Wednesday, February 10, 2010

『裸の王様』(開高健著:文藝春秋社)

 或る心理学者の本を読んでいて、戦後の高度成長期を支えてきた人たちは「失われたものを取り戻す」という執着のつよいパラノイア的人間は、鬱病前性格者ともいえる人が多いという、というくだりがありました。


また、この種の人間は、仕事にエネルギーを投入し現実から逃避する傾向があり、カレン・ホルナイという精神分析医が「驚異的な働き手」という名称を付けたくらい、仕事ばかりしていて性的に不能であるとか仕事依存症で私生活が破壊されいても平気な人々が多いという。彼らが何故、私生活やこころの豊かさを代償にしてまで、仕事にアイデンティティーを求めるかといえば、高度成長期時代の「仕事イコール社会的豊かさへの貢献」というイメージが未だ残存していたからだといいます。そしてこの心理学者は「今の日本人の価値基準を変えない限りこころの豊かさをともなう生活はできない」と結論づけます。


 表題の『裸の王様』は、1958年(昭和三十三年)に発表された作品で、大量生産時代に適合する均質な人間の確保を主眼とする抜け目のない経済社会の風潮に浸食されて空しく消えてゆく人間的な美徳の消滅を自嘲する作品です。


 登場人物は個人で児童画塾を開く主人公、小学校の教師で画家の山口、絵具会社社長の大田、後妻の大田夫人、先妻の子太郎である。話は画を描かせることによって、子供の抑圧されたこころの開放と画の背後にある子供の個性を導きだそうとする塾を経営する主人公のもとに、実母が死んだ後こころを開こうとしない太郎が預けられることから始まります。


 主人公は個人的にデンマークのコペンハーゲンにあるアンデルセン振興会の事務局と手紙のやりとりを通じて信任を得、アンデルセン童話という共通のテーマで子供に空想画を描かせて交換し、風土や慣習の相違がもたらす認識の違いを比較検討する約束をとりつけます。しかしながら、この話の進捗具合を知っていたかのように大田が経営する絵具会社の横槍が入り、この個人的な慈善活動だった筈のアンデルセン振興会との画の交換の約束は、全国的な美術家や教育評論家を巻き込んだ公募の児童画コンクールとなってしまいます。太郎もじょじょに絵画塾の仲間と遊んだり絵を描きだすようになって他人にこころを開きだします。そして「裸の王様」の物語から太郎が想起した画を鑑た主人公は、主人公密かに怖れていたある事態が進行していることを太郎までも知っていることに気が付きます。


コンクールの会場には主人公が嫌悪していた、教師が気に入るように描かれた、出来合いの絵本をそのまま描いた画が山積みされてしまいます。現代の物質主義の前に敗れ去った主人公は、コンクールを発案した見返りに、如才なく実社会と理想のあいだを立ちまわって生きていた友人の山口の実社会への入口までも遮断してしまいます。



(参照:『日本型うつ病社会』(加藤諦三著:PHP文庫)


(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。