Wednesday, November 07, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第5講 解釈学」(前)

哲学の巨人、ハイデガー(ドイツ哲学者)が登場します。

哲学者木田元氏は氏を賞してこのように述べています。

「『存在と時間』という本は、異様な魅力をもった本である。現代の哲学思想に通じている研究者たちに、ニ十世紀前半を代表する哲学書を一冊だけ選べと言えば、大半の人が『存在と時間』を挙げるのではないだろうか。(中略)サルトルの『存在と無』などは及んだ影響の広がりから言えばもっと大きいかもしれないが、学問的評価という点では比較にもならない」
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

マルティン・ハイデガーがはじめて哲学に目醒めたのは十八歳の時フッサールの先生、ブレンターノ(*1)の本を読んだ時です。二十歳で南ドイツのフライブルク大学へ入学。二十三歳で卒業。普通の人ならそれから何年もかかるところを、翌年に、教授になるための論文を仕あげて合格。さらに、教授の資格をとるために、講義資格を得るための試験講義というものをやるのですが、これも同年に講義し合格。

1916年フライブルグ大学に教授としてフッサール(*2)がやってきました。フッサールはハイデガーをたちまち気に入ってしまい弟子として、そして後継者として育てようと7年間現象学を叩き込みました。

 ところが1923年ハイデガーがマールブルグ大学の教授として招聘されると、ハイデガーはディルタイ(ドイツ哲学者)の『世界観の哲学』や『生の哲学』に関心を向けはじめました。その頃、マールスブルグ大学でハイデガーから教わっていた三木清(日本哲学者*3)が羽仁五郎(日本哲学者*4)に以下のような手紙を送っています。

「ハイデッカーはフッサールのフェノメノロギーに残っている自然主義の傾向を離れて精神科学のフェノメノロギーをたてようとしているが、彼がこの方面でどれほど深く行っているかは別として、とにかく目論見は面白い。フッサールの『イデーン』よりも『論理学研究』の方を重く視る彼の考えも面白い。ハイデッガーはディルタイを尊敬し、私にもディルタイを根本的に勉強するように勧めている」(大正12年12月9日付)
(出典:『現象学』(木田元著:岩波新書)

後継者ともくしていたフッサールはハイデッガーが離れていってしまうことに危惧を抱き、1927年の夏フッサールはハイデッガーをフライブルグへ呼び寄せ『大英百科事典』に光栄にも『現象学』という項目があらたにできるようなのでこの項目を共同執筆しようとしました。しかしながら師の温かいこの試みも、両人の意見の相違により頓挫する。

フッサールは『超越論的現象学』を唱えました。

「フッサールは理念の衣(数学および数学的自然科学)こそが近代的意識にとってはもっとも根深い先入見であるが、超越論的現象学はこの先入見を排除することによって根源的な生活世界に立ち還り、そこから逆にこの理念の生成を開明しようというのである」(*5)

一方、ハイデッガーは『現存在』を唱えました。

「人間的現存在に即して存在の真の意味を問おうとするには、なにはさておきまずこの現存在の実存、つまり「その存在をおのれの存在として存在しなくてはならない」という固有の在り方を分析し、しかも、浄化的反省とでもいうべきものによってそのもっとも本来的な在り方を浮かび上がらせなくてはならない。言いかえれば、われわれが「さしあたりたいていのばあい」そこで生きている「自然的態度」―ハイデガーはこれを「日常性」とよぶ(*6)

つまりハイデガーに言わせれば、『不安』という体験はフッサールの対象としては扱えない。
つまり「世界があってこそ人間が存在しえる」のではなくて「人間という存在があってこそ世界がある」のではないかと唱えたのである。

フッサールのいう「世界を構成する主観を持った人間までが存在者でない」(*注1)とは言えないのではないか、むしろハイデガーは「他の存在と、人間的現存在のありかたがまったく異なっているということではないか」(*注2)と主張し『現存在』ということばを造りました。

結局、この師弟関係は噛み合わないままでしたが、ハイデガーは『存在と時間』を書き上げ、その本の冒頭にフッサールは献辞を捧げました。フッサールはフライブルク大学を停年で退職し後継者としてハイデガーを就任させました。

しかしながら、その2・3年後『存在と時間』を熟読したフッサールは現象学を歪めたものだと主張しハイデガーを批判しました(つづく)

(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)
(参考文献:『現象学』(木田元著:岩波新書)

(*1)ブレンターノ
「真面目な文学部唯野教授 第4講 現象学」(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-10-05)
(*2)フッサール
「真面目な文学部唯野教授 第4講 現象学」(http://blog.so-net.ne.jp/soshu/2007-10-05)
(*3)三木清
哲学者・評論家。京都大学哲学科で西田幾多郎に学んだ後、1912年ドイツに留学。1924年からハイデッガーのもとで研究した。『唯物史観と現代の意識』『構想力の論理』等。治安維持法違反の容疑で拘束され獄死。
(*4)羽仁五郎
歴史家・評論家。ハイデルベルグ大学に入学。リッケルトンのもとで歴史学を学んだ。主著に、軍部の弾圧に抗して発表された『明治維新』『白石・諭吉』『ミケランジェロ』『都市の論理』
(*5)『現象学』(木田元著:岩波新書)61頁
(*6)『現象学』(木田元著:岩波新書)89頁
(*注1)「ヨーロッパでの絶対ということは、Godがそうであるように、如何なるものにも依存しないものをいう。 その上、Godは哲学的絶対者であるだけでなく、きわめて能動的で、まず自分に似せて人間をつくっただけでなく、この世のすべてを創造した」という西欧の絶対の価値観(『文藝春秋』2006年1月号「司馬さんの予言」『この国のかたち』 二 「45 GとF」)
(*注2)筆者の勝手な解釈なのだが、「如来」はすでに存在している世界をみとめた、という存在である」という観念に近いのではないかと解する(『文藝春秋刊』2006年1月号「司馬さんの予言」『この国のかたち』 二 「45 GとF」)


次回は「第5講 解釈学(後)」を割愛させていただきます。ご興味のある方は『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)(P159~P168)をお読み下さい。



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