Wednesday, July 04, 2007

大衆社会への警鐘 『ニッポン・サバイバル』(姜尚中著)(続)

姜尚中(カン・サンジュン)さんが語った、

「テレビの流す画一的な情報に流されて、人々が多角的に物事をとらえることが出来なくなくならないよう」

と、注意を喚起されていることですが、これは私にもこころ当たりがあります。

メディアの過剰報道というのでしょうか、失業者イコールなにか訳ありのことをした人、子供に挨拶すると幼女誘拐と間違えられるのではないか、という自意識が過剰になってしまい、平日にのんびりと街に出るような環境でなくなっている気がします。

 これは私が失業時にも思い当たることで、家族の温かさが恋しくて郊外の住宅地に戻っても、失業という後ろめたさから近所を散歩さえ出来ず、ひたすら体重が増えていった、という事がありました。

田舎の会社にいるときに、一緒に働いてきたおばさんから、

「都会の住宅地って、人の交流がないらしいね。ご近所の家に対する遠慮から、そのまま家に引きこもっちゃってブクブク太ってゆくらしいわね」

と恐ろしげに聞かれた事がありました。まさにその通りである。

失業中、人目を忍んで、朝方新聞をとりにいくと、パッと玄関の照明に照らされて、俺はトム・ハンクスの映画に出てくる「メィフィールドの怪人」か、と自分で思ったこともあります。

 また、最近は子供にも声をかけづらくなってしまった。

新幹線に乗っているとき車窓に富士山が見えたので、横に座っていた小さな女の子に「ほら、富士山だよ」と声を掛けると、後ろの座席に座っていた母親が新幹線を降りる際に、不思議そうな顔をして、まじまじと私の顔を見て降りていったことがありました。

私は「何か不審感でも抱かれたのか」と事後、少し悩んでしまいました。

田舎へ行くと、お爺さんお婆さんなどが向かいのコンパートメントを倒して、

「いや、いや、どこから来られましたか」
「いや私は広島から」

などと言ってガヤガヤ話はじめるものだが、昨今はそんなこともない。

昔は電車に乗り合わせるということが、イコール他の文化圏の人との触れ合いということで、互いに乗り合わせたのなら必ず挨拶することが常識だったことを考えると、非常に嘆かわしいことである。

報道とは本当に難しいものだ、と考え込んでしまう昨今である。

(※1) 「メイフィールドの怪人」;ジョー・ダンテ監督、トム・ハンクス主演の映画。隣人がおかしなことをしているのではないかと主人公がさまざまな想像をして恐怖におののくが、実際は何もやっていなかった、というコメディー。

Tuesday, July 03, 2007

大衆社会への警鐘 『ニッポン・サバイバル』(姜尚中著)(正)

姜尚中(カン サンジュン)さんが、人間が生きてゆくうえでぶちあたるさまざまな疑問に対して、読者の声を交えつつ語ってくれています。

その中で、第二章、「自由」なのに息苦しいのはなぜですか? という問いに対しては、潜在能力(ケーパビリティ)のある社会になれば人間は自由になれる、と答えておられます。

インドの経済学者アマルティア・センという人が唱えている、人々が自ら価値を認める生き方を選ぶための潜在能力を拡大することで、人間の本質的な自由が増大する、という考え方だそうです。

そういえば、小生も普段なにげなく見ていた東寺の五重塔が、司馬遼太郎さんの『空海の風景』を読み、弘法大師に真言密教の根本道場として嵯峨天皇から与えられた寺だという歴史的事象を知ることによって、これまで何度か足を運んだことのある高野山の記憶や遠い弘法大師の生涯に思いをはせて、この前とは違ったものにみえるし、悠久の歴史に思いをはせて感動することが出来ます。

さらには、ずいぶん昔の話ですが、高野山のあるお寺の高僧にわざわざ時間を割いていただいて、訓示をいただくという僥倖にも巡り会いました。

つまり、情報なり知識、体験を吸収して自分を生かす力(智恵)にかえて、生きる選択肢を増やすことが、その時コミュニケーションという、人間の本質的な自由な行為に変わり、行動するのに多様な選択肢を与えてくれる、という意味に解釈しています。

また、第5章、激変する「メディア」にどう対応したらいいのか? という疑問に対しては、家族なり、地縁的な結びつきの中で個人がだんだんと社会化していった環境が一変して、そういうネットワークがなくなってしまったことを憂いておられます。

姜さんは、労働組合や地域の縁故関係など、従来型のしがらみでとらわれた形で政治に参加することがなくなった代わりに、テレビやインターネットの情報をみて特定の政治家と直接結びつくようになって、政治が権力に操作され、少数意見が尊重されない、という事態に陥ることを最も憂いておられます。

たしかに、かつて日本人が憧れた郊外の住宅地は、牧歌的な庭園が点在するところとはならず、郊外の住宅地は地域社会とつながりの希薄で孤独な中産階級の老人たちの長屋(ドーミトリー)と化し、新しくできあがった郊外の住宅地は、夫たちが夜にしか姿をみせず、妻たちがわが子の運転手をつとめる中流階級の新しいドーミトリーとなりました。

経済大国の中で花咲いたのは大衆社会という徒花であり、テレビジョンの普及により、大衆の数は級数的に増加していきました。その間に芽生えてきたのは、社会的な無関心や利己主義的な考え方であり、大衆の多くはいつのまにか、自らの地域社会から逃避し、テレビジョンが創りあげた虚構の世界に安住する住人となってしまっている、とも言えます。

ドイツの哲学者ヤスパースは、大衆というのは国民と異なる、と説き、大衆とは、

「大衆は成員化されず、自己自身を意識せず、一様かつ量的であり、特殊性も伝承ももたず、無地盤であり、空虚である。大衆は宣伝と暗示の対象であり、責任をもたず、最低の意識水準に生きている」

と言っています。

国民としての自覚というのは歴史的自覚である。それを失うと、その国民は滅びてしまうというのが、ヤスパースの意見です。

 最後に今日の読書で、偶然こころにズキンと刺さった加藤周一さんの『夕陽妄語Ⅷ』の『巨匠』再見―劇場の内外を引用します。

(以下、引用)

ナチスの将校はワルシャワ近郊の小さな町で四人の「知識人」を処刑するためにやって来る。彼の「リスト」には老人が市役所の簿記係として載っているので、老人は知識人から除外される。

しかるに彼は自ら進んで、簿記係は臨時の職にすぎず、本来は俳優であると主張し、それを証するために『マクベス』の一場面を将校の前で演じる。
その演技を見終わったドイツ人の将校は、丁寧な言葉で「たしかにあなたは俳優です」と言い、老人を銃殺すべき「知識人」の列に加える。
当事者にとっての自由な選択は、簿記係として生きのびるか、俳優として死ぬかである。

一方には平凡な日常性への埋没、他方には日常的な「平和」を超えて、自ら信じる価値を貫こうとする矜持がある。

(中略)

たとえば選挙の投票行動はほとんど犠牲らしい犠牲を必要としない。しかし「長いものには巻かれろ」の現実主義か、「一寸の虫にも五分の魂」の人間的尊厳を選ぶことができる。


(引用)
『ニッポン・サバイバル』(姜尚中著:集英社新書)
『夕陽妄語Ⅷ』(加藤周一著:朝日新聞社)