 「知識人になる夢」は、高校時代にフランス文学者の渡辺一夫先生の本を読んで“知識人”になる覚悟をした筆者にあびせられる家族からの“一般的な知識人になる”ことを想定しての反対の声、その時自分なりに思い描いた“知識人”の像、そして今現在「読書人」として生きている自分が“経験を文章で共有できている”という歓び。




 この作品は、誰もが青年期にもちそうな感情を、大江氏固有の感傷や時代背景をただよわせながら非時系列的に、さまざまな利害関係者を傷つけないように綴っておられます。このうねりにうねった文章を読者がたどってゆくと後は、煙のような心地よさだけが残ります。



(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

Saturday, September 19, 2009

「雁と胡椒」(埴谷雄高著:未来社)

 戦後の焼け跡のなかから、本多秋五氏、荒正人氏、平野謙氏らとともに「近代文学」を創設した埴谷雄高氏の透明感あふれる随筆集。


 武田泰淳氏の作品に対する論評が素晴らしいのですが、戦時中に陸軍参謀本部跡にある情報局検閲官としていかがわしい学生同人誌に対しても紳士的かつ人道的な姿勢を保つつづけたというエピソード(安岡章太郎氏談)のある平野謙氏にまつわる随筆を引用してみました。




敏感な直覚者


この一年半ばかりのあいだに、武田泰淳、竹内好、そして、平野謙と最も親しい友達をつづけて永劫の国へ送り出すことになって、遠からずひきつづいて夜明けもないそこを訪れることになる私達は、その何処かに永劫に話しあえる場所でもあらかじめつくっておいてもらうより仕方がないのである。

 嘗て、『「近代文学」創刊まで』という文章で、私はこう書いたことがある。
「『近代文学』の発足後半年ほどたったとき、皆で熱海へ旅行したことがあるが、そのとき、宮本百合子に触れた平野謙の文章がきっかけになって、各人の性格を時代別に規定したことがある。各人の特徴はお互い解っているので、論議もなく忽ち決定したのが、次のようであった。古代人―本多秋五、中世人―平野謙、現代人―荒正人、未来人―埴谷雄高。

これなお注釈すると、古代人には動かざること山のごとき男性的要素が含まれていて、しかもその男性的態度は古武士的、家父長的である。中世人はこれに対照的で、女々しく、優柔不断で、絶えず動揺しながら末世からの離脱を希求している。現代人は極めて合理的でスピードを愛し、未来人はそのビックリ箱から何が現出してくるかとうてい解らぬといった具合である。

それはよくこれほど異えられたといえるような組合せで、しかも、それが、全体としてうまく作用していた。つまり、私達の車輪の輪廻は、本多秋五の決して磨滅することもなく狂いもせぬ堅実無比の軸と、荒正人のあれよあれよとはたものが吹き倒れるような突風と爆音をともなったジェット・エンジン的推進力と、平野謙の絶えず往きつ戻りするペシミスティクなブレーキとの組合せによって、ちょうど適当と思われる経済速度と均衡と方向をもち得たのであった。

この最後の平野謙のペシミスティクなブレーキが運営に役立つというのは、一見、奇妙なことに思われる。女性のようにこまかなことに気がつき、予見し、悶え、そして力及ばすと観念し・・・・・そして、そして、ついに消極的な物自体として化して何もしなくなってしまう平野謙が、全体としてみて、前進に役立っているということは、たしかに奇怪なことのように思われる。だが、絶えず足踏みしてブレーキをかけ、面倒なことを彼ひとりで起こしているように見えるすべてが、想いかえしてみると、誰も感じないときに、いち早く鳴りはじめるベルの信号の敏感さをもっているのであって、殊に『近代文学』の初期には彼の動揺性そのものが却ってある種の清潔な時代への先行性をもたらしめたのである・・・・・・。」(中略)その「ものぐさ」同人の彼がつねにいち早く困難な事態を、いわばトロイのカッサンドラのごとく、予見したのである。




回想の平野謙
 

埴谷雄高です。(中略)平野君は、明治・大正・昭和と自分の生身で実感できる時代の文学だけを扱いました。分際をわきまえる、とか、柄にもないことはしない、と彼はつねにいいました。自分にわからない世界には決して深くは入らない、それが平野謙の一貫した姿勢でありました。もちろん明治以降は、ヨーロッパ文化の輸入の時代でありますから、吾国のなかには、西欧的な多くのものがいわばひしめきあって入っております。けれども、平野君は、西欧的な観念も、イデオロギーも、そのままでは決して受けいれも信じもしなかったのでした。

 日本人の心と身体のなかに入ってきたところのヒューマニズムとかマルクシズムにせよ、日本で取った形、取らざるを得なかった形、日本人の心と身体のなかにおける独特の受け取り方、そういう屈折と陰翳なしには、平野君はそれらに触れ、それらを表現するということは、はじめからおわりまでしませんでした。そうした平野君の精神の姿勢からすると、後年問題になりました、外国文学を勉強している若い助教授達の直輸入的文学理論が、気にいらぬことろの表現、「若い批評家ばら」という言葉が出てくることにも必然さがあります。できあいの観念で人間を裁けない、これが平野君の終生の信念でありました。

 中世、古代の文学にも関わりをもたない、これも一貫しておりました。自分がこの生身の実感としてわかることだけをひたすら追求しつづけたのでした。
 



(引用抜粋:「雁と胡椒」 埴谷雄高著著:未来社)



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Monday, August 03, 2009

「明治草創啓蒙と反乱」(植手通有著:社会評論社) 啓蒙の精神 第一部 明六社の人々 

■ 福沢諭吉

 試しにその実証を挙げて云わん。方今、世の洋学者流は、おおむね皆官途に就き、私に事をなす者はわずかに指を屈するに足らず。けだしその官にあるは、だた利を貪るのためにあらず、生来の教育に先入して、ひたすら政府に眼を着し、政府にあらざれば決して事をなすべからざるものと思い、これに依頼して、宿昔青雲の志を遂げんと欲するのみ。あるいは世に名望ある大家先生といえども、この範囲を脱するを得ず。その職業、あるいは賤しむべきに似たるも、その意は深く咎むるに足らず。けだし意の悪しきにあらず、ただ世間の気風に酔いて、みずから知らざるなり。名望を得たる士君子にしてかくのごとし。天下の人、豈にその風に佼わざるを得んや。青年の書生、わずかに数巻の書を読めば、すなわち官途に志し、有志の町人、わずかに数百の元金あれば、すなわち官の名を仮りて商売を行わんと、学校も官許なり、牧牛も官許、養蚕も官許、およそ民間の事業、十に七、八は官の関せざるものなし。ここをもって、世の人心ますますその風に靡き、官を慕い官を頼み、官を恐れ官に諂い、毫も独立の丹心を発露する者なくして、その醜体、見るに忍びざることなり。
 

丹心:まごころ、赤心
忌諱:忌み嫌うこと



■ 中村正直

 余この書を訳すや、客の過ぎりて問う者あり。いわく、子なんぞ兵書を訳さざるやと。余いわく、子、兵強ければ、すなわち国頼以て治安なりと謂うか。かつ西国の強さは兵に由ると謂うか。これ大いに然らず。それ西国の強さは、人民の篤く天道を信ずるに由る。人民に自主の権あるに由る。政寛やかに法公けなるに由る。ナポレオン、戦を論じていわく、徳行の力は、身体の力に十倍すと。スマイルズいわく、国の強弱は、人民の品行に関かると。またいわく、真実良善は品行の本なりと。

 独り怪しむ、教法に至りてはすなわち頑然としてなお二百年前の陳腐の国禁を株守し、目するに邪教をもってし、冥然として覚らず、牢として破るべからざるものは、そも何のゆえぞや。陛下すなわちまさに曰わんとす。ただそれ邪なり、故に禁ぜざるをえずと。しからばすなわち陛下何に由ってそのはたして邪なるを知るや。およそ物試みざればこれを知ることあたわず。貴国かつて西国を目して夷狄ならざるを知り、しこうして膺懲の論息む。


膺懲:外敵を討伐する



■ 加藤弘之

 仏国のモンテスキウと云える大学者の語に、「自由はドイツの森林中より芽生えせり(ビーデルマンの説に、「自由は実にドイツの森林中より芽生えしかども、その始めて実を結びしは実に英国なりと云えり」)と云いしがごとく、自由の権はまったくドイツの未だ開化に向かわざりし世に起りしものなり。

 自由権の種類許多なりといえども、前段挙ぐるところの諸権のごときはもと天賦にして、この権なければ絶えて安寧幸福を求むるあたわざるものなれば、この権はあえて他より奪うものにあらず。もし他よりこれを奪うときは、すなわちその安寧幸福をも併せてこれを奪うものと云うべし。これゆえに人民あれば必ずこの自由権あるはもとより当然のことなり。しかるに開化未全の国においては君主政府ややもすれば暴権をもって天賦の自由権すらなおこれを奪い、もって君主政府の臣僕・奴隷となす。人民の不幸まことに歎ずべきなり。


■ 津田真道、福沢諭吉、森有礼、加藤弘之

 道の未だ明らかならざるや、強は弱を圧し智は愚を欺き、そのはなはだしきはこれをもって業としこれをもって快としかつ楽を楽しむ者あるに至る。これすなわち蛮俗の常にしてことにその見るに忍びざるものは夫たる者のその妻を虐使するの状なり。
 我が邦俗いやしくも夫婦の交義その間に行わるあるにあらずして、その実その夫たる者はほとんど奴隷もちの主人にて、その妻たる者はあたかも売身の奴隷に異ならず。夫の令するところはあえてその理非を問うことをえず、だた命これ従うもって妻の職分とす。
ゆえに旦暮奔走従事心両らがら夫の使役に供しほとんど生霊なき者のごとくす。しかるに夫の意に充たざるがごとき、すなわち叱咤欧撃、漫罵蹴蹈、その所為実に言うに忍びざるもの間々多し。女子は忍耐を性とするにより、悖逆かくのごときも未だもって深く怨を懐くに至らず。

 噫女子の職分それかくのごとく難しくしてその責任またそれかくのごとし重し。しかるに世俗女子をもって男子の遊具となし、酒に色に国紘に歌に放逸不省もって快楽を得ることなし、もしこれを共にせざれば相歯せざるの情勢あり。外国人の我が国を目して地球上の一大淫乱国となすも虚謗にあらざるなり。(中略)三.双方の年齢婚姻に適したること、ただし男二十五歳未満、女二十歳未満なる時はその父母もしくは後見人の許状あるべし。(「妻妾論」森有礼)

 およそ弱き者を扶助する、豈に独り男子の婦人におけるのみならんや。政府の人民における父母の子女におけるまた弱きをもって扶助するなり。(政府の人民におけると父母の子女におけるとはその理もとより異なりといえども、しかるに人民各々みずから保護するの理と大異あることなし。)もし弱き者を扶助するにはやむをえず尊敬に類することもなさざるべからずとせば、政府は人民に上位を与えてみずから賤位を取り、父母は子女を上座につかしめて着かしめて己れ次座を占めざるべからず。しかるに西洋といえども決してこれらのことあらずして、(人民は主にして政府は人民のために存在する者なれば、本来の理においては人民上にありて政府下にあるべきがごとくなれども、政府は人民を保護するの大権を掌握せざるべからざるをもって必ず上位を占むるを要するなり。ゆえに共和政治の国といえども政府は必ず人民の上に位するなり。)(「夫婦同権の流幣論」加藤弘之)



旦暮:朝夕
叱咤欧撃:叱咤はしかりつけること、欧撃は殴る、打つ
漫罵蹴蹈:馬鹿にして罵る、蹴蹈は踏みつける
悖逆:道理や法度にたがいもとること
虚謗:あやまった非難



(要約抜粋:「明治草創啓蒙と反乱」(植手通有著:社会評論社)


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Friday, June 12, 2009

ノスタルジー大学生活(図書館篇)

 一九九ニ年(平成四年)、大学の図書館に入って驚いたのはその蔵書が未整備なことと、所謂(いわゆる)「第三の新人」の遠藤周作氏の評論集までもが既に発刊されていたことである。漠然と、この世代は亜流として評論家から無視されているものとひとり決め込んでいたので私にとっては驚きだった。



 恩師が「大学というところは、専攻は関係がない。自分の好きな事をやりなさい」と助言してくれ、かつ大学の講師が商学部を卒業してから文学部英文学科に再び学士入学したという奇妙な符合に喜んでいた時であったので、出鼻を挫かれたような不快な気分になった。



 当時の私の気分は加藤周一氏の随筆集等は、所詮(しょせん)私達の手の届かぬもの、せめてブルジョアと大衆の狭間にある作家の全集を読み込んで、何らかの評論が書けたら、という思いがあったので無念だった。当時の流行作家の村上春樹氏の作品は私の感覚では中間小説、現代新感覚派ともいうべきもので、こんなものを評価するのは亜流のなかの亜流、それこそ文学部の笑いの種になる題材であるので、私は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』以降、一切読まなかった。


 そこで海外の小説をということになったが、いきなり「20世紀の世界文学」(新潮社)という本が出回り、第二外国語で真剣に文法を覚え単位を取ろうとする。しかしががら、二年間文法の勉強をしたがモノにならない。教養科目は至極つまらないので、専門分野に的をしぼり専門学校に通う。四回生時、「社会関連会計」という「原価計算論」履修済で既存の固定概念で固まった頭では、本当に学問になるにならぬかわからない分野を生涯かけて追及しようか、とも思いましたが、諸先輩方あまりにも鋭い方が多いので馬鹿馬鹿しくなり諦めて社会に出ました。

Thursday, May 28, 2009

鬱病ニツポン   ― 引きこもり120万人の闇 ―(続)

一九九七年にガス会社を辞めたハルオは、その後三年間自分の部屋にこもり続けた。「雨戸を閉めて音楽を聴いていた」と、彼は言う。「昼か夜かもわからなかった」



もう一人の男性は、話し好きの二九歳。彼も社会とのかかわりを避けてきた。バスの運転免許を取得したが、バス会社の面接試験を受けに行く勇気がどうしても出ない。「履歴書にある五年間の空白を、どう説明すればいいかわからない」ためだ。


東京近郊の精神病院に通院するこの二人は「引きこもり」と呼ばれる日本特有の病に冒されている。まだ明確な定義はないが、一ニ〇万人の若者が苦しんでいるという推定もある。その七割は男性だ。




10年以上のケースが8%


彼らは人前に出るのを怖がり、妄想に悩まされる。太陽の光を嫌い、強い不安に襲われる。そして社会との間に壁をつくり、ひたすら部屋に閉じこもる。
「彼らは自分が醜く、臭いと思っている」と語るのは、千葉県船橋市の佐々木病院で引きこもりんの支援プログラムを主宰する斎藤環。「近所の人に見られていると思い込み、カーテンや黒い紙で窓を覆うようになる」


 急増しているとみられる引きこもりは、若者の病的な犯罪と結びつけられがちだ。孤独な若者による殺人事件が九〇年代半ばから相次いでいるため、そういう印象が生まれている。


だが、こうした見方は社会不安をあおり、引きこもりの本質を覆い隠すだけだ。この症状は今に始まったわけではなく、専門家の間では七〇年代に認識されていた。以来、引きこもり者はほとんど治療を講じられないまま増えてきた。多くの研究家が考えている。


青少年健康センターがニ〇〇一年五月に発表した調査によると、引きこもりを続けているケースが八%近くに及んでいる。


専門家の間にさまざまな見方があるにせよ、一致する点がい一つある。それは、事態が確実に悪化しているということだ。


日本の若者に最初に異変が見られたのは、七〇年代の学校だった。専門家はこぞって、急増する「登校拒否」に意味づけを与えようとした。


その一人が、著名な精神科医の稲村博(故人)。稲村は登校拒否を精神疾患ととらえ「アパシー(無気力)症候群」を提唱した。




支援プログラムで社会復帰


稲村の教え子だった斎藤は、今も稲村の研究を参考にしている。斎藤によれば、幼少時に心的外傷を負うと「大人になるのをやめ」、それが引きこもりにつながるという。


一方、引きこもり者を対象とした雑誌を発行する松田武己は、引きこもりは精神現象ではなく社会現象だと考えている。


引きこもりを生む元凶だと松田がみているのは、能率ばかりを重んじる日本のシステムだ。企業は若い社員に順応を求め、学校では目立つ子供(肥満、できる子、動作がのろい子など)がいじめにあう。「日本のさまざまな問題を一つの山に例えれば、引きこもりはその頂上にある」と、松田は言う。


斎藤が主宰する外来の支援プログラムでは、コミュニケーション能力の回復をめざすセッションを週二回行っている。家族向けのカウンセリングや、心理療法も実施。これまでの参加者の約30%が社会復帰を果たしたという。




経験の共有が最初の一歩に


プログラム参加者の多くは、不機嫌で無口、暴力を振るうことさえある。最近参加しはじめたニ〇前半の男性は「家中の壁を、こぶしでたたいて穴を開けた」様子を説明して、こう言った。「表を歩くときは、ポケットに手を突っ込むようにしていた。人を殺さないために」


別の男性は自分のことを「典型的なオタク」と称する。友達はプログラム参加者だけだしガールフレンンドは一生できないと思っている。インターネットに引きこもりをテーマにしたチャットルームが登場し、松田の雑誌にはたくさんの投書が届く。東京に住むニ九歳の男性は最近の投書で、「引きこもるようになって丸一年。絶望から逃れられない」と書いた。「借金の担保に、家が取られてしまうかもしれない。そのときは廃人になるだろう」


同じ思いの人とコミュニケーションをもつことが大切だと、松田は言う。「経験を共有できる場があり、彼らがお互いに話ができれば、それが最初の一歩になる。でも友人をつくるための薬は、この世には存在しない」


薬に代わるものはただ一つ、彼らが部屋から外へ踏み出すことかもしれない。





(出典:“Newsweek(ニューズ・ウイーク日本版)“(2001年9月5日号):ジョージ・ウェアフリッツ、高山秀子、デボラ・ホジソン:TBSブリタニカから抜粋)

Monday, May 25, 2009

鬱病ニツポン   ― 引きこもり120万人の闇 ―(正)

日本経済はこの十二年の間に循環し再び不況や雇用情勢の悪化が叫ばれるようになりました。幸い以前のように、新卒採用にともなう「就職超氷河期」と言われる事態は未だ聞こえてきませんが、一昔言われた所謂「五月病」の時期です。今回は8年前の話ですが、社会的病理として認知されだした「引きこもり」「ニート」に対する社会的認識を高めるために、当該記事を再掲いたします。


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  東京の夕暮れどき。帝国ホテルのラウンジは、スーツ姿のサラリーマンで一杯だった。


彼はその群れに、違和感なく溶け込んでいた。それもそのはず。三年前までは彼自身も自信にあふれ、誇らかに仕事に打ち込む企業戦士だったのだから。



だが日本経済の衰退は、彼の勤める会社を直撃した。十九九八年の秋ごろから、得体のしれない不安で「精神的に参り」はじめる。


最初は眠れなくなった。そのうちに電車が最寄り駅に近づくと、激しい疲労感に襲われるようになった。終点まで乗り過ごし、体調が悪いから休むと会社に電話を入れたことも一度ではない。


大手企業に勤める五〇代のこの男性は、匿名を条件に本誌に語った。「ロープを買いに行き、車のトランクに入れておいた。首をつりたくなった日のために」


幸い、その日はこなかった。勤務先の診療所の医師が、救いの言葉を投げかけてくれたからだ。「鬱病は治る」と。それから一年間、カウンセリングと抗鬱薬の治療を続けた。「ある朝、もうロープはいらないと気づいた。だから近所の池に投げ捨てた」


だが日本では、実際にロープを木にかける人も多い。あるいは傷ついた心をスーツの下に隠したまま勤務電車に身を投げるかだ。


八月初めに警視庁が発表した統計によると、昨年の自殺者は全国で三万十九五七人。三年連続で三万人を超えた。交通事故による死者の三倍にあたり、人口一〇万人当たりの自殺率はアメリカの約二倍にのぼる。


このうち男性が七一%。九〇年代後半から自殺が急増している背景には、不況の直撃を受けたサラリーマンがいる。昨年残された遺書のうち、三分の一近くが経済的苦境に触れていた。




お粗末な精神医学の現場


他の先進国なら、こうした状況に警鐘が鳴らされてもおかしくない。だが日本では、鬱病は弱さの証明とみなされる。なにしろ、自ら命を絶つことが侍の流儀とされた国だ。


訓練を受けた心理療法士も少なく、医師の大半は精神疾患を治癒できないか、したくないかのどちらかだ。患者も「まさか自分が」という思いも強く、初めから助けを求めようとはしない。


鬱病の実態調査さえ行われていない。心理学者の小田晋・筑波大学名誉教授が言うには、日本は「精神衛生問題の危機に直面している」。


とくに危機的状況にあるのが、鬱病に悩むサラリーマンだ。サラリーマンのストレスに詳しい関谷神経科クリニック(東京)の関谷透通院長は言う。「彼らは必死に働くうちに中年になり、リストラやレイオフにあう。すると、ほとんどの人は助けを求めず、侍と同じく自殺を考える」


助けを求めても、たいていは社内の診療所で初歩的なケアを受けるくらい。その診療所があるのも、ひと握りの大企業だけだ。




仕事も社会生活も失って


会社に必要とされなくなった人は「恋人に裏切られたかのように落ち込む」と、東京管理職ユニオンの山崎洋道副委員長は言う。


リストラされた人の大半は会社中心の生活を送っていたから、ほかの世界を知らない。会社人間の彼らにとって、仕事を失うのは社会生活を奪われるのも同然だ。家族と向き合おうにも、どう接すればいいかわからない。失業者を見る世間の冷たい眼がそれに追い打ちをかける。こうして行き場を失った人々だ。悩み相談を受ける「東京いのちの電話」では、働く男性からの電話が、この一年で二倍に増えた。


京都府立医科大学の反町吉秀は法医学者の立場から、鬱病と自殺の関連性を目の当たりにしていた。反町によれば、中年男性の自殺者の多くは失業からまもなく命を絶っている。


反町は現在、日本とスウェーデンを比較し、自殺と失業の関係を研究している。高所得・低失業者率を誇っていた両国は、ともに九〇年代後半に景気が後退した。しかし日本は逆に、スウェーデンの自殺率は減少している。


なぜ日本は自殺が多いのか、その理由として反町は、労働倫理が厳格なこと、社会保障制度がスウェーデンより劣っていること、そして鬱病に悩む労働者に対する治療体制が不十分なことを指摘する。「精神の病気は体の病気ほど深刻とみなされていないため、心理学の専門家の地位も高くない」と、同協会の大塚義孝専務理事は言う。



医師にこそ偏見がある


日本の平均的な医療施設が行っている精神医学のケアをA~Fの六段階で評価してほしいと、ある著名な精神科医に尋ねたところ、「E」という答えが返ってきた。だが、実際はもっとひどいかもしれない。


WHO(世界保健機関)が九〇年半ばに実施した調査によると、日本の医師は精神病の八一%を見落とすか誤診していた。鬱病の症状が見られるのに、軽い精神安定剤を処方するだけのことも多いという。


ある鬱病患者は、医師からどんな本を読んでいるかと質問されて村上春樹と答えたら、なんの説明もなく、こう言われたという。「そんな本を読んでいるようじゃ治らない」(村上の小説「ノルウェイの森」の主人公の恋人は精神を病んで施設に入っている)。




まず問題を認識すること


世界でも高齢化のペースが速い日本では、高齢者の自殺も年々深刻化している。自殺者数が六年連続で全国トップとなった秋田県は、全国四〇%上回っている。自殺者の多くは高齢者で、山がちな豪雪地帯での暮らしに寂しさを感じさせるせいかもしれない。


自殺を防ぐための第一歩は、国全体が問題を認識することかもしれない。


夫を一昨年自殺で失った妻は、神戸郊外の自宅で仏壇に手を合わせて涙ぐんだ。夫が二九年勤めた会社から、子会社である九州の工場に出向を命じられたのは、一昨年の夏。あわただしい異動だったため、やむなく単身赴任した。


表向きは課長に栄転という形だつたが、二四時間稼働の工場で部下はいなかった。出向から四ヵ月後の十二月半ばに、娘の一九歳の誕生日に、彼は工場で自殺した。


妻によれば、自殺直前の数週間の労働時間は一日一四~一六時間。休日もなく、会社のサポートもなかった。一ニ月一一日、夫は「疲れたから寝る」と言って電話を切った。それが夫婦の最後の会話になった。


社長は「ホームシックだよ」と一蹴し、酒を勧めながら「頑張れ」と励ました。



それは、追い込まれた彼が、何よりも聞きたくない言葉だった。


(出典:“Newsweek(ニューズ・ウイーク日本版)“(2001年9月5日号):ジョージ・ウェアフリッツ、高山秀子、デボラ・ホジソン:TBSブリタニカ)

Friday, April 17, 2009

「時は過ぎる」(唄孝一著:有斐閣)

唄先生とその御母堂の闘病記録。


先生は御母堂が入院されるまで医療に関してはまったくの素人であったといいます。



その先生と医師との対立軸として、
1.まったく根も葉もないものと、無理からぬもの、2.説明さえきけば納得のゆくものと、素人にとつてはどうしても理解できないもの、3.当該ケース特有のものと、どこにでもあこりがちのもの、4.個人の努力で解決できる可能性のあるものと、社会的な解決を必要とするもの、があったとおっしゃつています。



そして、本書にはこうあります。“「かたきうち」を考える前に、事実の究明と、その原因の検討とに捧げねばならないでしょう。”唄先生の御母堂は「丹毒」(連鎖球菌が真皮内に侵入して、化膿性炎症を起こすもので、皮膚の小外傷、虫さされなどが細菌侵入の入り口となります)という奇病に侵され、高熱、顔や手足に境界の明瞭な赤いはれがあらわれ入院されました。八十五歳になられた御母堂はその後合併症を起こし「心臓の衰弱から肺に水腫ができる」という状態に陥る。酸素吸入におよぶも死亡。



その後の「御遺体の解剖」を巡るご家族と医師団の見解の相違。兄弟で病院を経営するM内科とN外科。御母堂とのやりとりを医療の守秘義務として開示を拒むN外科に対して御母堂の遺体解剖に立ち会うことを条件に開示を求める唄先生。その熱意に敗け、当時、医師の絶対機密事項であつたプロトコール(医師同士の御母堂の診断の経過に対する情報のやり取り)を一部開示した。その間にこのようなやり取りがあります。



イ. プロトコールの記載事項は機密事項であり、医師は理由なくして患者から知り得た事実を他人にももらしてはいけないこと。ロ.病理診断と臨床診断の病名が違うからといって、専門外の人が主治医の考え方を云々することは危険であること。ハ.質問に答える義務がないこと。ニ.専門外の人が納得するよう説明することは困難であること。以 上



これを切つ掛けに「法医学」という新しい分野を切り開いていつた御齢六十歳の唄先生。私は両親が四十の時の子供であり、幼少のころから「死」は“忌まわしいもの”“日常、言及することを避けるべきもの”として、こういった終末医療にまつわる話を生理的に忌避していたのですが、先生の医療界の機密事項に立ち入る事の禁忌(タブー)とその反動をもろともせずズカズカと入っていかれたその姿勢に感じるものがあり、これからも少しずつ「死」について考えてゆこうと思いました。



(出典:「時は過ぎる」(唄孝一著:有斐閣)





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Monday, February 02, 2009

『古書彷徨』(出久根達郎著:中公文庫)

妻と二人で気息奄々、長年五坪ほどの古本屋を営んできた著者が綴る古本にまつわる珠玉的掌編集。


殿さまの上屋敷の土蔵にいた紙魚(しみ)という銀白色に光る虫に自らの人生を重ね合わす「紙魚たりし」、学者まがいの膨大な蔵書を売り払った後に家もろとも焼死した老人。死ぬまで女房をだまして古本を買いつづけた或る亭主。


「探求書承り候。必ず納品仕り候」との貼り紙に、子供の頃みたシンデレラの絵本を求める良家のお嬢様、数年経つと子供が三人世帯じみてくる。同じ古書店で験を担いで老人がシメで飾ってある全集。少女が歴史物を頼んだとみるや彼女と知り合うために必死に探しだしたるところ相手は少女にあらず警察官。



「志のためなら身代を売らねえ」という気風の良さで長年古本業界にたずさわってきた、直木賞受賞作家、出久根達郎氏の古書にまつわる死の薫りただよう神話的な話。とにかく奇妙で面白く不思議な作品です。



(出典:『古書彷徨』(出久根達郎著:中公文庫)

Thursday, January 01, 2009

『菜根譚』(洪自誠著、神子侃・吉田豊訳:徳間書店)

(菜根譚の思想より)

人間は社会を離れては存在しえない。

どれほど現実の人間関係に絶望しても、やはりわれわれは人間のなかで生活しなければならないのだ。
このような状況に追いこまれたとき、人間は観念の世界に逃れて平安を守るか、志を同じくする人々と結んで社会の変革のためにたたかうか、そのいずれかを選ばなくなる。



(「無」の効用)

水流れて境に声なし、喧に処して寂を見るの趣を得ん。山高くして雲碍えず、有を出で無に入るの機を悟らん。


満々たる水が、音もたてずに流れてゆくのを見れば、さわがしいなかに身を置いても心の静けさを保つ心境を悟ることができよう。



(心と外界)

時、喧雑に当たれば、平日記憶するところのものも、みな漫然として忘れ去る。境、清寧にあれば、夙昔遺忘するところのものも、また恍爾として前に現わる。見るべし、静躁やや分るれば、昏迷とみ異なるを。


ざわざわとした騒がしいなかでは、日ごろ記憶していたことさえ、うっかりと忘れてしまう。静かで安楽なときには、とうの昔に忘れていたことまで、まざまざと思い出す。
環境の静けさ、さわがしさは、やはり心に影響して、意識をはっきりとさせたり、くもらせたりするものだ。



(和光同塵)

出世の道は、すなわち世を渉るなかにあり。必ずしも人を絶ちてもって世を逃れず。了心の功は、すなわち心を尽くすうちにあり。必ずしも欲を絶ちてもって心を灰にせず。


俗世間を離れる道は、この社会でくらしていくなかにある。人とのつきあいを絶って、社会から逃避しなければならないわけではない。
悟りをひらくための努力は、自分の心の働きを十分に生かすなかにある。しいて欲望を殺し、心を冷えきらせることではない。



(迷いは欲から)

われ栄を希わずんば、なんぞ利禄の香餌を憂えん。われ進むを競わずんば、なんぞ仕官の危機を畏れん。


立身出世の欲がなければ、高禄の誘惑にも迷わない。人を出しぬく気持ちがなければ、左遷やクビの心配もいらない。



(妙味を知る者)

一字識らずして、而も詩意あるは、詩家の真趣を得。一偈参せずして、而も禅味あるは、禅教の玄機を悟る。


文字は一字も知らなくとも、心に詩情があれば、真に詩の精神を理解することになる。



(出典:「菜根譚」(洪自誠著、神子侃・吉田豊訳:徳間書店)

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