Sunday, November 19, 2006

(書評)『ヒルズ黙示録~検証・ライブドア~』(大鹿靖明、朝日新聞社)

『ヒルズ黙示録~検証・ライブドア~』(大鹿靖明、朝日新聞社)の続編。

前回、私は村上世彰氏をユニークな必要悪と評し、ホリエモンの側近、宮内亮治を「堀江を凌ぐカリスマ」と評したが、評価を変更する。

村上氏は日本の産業構造の硬直性を批判し、「モノ言う株主」として株主軽視の会社経営のあり方に一石投じるために村上ファンドを設立したはずである。いわば、株主の声を経営に反映させ活用するあたらしいコーポレート・ガバナンスを志してきた。

ところが、ファンドの出資者に収益性の低さを指摘された村上氏は豹変し、ただの金儲けだけが主眼のアービトラジャー、理念なき金の亡者に変節してしまう。

宮内氏はフジとの裁判にかち、莫大な利益を得たとき「やったぜ、フジをかつあげしてやったぜ」と言ったという。また、投資事業組合をつくり会社の金でフェラーリを買う。
これでは、志も品格ももたないただのチンピラである。

この本の中で最も考えさせられたのは、

「いわゆる事前規制型社会から事後チェック型社会の移行にともない司法の在り方が変化した」

ことである。

今回のライブドア事件は、大鶴特捜部長が「額に汗して働く人、リストラされ働けない人、違反すれば儲かるとわかっていても法律を遵守している企業の人たちが憤慨するような事案を万難排して摘発したい」という掛け声の下おこなわれた。

司法は、ライブドアおよび村上ファンドが日本の人々の規範意識に与える影響を重大視し、ライブドアおよび村上ファンドの法律違反が重大か否かを明確に捜査せずに、先にアドバルーンを打ち上げた。

司法は日本社会のモラルに悪影響を与えている存在に対して、まず悪のレッテルを張り、それから法律違反がないか捜査し立件するという方式に変わった。

ドイツの法学者イエーリングは「法は倫理の最低限」という言葉を残したが、司法は法の範疇を超えるモラルの領域にまで触手を伸ばすようになった。

最後に気になったのは、堀江氏の弁護人高井氏の言葉である。

「大きな悪を摘発するために小さな悪を見逃すのなら捜査方法としてありうると思う。しかし、今回は横領や背任といった証券取引法違反より大きな犯罪を意図的に見逃してるとしか思えない」

考えてみれば、堀江氏が立件されたのは①自社株の売却益を売上高に計上したことと、②風説の流布によるものである。

しかしながら、当初国民の関心を最も集めた香港の投資事業組合を使った資金の経路および使途について検察はつまびやかにしていない。

また沖縄で怪死した野口氏は当時副社長として君臨した会社の投資事業組合で一連のマネーロンダリングをおこない、主要窓口になったゲインウエル証券も彼が所属した会社の子会社である。

しかしながら、検察は野口氏が組成した投資事業組合の関係者を告発しないのも不思議であるし、野口氏の所属した会社が当時副社長であった野口氏が別会社であるライブドアの利益追求に手を貸してきたことについて背任の責任追及をしない。

このあたりに捜査の大きな壁が存在するようである。

日本の検察は国際的な壁を越えられるか、水面下での攻防が再び始まっている気配がする。

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