Friday, May 25, 2007

Romazi Nikki

Yo ha Zenpukujikouen ni sakura o mini dekaketa.Zenpukujikouen  no sakura ha mankai deshita. Moppu no youna inu ga ubaguruma o hiita obaasan no ushiro o yochi youchi tsuiteyukimashita.Amarini inuno ayumi ga osoinode obaasan ha IKUYO to shiwagaregoe de inu o sikaritsukemashita.

Ichijikann hodoaruite ike o ishuushite kitara kudanno obaasanga hizani moppu no youna inuo nosete benchi ni koshikakete bouzento ike o nagameteimashita. Nandaka amarinimo samishisoude koe o kaketaku narimashita.

Kono romaji nikki ha Takahashi Genichirou san no Nihonnbungaseisuishi kara hint o emashita. Genchan arigatou.Soshite Kamakura ni ie o motete yokkatsutane.


余は善福寺公園に桜を見に出掛けた。

善福寺公園の桜は満開でした。乳母車を引いたお婆さんの後ろをモップのような犬がヨチ、ヨチついていきました。あまりに犬の歩みが遅いので、お婆さんは「行くよ!!」とシワガレた声で犬を叱りつけました。

一時間ほどして、池を一周してきたら、くだんのお婆さんが、膝の上にモップのような犬をのせて呆然と池を眺めていました。なんだかあまりにも、さみしそうで声を掛けたくなりました。

このローマ字日記は高橋源一郎さんの『日本文学盛衰史』の石川啄木の頁にヒントを得ました。源ちゃんありがとう。そして鎌倉に家をもててよかったね。

Thursday, May 24, 2007

『護憲派の一分』の感想

印象に残ったのは、土井たか子さんの愛とその愛に対する執着心の強さだ。

こんな事を書くのは男女平等を唱える土井さんに失礼かもしれないが、女性の貞操感のような清潔感、子を想う「母」の思いの強さ(狩野芳崖の「悲母観音像」のようなイメージ)、つまり愛に対する執着心の強さが、憲法九条つまり平和憲法死守、護憲につながるのではないかと、考える。

次に印象に残ったのは、作家石川好さんの言葉。

(以下、引用)

アメリカ人は「リメンバー パールハーバー」と言って、日本人が「ノーモア ヒロシマ」と言う。

しかしそれを逆にしたほうがいい、と。

つまりアメリカ人が「ノーモア ヒロシマ」と言って、「原爆はもう落としません」と誓う。私たち日本人は「リメンバー パールハーバー」と言って、再び侵略戦争をしませんと誓う。

これなかなかいい考えだと思うんです。

(引用終わり)

これはまさに名案中の名案、まさに世界のど真ん中で平和憲法を叫ぶ、といった気分です。

意外だったのは、平和憲法が世界にあまりしられていないという事実である。

アメリカの著名なコラムニスト、ボブ・グリーンでさえ、高知に住む高校生の英訳した平和憲法の手紙を読んで、はじめてその素晴らしさを知ったというのであるから、驚きである。

最後にもっとも印象に残った箇所は、マザー・テレサの「愛」の反対語は「憎しみ」ではなく「無関心」だ、という言葉。

そして、マザー・テレサの国葬に日本国の代表として土井さんが出席したこと。そして、そのように計らったのが故橋本龍太郎首相であったことである。

横田めぐみさんの拉致事件に関わる社民党の対応のまずさから、田代まさし事件(※1)に次ぐ、凄まじいネットバッシングを土井さんは受けたのであるが、北朝鮮と交渉し紅粉勇船長と栗浦好雄機関長を救出したのは、小沢一郎さんと土井さんであったことを忘れないでいただきたい。

「書物はそれが書かれたとおなじくじっくりと慎しみぶかく読まれなければならない」と、『森の生活』を書いたソーローは言いましたが、その言葉通り、憲法前文を噛み締めるように読んでいただきたい。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いずれの国家も、自国のみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

平和憲法反対論者には、さだまさしさんの「防人の歌」を聴いて欲しいものだ。


(注1) 田代まさしネットバッシング事件:
2001年頃、世界の今年のナンバーワンの人物を決めるインターネット投票に“Masashi Tashiro”という投票が日本から殺到し、世界でナンバーワンの票を集め、主催側のアメリカから“Who is Tashiro?” という問い合わせが日本に来た、という国辱的人権侵害事件。


(後日譚)
IT社会における立派なインフラが整備されても、その道路を走るコンテンツがなければ、無駄な公共事業と同じ構図になってしまうのではなかろうか。ましてやITインフラは世界とつながっている。世界を走る道路にみすぼらしい日本の自動車を走らせることはできない。

「『出版巨人創業物語』とリベラルな出版ベンチャー 」
(http://www.yorozubp.com/0601/060119.htm)

Monday, May 21, 2007

鎌倉の蝉時雨

昔、NHKFMでクロス・オーバー・イレブンという番組がありました。

ナレーターは津嘉山正種さんで、音楽の間に津嘉山さん独特の暗く低音の押しの強い声(それでいて後で何とも言えない余韻の残る声)で、音楽の合間に何連かの物語を語ってくださるコーナーが楽しみで仕方ありませんでした。

その中で印象に残っている物語をひとつ(なにせ昔聴いた話なので、明瞭には思い出せません。内容も正確ではありませんので、ご勘弁の程を)

(できれば津嘉山さんの声を想起して文章を読んでください)

十数年ぶりにアメリカに住む友人から手紙が届いた。

私の意識は、遠いアメリカに住むアメリカの友人と過ごした過去の記憶をまさぐった。

ドン、ドン、ドン、ドン

朝方、急に戸を叩く音で目を覚まし、何事かと、ドアを開けると、そのアメリカ人は

「ジェネレーター(発電機)の音がうるさくて眠れない。なんとかしてくれ」

と私に訴えた。

鬱蒼たる竹林から間断なく聞こえてくるジージーという音のことだ。私があれは蝉の声で、発電機の音ではない、と説明してもなかなか納得しようとしない。

しばらく押し問答が続いたが、ようやく彼は合点がいったようで、

「こんな雑音を平然と聞いていられる日本人が信じられない」

と言った。

われわれ日本人にとっては夏の風物詩である筈の蝉の声が、アメリカ人である彼の耳にはとても耳障りな雑音としか聞こえないらしいのだ。


それから十年、アメリカから届いた友人の書簡の末尾には、

「この頃、鎌倉の蝉時雨が無性に懐かしく感じられます」

としたためてあった。

Sunday, May 20, 2007

制度設計の是非

政治のことに嘴を挟むと、因幡の白兎になりかねませんで、今回でお仕舞いにさせていただきますが、紹介させていただきたい一文がひとつ

『地域民主主義の活性化と自治体改革』(山口二郎著:公人の友社)

「しかし物事が動く時、特に長い間世の中を支配していたパラダイム、政策とか制度の基本的な原理・枠組みが変化する時は、当事者が意識するかしないに関係なく、とにかく何か判らぬままスイッチを入れてしまうものです。

うっかりスイッチが入ってしまうと、今度は制度や組織を巡る議論というものがどんどん自己運動を始めて前へ前へ進んでいく。歴史の変化というのはそういうものです。

誰かがこういうふうにしようといって周到な設計図を書いて、あたかもプラモデルを組み立てるように、新しい制度を構築していくことなんてことではないんです。

今の混沌というのは、やはりある種のパラダイム・シフトといいましょうか、世の中を支配してきた制度とか組織とか政策とかの原理が大きく変わる入り口ではないかと感じているわけです」

今、併読して“Japan‘s First Strategy for Economic Development”
(IUJ-IDP Press: Written by Inukai Ichiro)という本を読んでいるのですが、経済活動についても同様の記述が見えます。

(以下、抜粋)
“First, it was the Kogyo Iken which first defined the central of indigenous components of the national economy in modern economic growth in Japan and projected the growth of productivity of agricultural and rural industries within a traditional framework of small-scale enterprises.

“ a tremendous gap exists between the “policymaker’s world of economy” and the “people’s world of economy.” Calculations which are rational to the people whose participation is crucial for the achievement of the plans. The overall approach of the Kogyo Iken was one of consciously attempting to bridge this gap, an issue often neglected in contemporary development plans in the countries of the third world. The most striking feature of the Kogyo Iken as a development plan was that the government knew what to tell the people to do.

意訳させていただきますと、

とてつもない大きなギャップが「政策者の企図する世界経済」と「民衆の企図する世界経済」の間に存在しました。
計画の達成のためには、参加者である民衆にとって合理的な見積もりが必須の条件なのです。
興業意見の包括的なプローチはこのギャップを意識的に埋めようとしている。この種の問題は、通常、発展途上国の開発計画において見過ごされがちなことである。
興業意見の最も大きな特徴は、政府が人々に対して何をつたえるべきかを明確に理解していたことである。

※ indigenous = http://en.wikipedia.org/wiki/Indigenous
“Japan‘s First Strategy for Economic Development”
(IUJ-IDP Press: Written by Inukai Ichiro)をお読みになりたいかたは、
http://gsir.iuj.ac.jp/j/index.cfmへお問い合わせください。無償で送ってくださいます。 。(現在はおこなっていないと思います)

「共進会」や「同業組合」が、”The central of indigenous components of the national economy in modern economic growth in Japan”であったと論じていることが興味深いですし、『興業意見』こそ、カール・マルクスの『資本論』やメイナード・ケインズの『一般理論』の基礎をなすものと、犬飼教授は語っておられます。

忙しい方にお薦めの一冊

小学館「本の窓」2007年6月号から抜粋、要約:

「日本語を愛する~人間関係を豊かにする~」

1.「日本語力を鍛え優しさを身につける」山川健一氏(作家)
(以下、部分要約)

「腹に据えかねる」という言葉から「キレる」という言葉の変遷から、時代がすすむにつれその部位が「腹」から「頭」へと上に移動していると論ずる。

また、ポップソングの変遷から情景描写が消え(=メタファー、暗喩)、ストレートなメッセージ(=直喩)が巷にあふれることになったと説く。

最後に、ヴァージニア工科大で32人射殺したチョ・スンヒ容疑者がNBCテレビに送りつけた犯行声明はあきれるほど稚拙なものだったという。

描写力、表現力が弱まっているのは日本に独自の現象ではないかもしれない、と結論づける。


2.「新しい共同体のために必要な日本語教育」平田オリザ氏(劇作家・演出家)
(以下、要約)

オリザ氏は「社会の重層性」と「言葉の重層性」を関連付けて説く。

社会の重層性とは少数意見の尊重であり、江戸時代の歌舞伎のように家族で一日がかりでエンターテーメントを楽しみ父親が薀蓄を語るような行為であると語ります。

重層性の少ないサルの社会では、ボキャブラリーが少なくて、威嚇の言葉とか勝ち負けを表す言葉くらいしかないそうです。

地域社会も床屋を例に挙げ、かつて昼間っから将棋をさしているおじさんがいたりしたコミュニティスペースであった床屋が、経済の効率化のため人がいては困る場所になってしまったと語る。

最後に、「国語」とい授業を「ことば」と「表現」という授業の二つに分けた方がいいという非常に刺激的な意見を説いておられます。

内容を詳しくお知りになりたい方は、以下の住所に購読申し込みをして下さい。
一ヶ月100円で購読できます。


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「本の窓」愛読者係行

Saturday, May 12, 2007

日本語を学ぶ奇特な外国人の方のために

創慧研究所の「価値研究家」の長谷川さんとお話をしていて、日本語を外国人に論理的に教えるのが如何に難しいかを語った。

 野球に例えれば、ノムさん流の理論づくでバッティングのコツをつかむのではなく、とにかく練習の球を大量に打ち続けて無意識にコツを掴む方がよいのではないかと思った。

 であるからして、日本語を学ぼうとなさる奇特な外国人の方は、文法を学ぶのはそこそこにして、日本語の文章を大量に読んでください。

「習うより慣れろ」です。

C・W・ニコルさん、リービ英雄さん、デビット・ゾペティさんのような外国人の日本語小説の書き手が出てきて欲しいものです。

Thursday, May 10, 2007

うるおいのある社会へ

昔、内田裕也さん主演の「水のないプール」という映画がありました。

地下鉄の職員を辞めた内田さんが一人暮らしの女性のアパートに侵入し、女性にクロロフォルムを嗅がせてはよからぬことをする、というストーリーだが、犯人が変わっているところは、朝になったら必ず女性のために朝食を作って帰ってゆくところである。

間抜けなことに犯人は犯行後に自分のまいたクロロフォルムを嗅いで眠りこけてしまい、逮捕されるのだが女性は何故か告訴をとりさげる。

「だって、なぜか優しかったんですものあの人」

その後、犯人と女性が灼熱の炎天下の中、裸足で水の入っていないプールのプールサイドに腰掛けて足をぶらぶらさせているシーンが最後に映し出されて THE END。

高度成長期の潤いがなくなりつつある社会に生きる、二人のこころには満々たる水がたたえられている。

若松孝ニ監督の見事な描写とメッセージ性に感服した。

Sunday, May 06, 2007

想像力と物語性が失われつつある現代社会

1.
『なぜ日本人は劣化したか』(香山リカ著:講談社新書)を読んでいて、愕然とする事実に数多くぶち当たった。

最近、「正当な権利」と「個人の身勝手」の境界線が引けない人が多くなってきたそうだ。

これは筆者の言うとおり「他者の立場にいることを想像して、他者に配慮する」ことが出来なくなっている証拠でもある。

つまり、現代人に想像力が徐々に乏しくなっていることを示唆している。

これは何に起因するのだろうか、と考えてみた。

すると、コンテンツ産業が国家戦略となった途端、ファイナル・ファンタジーやドラゴン・クエストなど壮大な物語性のあるものがなくなった、というくだりに当たった。

昔、アメリカ人が忙しさのあまり、壮大な長編小説を読まず、短編小説しか読まなくなったという“Quick Lunch Literiture”という現象が起こったが、ゲーム界にもそれと同じような事象が起こりつつあるそうである。

現代における物語性の喪失である。

評論家の中村雄二郎氏によると、「物語」はいろいろな面で人と人とを「つなぐ」はたらきをもっているという。

「物語の知」の基礎にあるのは、私たちをとりまく物事とそれから構成されている世界とを宇宙論的に濃密な意味を持ったものとしてとらえたい、という根源的な欲求」である、と指摘している。

つまり、物語を鑑賞し思索するという行為の喪失が、現代人の他者の立場にたって考えるという、想像する力の欠如につながっているのではないかと、私は考える。


2.
「週刊文春」の清野徹さんは、本が売れない現状をこう分析している。

「本というものはフィクション・ノンフィクションを問わず「社会的他者という」存在を教示してくれる。

本がまったく売れないということは、現在ここにいる人が他者を欲せず自己の領域にとじこもることを意味する」
(「週刊文春」清野徹のドッキリTV語録より引用)

人間は読書によって自分の体験できない世界を仮想体験し、人間はその行為によって、他人のものの見方や考え方、自分の所属する社会以外の社会の存在や仕組みがわかるようになる。

もはや日本人は日々の生活に忙殺され、他者を理解するために物語に触れるこころの余裕も失っているのか、と考えさせられてしまう。

先日の寶田時雄さんのDVD講義の「人間の座標軸に情緒(=歴史、文化的存在)をすえよ」という言葉が浮かんできた。

私はその時、とっさに「何故、座標軸に情緒? 論理ではないのか?」と考えたが、それは間違いであることに本書を読んでいて気が付かされた。

世の中にはいくら論理的に説明しようと言葉を尽くしても説明できない事項が数多く存在するのである。

例えば、今朝フジテレビに出演していた藤原正彦さんが幼少時代に命ぜられたという「卑怯なことをするな」という父親の言葉。

仮に「弱いものを大勢でいじめるのは卑怯である」と言われた子供が「何故?」と問い返したとする。

親は「それがまっとうな人間のおこなう行動であり、正義であると脈々たる歴史が証明している」としか説明できない。

もし子供がその言葉に小賢しい論法で反論してきたら、それこそ張り倒すしかないだろう。

人間の社会には論理では説明できない、人間が悠久の歴史をかけて築き上げてきた道徳と倫理というものがあるのだ。

物語に触れて、情操を涵養するという行為は、若年期にしかできない行為である。したがって、その行為が人間を人間らしくあらしめ、劣化する日本人を救ってくれるのではないか。


3.
しかしながら、小説を読むことは非常に億劫な行為である。こころと時間に余裕がないと決して読む気にならない。

かく言う小生も最近は物語性のある小説ではなく、論旨が明確な新書ばかり読んでいる。

昔、理科系の友人に「何故、本を読まないのか?」と質問したら、

「だって時間の無駄って感じがするじゃん」と言われた。

島田雅彦氏が大学に講演に訪れた際、大江健三郎氏との対話で、

「小説ってのは林の木を一本、一本描くのではなく森全体を漠然と描いていくものじゃないですかねぇ」という結論で一致したと言った。

確かに小説を読むという行為は、鬱蒼とした森を探検するのに似て、小説から何かを感じとることは出来ても、その感動や不気味さを言葉で表現することは難しい。

作品のメッセージや意図は作者によって巧妙に隠され、問題点は小説の各所に散りばめられている。

読者は作者の意図するところを論理ではなく、情感で感じとることを要求される。

小説をたくさん読んで何を得たのか? と聞かれても答えられない。

でも、物語を読むことによって世知辛い世の中から一時(いっとき)離れることができて、救われてきた感じがしないでもない。

それ故に、小生は読書を奨めるのである。

Friday, May 04, 2007

赫奕たる日蝕・三島由紀夫と石原慎太郎

三島由紀夫と石原慎太郎の出会いから離別までを断片的に記述します。

(以下、『国家なる幻影』(上)(下)石原慎太郎著:新潮文庫から抜粋引用)

1.
「偉人は体が大きい」という思い込みがあった石原氏はトレンチコート姿の三島氏が思いのほか小柄(158cm)であったのに驚き、初対面にもかかわらず「僕、三島さんてもっと大男なのかと思っていましたよ」と言ってしまう。三島由紀夫、何とも言えない顔で「いやあ、わっはっはっ」。笑い飛ばす。

文藝春秋社の屋上で二人そろってグラビア写真を撮影する。

石原氏、手摺が煤煙でひどく汚れていることを注意すると、三島氏かまわずに大きく身をのりだす。

撮影後、汚れはてた手袋を叩きながら「いやあ、わっはっはっ」。「それよりも君この写真のタイトルは何にするかね。僕は決めてきたんだよ、新旧横紙破り。どうだい」。三島氏、呵々大笑。文春のカメラマン、その日の三島氏の姿を見て、「何だか三島さん、えらく気負っていたなあ」

三島由紀夫の最後の大河小説「豊穣の海」を苦労して読み終えた石原氏は思わず涙する。

その作品のあまりに無残な退屈さと三島氏の作家としての内面の衰弱のため。

最も無残なのは、若かりし頃の自分の作品を模倣して書いているところだと語り、「ああ、あの三島さんにしてこんなに衰弱して死んでしまったのか」と嘆息する。この評価に天国にいる三島由紀夫は「いやあ、わっはっはっ」と、笑い飛ばすことが出来るだろうか。

2.
ある日、弟の裕次郎氏が映画をみて帰ってきて、石原慎太郎氏に「三島由紀夫が映画に出てたぜ」と言ったところ、慎太郎氏はそのことにたいへんな衝撃を受けた。当時は、文士というものが映画などというものに出演すること自体異例な出来事だったらしい。

それを機に石原氏は三島由紀夫の熱心な読者になるわけですが、石原氏は三島氏のそういう前衛的な部分に惹かれたのかもしれません。

この現象を現代に置き換えてみると、かぶりものを着た坂本龍一氏がダウンタウンの番組に出演し、ダウンタウンと水中で棒を振り回して殴りあう映像と同じくらい衝撃度があるでしょう。

3.
三島由紀夫と石原慎太郎を語る上で欠かせない挿話は、病床に伏せる石原氏宛に送った三島氏の一通の手紙である。

ベトナムから帰国し重篤な肝炎に倒れた石原氏は三島氏から懇篤な一通の手紙を受け取る。
その手紙には

「自分も以前に潮騒の取材で同じ病気にかかったが、実に嫌な病気だった。君の今の心中は察するに余りあるが、一旦病を得たなら敢えてこれを折角の好機と達観し、ゆっくり天下のことを考えるがいい」

とあった。

この一通の手紙が石原氏の心を平明に開いてゆき、やがて政治の世界に飛び込むことを決意させる。石原慎太郎氏は昭和四十三年参議院全国区で最高得票を獲得し、国会議員として道を歩み始める。

4.
皮肉なことに石原氏の政界入りによって、石原氏と三島氏との関係に亀裂が入ってしまうこととなる。後に石原氏はこの間の三島氏との関係を「おもちゃの奪い合い」のような関係になってしまったと回想しているが、三島氏の嫉妬はやがて三島氏を過激で尖鋭化した政治活動に向かわせることとなる。

毎日新聞上に「石原慎太郎への公開状」なる文章を掲載し、自民党の禄をはむ人間であれば批判など一切すべきではない、それは武士道にもとる。本気で批判するなら諫死の切腹をせよなどという、毎日新聞のデスクも頭を抱えざるをえないような内容の論旨を展開しだした。

さらに、保利官房長官が今日出海氏、三島氏、石原氏の三氏を呼んで雑談をしたところ、三島氏は政府が自衛隊を使っての反クーデターの詳細な計画を滔々と語りだし、保利官房長官を当惑させたりした。今氏に「君、三島君はどこまで本気なのかね」と問われた石原氏は「これから書くつもりの小説のプロットじゃないですかね」と答えた。

※ 「赫奕たる逆光」(野坂昭如)、「三島由紀夫の日蝕」(石原慎太郎)を入手されたい方はAmazon.comか紀伊国屋書店の古書のコーナーで入手して下さい。

第66回 7,000人来訪記念 文化相違の「笑い」と、今まで書いたものの棚卸
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-21)

第67回 「無名であるといふこと」 郷学研究会の講義(上)
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-28)

第68回 「乾ききった社会」 郷学研究会の講義(中)
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-28-1)

第69回 「昇官発財」 郷学研究会の講義(下)
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-04-28-2)

第70回 知識人がボロリと漏らす重要な言葉
(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-05-03)

Thursday, May 03, 2007

知識人がボロリと漏らす重要な言葉

(1)対談集『気骨について』(城山三郎;新潮文庫) より抜粋
城山三郎氏と加島祥造氏との対談にて、

加島祥造氏:
「老子を私は英語訳で読んだんですが、英語だとじつにモダンに映るんです。

「コップは、中が詰まっていたら何の役にもたたない」という言い方から始まって、部屋の中だって中がいっぱいだったら部屋じゃないとか。

英訳だと、すごく新鮮に響くんです。

彼らは簡単な言葉に言いかえてますからね。

原文を読んでいるときはまったくピンと来なかった。
(『タオー老子』筑摩書房参照)

(感想)
ヨーロッパ人が漢字を知ると、一つ一つの記号がそれぞれ意味を持っているという、漢字の厳密な思想に驚くそうです。

そして東洋の思想家は、日常の思考や言語から区別されるだけでなく、他の知識分野や考察方法からも区別される、独自の用語と方法が形成されることを望む。

したがって、漢字で書かれた文章は訓詁学的に難しくなる。

化学記号は漢字の考え方を敷衍して出来たといいますが、日本の学術用語も、意味を限定し、厳密であろうとしすぎるがゆえに難解になってしまうのではないかと思います。

朝日新聞の天声人語に「止揚(アウフベーン)」という哲学用語をドイツの下女が何気なく使っているのを日本の哲学者がみて感心したところ、それは一般日常用語であった、という例が書いてありました。

日本の学術用語は少し難しすぎるのではないでしょうか。

とりあえず、老荘思想を理解するにはまず、英語からということです。


(2)『下流志向』(内田樹;講談社)より引用
内田樹氏:

精神科のお医者さんに聞いたんですけれども、思春期で精神的に苦しんでいる場合、親に共通性があるそうです。

(中略)

子供たちが発信する「何かちょっと気持ち悪い」とか「これは嫌だ」とかいう不快なメッセージがりますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。

(感想)
親がいやがる不快な事象や記号は、遺伝的に子供にもいやな事象や記号として伝わると解釈してよいのでしょうか。

(たとえば親子とも貧乏を想起させるイメージや記号を極度に恐れ、嫌悪する等)

そうだとすれば、これはちょっとした発見である。

そうした子供たちが嫌がる対象物を知覚して、それへの適切な処方箋を提示できるのは、親である可能性が最も高い、いうことになります。


(3)『ザ・プロフェッショナル』(大前研一;ダイヤモンド社)
大前研一氏:

さらに、会計士です。

エンロン・スキャンダルをはじめ、西武鉄道グループやカネボウの粉飾決算など、プロフェショナリズムの不在は言うまでもないでしょう。

しかも、アメリカでは<クイッケン>をはじめとする家計簿ソフトが登場したことで、スペシャリストとしての会計士や税理士が提供する財務サービスの大半が「コモディティ化」、つまり洗剤や歯磨き粉のような、ありふれた存在になってしまったのです。

早晩、日本でも同じ状況が訪れるでしょう。


(感想)
たしかに優秀な会計ソフトベンダーに、制度会計を標準化するソフトを開発してもらえば、会計処理のあいだに人が介在する余地をなくならせてしまうでしょう。

しかしながら「現代は答えのない時代に直面する時代」だそうです。

試算表が出来る前にどんな工程が存在するのかを認識して、制度化できない部分に価値の比重がかかって来るようになるのではないでしょうか。

特に経営者向けの情報を作成する企業内会計(Management Accounting)の分野は企業によって費目の重要性(特にホワイトカラーの数値的な表現)が異なるため、企業ごとに思考する会計サービスというものが重要になってくるでしょう。

アメリカには(Management & Discussion)という項目があります。文章表現が巧みな者がアンダーライターとなりうるでしょう。

財務会計はSAP、ディスクロージャーは亜細亜証券印刷・宝印刷のノウハウをシステム化すれば簡単に出来てしまいます。民間企業の会計監査は簡便なものとなるでしょう。

会計士は会社内会計士としてマネジメント・アカウンティングをとるか、公会計に携わって公の会計士となるか、民間企業の監査に当たるか会計士にとって三つの選択肢があるわけです。コンピュータ対人間という構図になるわけです。