Saturday, April 28, 2007

「無名であるといふこと」 郷学研究会の講義(上)

郷学研究会の寶田時雄さんから2枚のDVDと2冊の本が送られてきた。

早速、「官制学の限界、経師と人師」と「人間学講話(郷学研究会)」の2枚のDVDを拝見させていただいた。

「官制学の限界、経師と人師」は、亜細亜大学の教職講義で語られたもので、単に書物を解説する机学先生(=経師)になることなかれ、体験を糧に感動、感激を通じて人間のあるべき姿を説く師匠(=人師)になれ、と説く。

また、教師は、独楽の軸のようなしっかりとした情緒(=歴史、文化的存在)を基軸として、縦軸に天地、横軸に東西南北、の円を回転し情報を集めよ、とも説く。

独楽の軸に「論理」を持ってこなかったのが、寶田さんらしい。

寶田さんが最も大切にする姿勢は、視線は常に「下座視」であれ、ということである。

「下座視」の「下座」とは、広辞苑によれば、①座を降りて平伏すること、②しもての座、末座という言葉であるが、寶田さん流に言うと、「常に立場の弱い一般庶民と同じ目線であれ」という事である。それでなければ感じ取ることができないものが、世の中、数多く存在する。

「新宿公園や墨田川にビニール・シートに住まう人々とも、どんなに地位のある人、著名な人とも対等に話すことのできる人間となれ」

これが寶田さんの目指す究極の人間像である。

寶田さんは師である故安岡正篤氏から「市井の中に埋もれた人々を掘りおこし光をあてる活動」である郷学研究会を起こすように言われたとき、厳命されたのは「ただし、自身は無名のままでおやりなさい」と言うことであった。

私はその「無名性」、つまりあくまでも主人公は参加する人であり、活動の発起人は名を残す名誉さえも捨て去って活動に没頭する、という無私の境地に在るところに感銘を受ける。


DVDでは「THINK JAPAN」の大塚さんも同席されていたが、名利にこだわることなくして誰とでも平等に語り合うことのできる好漢、これは私が寶田氏、大塚氏から感じる人物像そのものである。

私はいつも寶田さんと語ると、自分の出発点である行動規範について考えさせられる。

「読書の姿勢」からしてそうである。

寶田氏のメールを引用させていただくと、

>
>読書も「古教照心」ではなく「照心古教」でなくてはならない。
>明治以降の官制学校歴カリキュラムのマニュアルから脱却しない限り、「我ナニビト」が判明しない。
>つまり自己実現のための表現と、自己を認知したものの表現では結論さえ逆になってしまうということで
>す。
>

小生も当ブログの読者数が予想外に増加していくにつれ、「自分の書きたいものを書く(=自己の中で疑問が生じ、そこを出発点として書く)」ことから「読者に飽きられないように書く(=自己の中では疑問が生じていないのに、読者の為、アクセス数を維持するために書く)」という姿勢に変わってしまったような気がします。

「手段と目的の逆転現象」

大いに反省すべき点です。

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