Wednesday, October 17, 2007

『構造改革とは何か』(猪瀬直樹著:小学館)

姜尚中氏曰く

「学生のなかには「先生、ニューヨークに行ったけれど、汚らしい街で、東京の方がきれいですよ。もうアメリカを追い越しましたね」と平気で言う人もいます。そのとき日本はもしかしてパックス・ジャポニカになるのではないかと思いました。人が無重力状態にいる、というか」

東京の摩天楼を見ているとそんな感想を抱いてしまう人もいるかもしれません。

『構造改革とはなにか』を読むとその表面的な繁栄の膨大なツケをこれから年金や税金で払っていかなくてはならない、という事実に気付かされる。

公的部門の債務は90年以降に膨大に増えている。

「バブル崩壊の後なのに何故?歳入が減ったからなのか?」

という疑問が生じるのだが、事実はこういうところではなかろうか?公的部門はバブル時代にさらに経済は上向くと考えて右肩上がりの予算計画を立てて大型開発計画を建てて債券を大量に発行する。お役所は採算度外視で土木建設工事を予算どうり執行しようとして継続し続けた。その債券の償還費用が莫大なものになって90年以降大きな債務として顕在化した。さらに借金を増やしながら建設工事を続けようとした省庁に、2001年の構造改革でこれ以上の建築構造物はいらないということで小泉元首相と猪瀬氏がストップをかけた。

いわゆる「行政の事業化」を完全凍結し、「一般会計の財投化」を防いだ、いうことである。

もう一つ気付かされたのは、本丸は赤字で苦しい苦しい、と訴えて予算で莫大な補助金や給付金をいただいて、じつはちゃっかり本丸を取り囲む無数の膨大な数の櫓(=子会社、ファミリー企業)は大いに儲かっている事実である。民間との競争もないからいわば無風地帯だ。しかも悪い事に、大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設省、郵政省等自分たちの省内のお仲間で割りのいい商売をやっていると言うんだからいただけない。民業圧迫というのも頷ける。

単純に言えば

「省庁も連結決算してみなさい、そうすればそんなに救いのないような状態ではない」

ということである。

小泉首相が

「すべての特殊法人は廃止か民営化か」

と一喝し大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設省、郵政省に連なる無数のまたたく星のような数の特殊法人を一気に爆破させ民営化の道筋をつけたことには拍手喝采します。

もう一つ気付かされたのは、本丸は赤字で苦しい苦しい、と訴えて予算で莫大な補助金や給付金をいただいて、じつはちゃっかり本丸を取り囲む無数の膨大な数の櫓(=子会社、ファミリー企業)は大いに儲かっている事実である。民間との競争もないからいわば無風地帯だ。しかも悪い事に、大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設業、郵政省等自分たちの省内のお仲間で割りのいい商売をやっていると言うんだからいただけない。民業圧迫というのも頷ける。

単純に言えば

「省庁も連結決算してみなさい、そうすればそんなに救いのないような状態ではない」

ということである。

小泉首相が

「すべての特殊法人は廃止か民営化か」

と一喝し大蔵省、通産省、運輸省、農林水産省、建設省、郵政省に連なる無数のまたたく星のような数の特殊法人を一気に爆破させ民営化の道筋をつけたことには拍手喝采します。

 従来、「財政投融資の資金の原資がどう集められ、どう運用されるかについて、国民の関心は深いとはいえないし、また現行財政制度のもとでは国会の審議の正式な対象となっていないことは、問題だといってよい」(*1)
とされてきましたし、

また、「財投計画の編成と実施には、国会の審議権もあまり及ばない。このことは、それなりに理由があってそうなったのであるが、財投編成過程やひいては財投の機能などからみて、それでいいのかどうかあらためて検討しなおす問題をひそめているといわなければならない」(*2)

という性質を持つ不透明な財政投融資について充分な審議がなされないまま破壊してしまったことに一抹の不安をおぼえます。

この大規模な爆破はせめて特殊法人廃止後の二次工事にすべきではなかったか。そんな思いもします。

西南戦争の際、熊本城の天守閣が吹っ飛んだとき民衆は、

「天守閣まで壊す奴がいるかい」と慨嘆したそうですが、

今の私は「グラットストンがつくった郵便事業を壊す奴があるかい。橋本内閣の金融ビックバンの後みたいにならなきゃいいけど、と思ったら事務処理の方は民間人が入ってきてトヨタのカンバン方式で混乱をおさめた。これには驚いた」

という心境です。

それにしても、10年前にこのことに気が付き、すさまじい取材力と自ら陣頭指揮にたって国難を救った猪瀬直樹氏に敬礼。

(*1)(*2)『財政投融資』(遠藤湘吉著:岩波新書)による

林業に興味の或る方は、『自然学の展開』(今西錦司:講談社学術文庫)をお読みください。


(後日譚)
会計検査院の資料及よびその他の資料をめぐって、故石井紘基議員及よびその関係者がまきこまれた事件を思いだしてください。私は政治やあらゆる物事に物見遊参で立ち入るのは避けています。


(免責事項)
このブログは一般図書の一部を抜粋要約し、筆者の独断と偏見に基づき改編したものです。このブログで当該分野にご興味をもたれた方は図書館で借りる、ないしは書店にて本をお買い求めになり、全文を精読されることをお薦めします。

Sunday, October 07, 2007

ノスタルジー一般教養

 私の学生時代は第三次べビーブームの時代で大学も暫定措置として定員枠を増やしました。

その結果、一般教養の必修科目になるとまさにマスプロ教育そのもので大教室に400人やら500人が収容されるという事態が起こり、まともに先生の声が聞こえない状態でした。

そんな状態だから、学生も授業中に大学の長いすで寝る奴はいるわポップコーンをむさぼり食う奴はいるは、ひどい人になるとサークルの仲間内で勝手なおしゃべりを始めたりするわけです。

そのなかで「宗教学」を担当していた森田先生という人が考え出したのは「諸君はかくかくしかじかの日に出席して試験さえ受ければ単位をやる」としたわけです。

私も単位さえ取れればいいと思っていたので、指定された日に授業に出てみると

「今から配布する紙に学部と学籍番号を記入して箱の中に入れなさい」

と言い、なんとその先生自ら400人から500人いる学生たちに白い切符大の紙を1枚1枚丁寧に生徒に直接手渡していったのです。

老教授は「君たちの期待するものに対して私のできることはこれくらいのことです」といいたかったに違いありません。つまり学問をもって対価とすることができ得ない(=つまり、学生に学習意欲がない)から、400枚から500枚の紙片を誠意をもって配るしかない、という訳です。

Friday, October 05, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第4講 現象学」

「アロンは自分のコップを指して<<ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!>>
サルトルは感動で青ざめた。ほとんど青ざめた、といってよい。それはかれが長いあいだ望んでいたこととぴったりしていた。つまり事物について語ること、彼が触れるがままの事物を、・・・・・そしてそれが哲学であることを望んでいたのである」
サルトルがはじめて現象学と出会ったときの情景を、シモーヌ・ドゥ・ボーヴァールが『女ざかり』の中でこう描いてみせている。1932年、ベルリンのフランス学院で歴史の論文を準備しながらフッサールを研究していたレーモン・アロンがパリに帰省し、モンパルナスのとあるキャフェでサルトルやボーヴォワールと一夕を過ごした折の話である。
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

第一次大戦中の前からイデオロギー危機だといわれていてヨーロッパではあらゆる価値が根底から揺さぶられていました。哲学は実証主義と主観主義に分裂し、若者は何を信じてよいのかわからなくなっていました。そこへ現れたのが現象学だったのです。

現象学の主唱者、フッサール(ドイツ哲学者)とはどんな人だったのでしょうか。フッサールがゲッチンゲン大学やフライブルグ大学で講義をしたところ、最初はギッシリだった教室にだんだん空席が目立ちはじめて、最後は誰もいなくなったといいます。

このフッサールの講義の様子を「フライブルグ詣」に出掛けた田辺元、高橋里美、九鬼周造、三宅剛一のうち高橋里美(日本哲学者)が次のように記しています。

「彼の講義が諄々として説いては倦まざるの程度を遥かに通り越して、恰も回転する車輪の如くに、此の時間も、次の時間も、またその次の時間も、幾回となく同じ様な事を倦まず墝まず反覆し、一週四時間の講義が一学期もかかって、ほんの「現象学的還元」を漸くにして終わるだろうといふことは、誰が想像し得ようか」(フッセルの事)

この現象学は、ジャン=ポール・サルトル(フランス哲学者作家)の『存在と無』に大きな影響を与え、西田幾多郎(日本哲学者)も明治四十四年にフッサールを紹介しています。

フッサールの弟子ハイデガー(ドイツ哲学者)は『解釈学的現象学』をあらたに始め、『存在と時間』を著しました。

この思想が流行したのは敗戦後、面白いことに第一世代のSF作家が若い頃によく読まれています。筒井康隆氏然り、小松左京氏はフッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を大学ノートに全部書き写したといいます。

それではフッサールの「現象学」とはどのようなものだったのでしょうか。

フッサールは哲学とは、人を感心させる体験や知識の多さとか、ひとを感動させる心の広さや深さ、ひとを驚かせるあたらしい視点とか思考だとか、そんなものじゃないんじゃないか、と考えました。

そんなことよりも、ものをありのままに見る能力とか、考え方の筋道をきちんとたどる能力を学ぶべきではないかと考えました。

普通の人間は自分の生きているこの世界は、ちゃんとそこに存在しているし、わたしたちが見たり読んだり聞いたりしているその世界についての情報は、だいたいにおいて正しいという考え方をもっています。

しかしながらフッサールはこうした『自然的な態度』というのがまず問題であると考えました。そういうものをすべてカッコの中へ入れて横に置いておけと言いました。

何故そんなことをするのかというと、必ずしも人間の意識するものは実在するとは限らないからです。

例えば、大きな翼をつけた男が「田中です」と現れて挨拶をしてあなたの頭上を羽ばたいて去ってゆく。こんな事ありえませんよね。

次に、あなたが会社の採用面接で応募書類を見てみると、そのなかに「原民喜」という名前を見つけたとします。文学好きなあなたは広島の原爆詩人、黒い丸眼鏡を掛けた原民喜を思い浮かべる。そして何故か、遠藤周作さんが少女との映画を見に行く約束を破ると、原民喜が現れて「キミガ、アノヒトヲオイテキボリニスルダロウトオモッタカラ、ミニキタンダ」と咎める哀しいエピソードを思い出したりもする。上司から「おい君」と言われてわれに返る。

一のように実在しないものを意識したり、ニのように意識を意識できるのは、フッサールの先生、ブレンターノ(ドイツ哲学者)曰く「内部知覚」によると言われています(対義語:「外部知覚」=ものがそこにあるのを意識すること)

フッサールの言っている意識とは何か。それは『純粋意識』だといいます。つまり主観なんてものがあると思ってはいけない。それはただそこにあると信じているだけのことであって、人間が誰でも持っている、眼に見えるものを信じようとする根本的な力、フッサールの言葉でいうと『原信憑』が働いているからである。
だからこそすべてを、その働きの外へ置け、即ち『カッコでくくって』しまえというわけです。

これが現象学的なものの見方をする第一歩、つまり『判断中止』です。

しかしながらそんなことをすれば、はっきりと理解できるものとか、自信をもってこれは何なにだと言って断言できるものが、何ひとつなくなってしまいます。

フッサールは、その通り。何かについて確かなことがわかるなんてものは、ひとつもないんだ、と言います。

しかしながら、たとえそうであっても、意識に直接訴えかけてくるものがあるのなら、それがどんなものかはわかる筈だとフッサールは言います。

本来、意識というものはごちゃごちゃの筈です。ところがフッサールはこれは経験主義に毒された考え方だと言います。

われわれには赤い色は見えているし、今聞こえてくる音も聞こえてくる。われわれはそこでもって色と音との本質的な区別を直観的にとらえているではないか、こう主張します。

その直観的にとらえたものが色や音のイデアまたは形相(エイドス)だと言います。

つまり、あるひとつの物事には時間的空間的なもの、歴史や場所といった、その物事にくっついて想像してしまうようなごちゃごちゃしたものやたらにある。それを全部とっぱらってしまえということです。

そうして得たものこそが純粋意識だ、先験的主観性だというわけです。

すべての現実は、現実そのものとしてではなく、自分の意識のなかだけにある純粋な現象として扱うべきだといいます。これを『現象学的還元』といいます。

つまり現象学は、純粋現象の科学だというわけです。

さて、そのごちゃごちゃしたものを除去してどうするか。今度はそのひとつひとつのものごとを想像力の中でいろいろに変化させて見て、最後にそのなかから絶対不変なものを発見するという作業をおこないます。

そうやって出てきたものが本質、つまりは形相(エイドス)というわけです。

この現象学から最も影響を受けたのはジョルジェ・プーレ(フランス批評家)、ジャン・スタロビンスキイ(スイス批評家)、ジャン・ルーセ(フランス批評家)、ジャン=ピエール・リシャーレ(フランス批評家)等のジュネーブ学派で、作品にあらわれている作者の純粋意識だけに注目するべきだといいました。

テーマや文体、イメージや言語、そういった部分をばらばらに研究して、それが全体へどうつながるかに注意して、そのつなげていく本質こそが作者の精神だ、と判断しました。つまりその作家がものを体験したり認識したりするそのしかたを見つけるというのが現象学的批評のやり方となりました。

この現象学的批評は公正でなければならないという考えから、作品を消極的に受け入れて、(=作家の思想、作品の歴史的視座、作品のなかに流れるある考え方まで『判断停止』(=排除する)その作品の精神的な本質だけを純粋に記述してゆく。これが批評であると考えました。

つまりその作家がものを体験したり認識したりするそのしかたを見つけるというのが現象学的批評のやり方となりました。

つまり現象学的批評は公正でなければならないという考えから、作品を消極的に受け入れて(=作家の思想、作品の歴史的視座、作品のなかに流れるある考え方まで排除する)その作品の精神的な本質だけを純粋に記述してゆく。

例えば遠藤周作の『侍』を批評する際に、遠藤周作がカトリックの作家であるとか、石田殿のお国から派遣された田中、長谷倉、西の3人がローマ法王パウルス5世陛下と本当に会うことができたのだろうかとか、そもそもベラスコというマニラやノベスパニア(メキシコ)に交易を求めるエスパニア人宣教師が存在したのか、など余計なことを考えずに作品の精神的な本質だけを純粋に読んで記述する。

これが批評であると考えました。


(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(参考文献:『現象学』(木田元著:岩波新書)

次回は「第5講 解釈学」


(後日譚)読めもしないのに、アマゾンの古本店で『現象学』を購入しました。

本を開けてみると薄い鉛筆で見事な傍線、囲い、重要事項には丸がつけてありました。左利きの人なのか何故か傍線が左に引かれています。そして欄外にはその頁を読んだ日付と時刻が几帳面に書かれていました。

おそらく哲学の学究の方が刻まれたものだと思いますが、その几帳面さと精密さに思わず背筋が寒くなりました。

ひとつ例にとってみると、P140 ‘03.4.25. 7.24AM、P141 8:58am、1ページを読まれてあれこれと思惟なさるうちに一時間半というときが流れ去っていったのでしょう。

 素晴らしい古本にめぐりあえたことに感謝します。

Monday, October 01, 2007

日本の米国病からの処方箋(財政)

(1)小さな政府と所得再配分 -これ以上の行政のスリム化は必要か-

2006年7月、OECD(経済協力開発機構)(*1)は日本に対して「日本は異様な格差社会になっている」という経済審査報告書を提出しました。

「ジニ係数(所得や資産の分配の不平等度をしめす数値)がすでにOECDの平均以上になっているだけでなく、相対的貧困率が先進国の中で最も悪いアメリカに肉薄している」

「とくに、子どものいる家族の相対的貧困率は、アメリカをすでに抜いている。さらに独り親(母子家庭)相対的貧困率は、アメリカを大幅に抜いて突出している」

さらにOECDは、格差拡大は労働市場が二極化していることにもとづいている、と指摘しているのです。

つまり労働市場が砂時計型に二つに分かれてしまっていて、この二極化している労働市場(フルタイムとパートタイム)の賃金格差があまりにもひどすぎると指摘しています。

このような事実を踏まえて、まず私たちが考えなければいけないのは、

「政府が再配分をやめて、すべて市場にまかせればいいという方向を選ぶのか、そうでない方向を選ぶのか」

です。つまり、

(a)小さな政府というスローガンのもとこれ以上公的部門をスリム化してゆくのが妥当か否か、という選択肢です。

さらに言えば、少子高齢化という緊急事態を迎えるにあたって、

(b)ヨーロッパ諸国のように所得再配分機能を高めるため、大きな政府に回帰すべきではないか、という選択肢もあり得ます。

もともと、日本の財政の所得再配分機能(*2)は先進国のなかでいちばん小さいといえるほど小さいのです。国民負担率(=国民所得に対する税金の割合)の割合でいくと、以下の通りです。

国民負担率:日本37.7、アメリカ31.8、イギリス47.1、ドイツ53.3、フランス60.9、スウェーデン71.0

しかしながら、大きな政府に回帰すれば税金の負担率が大幅に増加します。

したがって、租税負担率の低いアメリカのように「所得が少なければ、税も少なくていい。そのかわり自己責任で生きていってください」から、租税負担率の高いスウェーデンのような「貧しい人も税を負担してください。そのかわりおたがい助けあって生きていきましょう」 という社会に変わります。
.
ヨーロッパでは財政が所得再配分していることでは限界が生じていると考え、新しい労働市場に誰でも(=家庭で労働してきた女性も、さまざまな障害を持っている人も)参加できるシステムをつくっています。教育によりあたらしく変わっている労働市場への参加保障を、財政による公共サービスの提供によっておこなうことを考えています。

(2)貧弱な公的サービス(育児サービス・高齢者福祉サービス)拡充のためにどのような意思決定危機関が望ましいか

日本はスウェーデンやドイツ、フランスなどのヨーロッパの国々と比べて、年金や医療保険は半分以上の数値になっています。

「政策分野別社会支出」(対国民所得比)
医療保険等:日本7.65、アメリカ7.39、イギリス7.3、ドイツ10.51、フランス10.06、スウェーデン9.3
年金等:日本8.2、アメリカ6.35、イギリス13.17、ドイツ14.98、フランス14.85、スウェーデン13.14

 さらに、児童手当と高齢者福祉サービスの数値は極度に低くなっています。

「政策分野別社会支出」(対国民所得比)
育児サービス等:日本0.35、アメリカ0.35、イギリス0.64、ドイツ1.08、フランス1.75、スウェーデン2.63
高齢者福祉サービス等:日本0.42、アメリカ0.06、イギリス1.05、ドイツ1.01、フランス1.75、スウェーデン2.63
児童手当:日本0.28、アメリカ0.28、イギリス2.24、ドイツ2.75、フランス2.15、スウェーデン2.28

今までの日本は、中央政府が補助金や指令を出して地方自治体に仕事をやらせていました。しかし、国民レベル(=中央政府レベル)で意思決定をすると、産業政策(=道路網や港湾網の整備等)に結びつくことが多く、サービス産業の時代に必要とされている相互扶助的な公共サービスに結びつかないことが多いのです。

中央政府主導の産業政策は過去の「農業基盤整備事業」(*3)「農道空港」(*4)「港湾整備事業」政策などの失敗からみてわかるように、かつての土木事業による所得再配分は時代に適合していないことは明らかです。

これからは、地域住民が自分たちの家族や地域社会でできないことを、地方自治体で共同の意思決定のもとにやるということが必要です。

国民はまず地域の住民として、隣人たちといっしょに政府をつくり、その隣人たちの政府の集まりとして一つの国家というものが出来上がっている、という形にしなければならない筈です。

市町村にできないことは道府県が、道府県にできないことは国がと、意思決定をする公共空間をいくつも分離させておくことが必要です。

また、神野先生及び鈴木武雄先生が唱導しておられる「地方共同体が共同発行できる地方金融公庫(=地方自治体が共同出資で銀行を設立し、そのプールしたお金を担保として資金繰りが苦しい自治体が地方債を発行する)」の設立も地方分権には欠かせない要素であると考えます。

(出典:『財政のしくみがわかる本』神野直彦著:岩波ジュニア新書より要約抜粋、一部改悪)

最後に佐高信氏と姜尚中氏の対談「民営化イコール善はおかしい」から、

姜 「現在アメリカでは医療保険を受けられない子どもたちが約400万人いるんです。大人も含めると4,000万人以上かな」

佐高 「自助努力と政治家が言うのは政治家の自己否定なんですよね。自助努力で物事が成れば国家はいらない。自分たちで自分たちをいらない、と言っている矛盾に全然気付かない。一人でやれるなら国はいらない、税金を払う必要もないよ、という話なんですね」

姜 「それが「公」が無くなるということだと思います。アメリカでは、私企業が「公」的なもので儲けられる構造になっている。刑務所も私企業化され、私企業がそこをまかなうと企業秘密になる」

(出典:『日本論』(佐高信・姜尚中著:角川文庫より要約抜粋、一部改悪)

参考文献:
『RE-BOOT』(大前研一著:PHP研究所)

(*1)OECD(経済協力開発機構)
1961年9月発効。ヨーロッパ経済協力機構(OEEC)に代わって経済の安定成長と発展途上国援助の促進、貿易の拡大自由化を目的とする国際協力機関。先進国クラブともいう。
(*2)所得再配分
豊かな人に重く税金をかけ、貧しい人には現金を給付して国民の所得の格差を小さく平等な社会にする。
(*3)農業基盤整備事業
農水省管轄の公共事業。農道や排水路など農業設備を整備する事業。15年間で45兆円以上使われたが、新しい農地を使う人がなく失敗に終わった。
(*4)農道空港
新鮮な野菜を市場に運ぶのが目的で各地に作られたが、あまり使われていない。