Thursday, April 19, 2007

「何故、青年は社会的ストライキを起こすのか」、『ひきこもりの国』(マイケル・ジーレンガー)(上)

この本は日本国全体が「ひきこもり」である、と指摘する衝撃の本だった。

小泉改革で、日本はアメリカの「年次改革要望書」通り、開国し開かれた国になった、と思いきや、著者のマイケル・ジーレンガー氏によると日本はいまだ鎖国状態であるという。

『ひきこもりの国』という本を読みながら、私が感じたのは日本の社会システムは人間システム(ヒューマンウェア、特に35歳以下の若者層)に合わなくなっているのではないかという疑問です。

そこでその点をブログ仲間であるほめ屋さんに述べたところ、以下のような返信があった。

>この点は、私も同意します。
>国民国家というシステムが私たちに合わなくなってきているのではないかと思います。
>
>より踏み込んで言えば、OSの絶えざる更新が必要なのではないでしょうか。旧時代のOSの上に最新のア>プリケーションを載せているような言論が多くて、目も覆うばかりです。
>

OSとはコンピュータのインフラであり、ユーザーの都合によって変更を加えることが出来るが、アプリケーションの変更のように容易に取り替え可能というものではない。

しかしながら、社会システムがあって人間のシステムがあるのではなく、人間あっての社会システムである、と発想を逆にすると、社会のインフラである憲法以外のはじめさまざまな法制度や人々のパラダイムといったものを、これからの社会を担う若者向けに変えてゆかねばならぬ、という論法も成り立つ。

この本の著者(マイケル・ジーレンガー氏)はまず、社会にストライキを起こしている、ひきこもりの青年の実態を把握することで現在日本の抱える病理の根本が分かるのではないかと、リサーチしている。

ひきこもりは日本にしか存在しない現象である。

何故、ひきこもりが発生したかを著者は、朱子学の影響を受けた日本の社会が、恭順、規律、自制、集団の和が極度に強調される社会であるため、その集団の和から疎外された者、プレッシャーに耐え切れない者が逃避しはじめた結果であるという。

次に、河合隼雄さんの提唱する「イエと家」の概念が引用され、戦前のイエ社会の変形版である企業社会の「個々人の人権より、集団の利益優先」という体質についていけなくなった若者たちの姿がある、という。

河合さんによると、昔からずっと、日本人は個人のアイデンティティの追及よりも家系の存続が優先されてきたのだという。

戦後GHQがアメリカ人からみて人道的な制度とはみなされなかった戦前の家族法を撤廃し、日本に個人主義が根付くであろうと思ったところ、日本人はイエに変わるものとして企業社会にその存在意義を見出し、そこに支配―従属的な関係を築きあげ、滅私奉公しだしたというのだ。

現代の青年は、イエの存続ならば自分を犠牲にするという、個人の人権よりも集団の利益を重んじ、イエのためなら個人を犠牲にしてもやむなし、とする社会に出ることを拒否する。

そのような社会の中で、自己表現できないことに不満をおぼえからだ。

また、欧米からのメディアなどの影響で個人の自主性や自己表現といった手法をおぼえてしまったかれらは、日本社会の集団的抑圧にアレルギーを示す。

本書では、

「多くのひきこもり青年たちが自分の本音を捨てられないのは「実社会」で必要とされる処世術と、自分の純粋な気持ちとの矛盾を受け入れることが彼らにとっては苦痛で困難だから」

と述べる。

しかしながら、いまや日本の人口の5分の1が60歳以上という時代である。

昔はある仕事を任せるにも、「かれ。かれが駄目なら、こいつ。こいつが駄目なら、あいつ。あいつが駄目なら、あそこにいる奴」と取り替え可能な人材が大量に存在したが、現在は若い労働力が減少しており、「もはや君しかいない」という状態なのである。

防波堤を守る防人よろしく、若者一人が欠ければ、その防波堤ラインに穴があくほど人手不足の時代が到来しているのである。

さまざまな異質なものをもとりこむ、度量のあるアローワンスの広い社会を構築してゆく必要性があるのではなでしょうか。

小泉内閣でジェンダーの公正推進を訴える坂東真理子さんはこう言った。

「フリーの評論家だったら、私はこう訴えるでしょう。私たち日本人は社会を再構築すべきだ。年寄りたちは、不満と失意のなかにある若者たちにももっとチャンスをあたえるべきだ。危険を覚悟で若者たちの挑戦を許し、新しい夢を持つべきだと」

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