Wednesday, April 11, 2007

俺たちは歩いてゆこう

また、新たな人生を歩むことになりました。

友人には「あいつは、いつも同じところをグルグルとまわっている」と笑われるでしょうが、私にとっては「日々面目新たなり」の心境で、新しい環境に立ち向かってゆく所存です。

この随筆は、先日お亡くなりになられた城山三郎さんの随筆で大好きなものの一つです。

私の友人は「あ、これ読んだことがある」、と思うでしょうが、今どうしても再掲したいのでご勘弁を。


打たれた男が友人の言葉によって慰められたという劇的な一例がある。

そのとき男は三十二歳。地方の私鉄をとりしきる常務であったが、過労につぐ過労がたたって、失明してしまった。

会社は倒産寸前の危機に在った。

文字どおり杖とも柱ともなるべき妻は、乳呑児を残して、家出してしまった。

打ちひしがれたこの男を慰めようと、一度、仲間が集まってきてくれた。

会が終わって、飲み歩き、さてバスに乗って帰ろうとすると、まだ車の普及していない時期だったため、多数の客が待っていて、バスが来ると、いっせいに殺到し、大混乱になった。

にわかに盲目となったこの男は突きとばされ、転倒するところだったが、仲間の中でも兄貴分というか親分格の友人に助けられた。

その友人は、

「おれたちは歩こう」

といい、腕をとって歩き出した。続いて、次のようなことをいいながら。

「いま日本中の者が乗り遅れまいと先を争ってバスに乗っとる。無理して乗るほどのこともあるまい。おれたちは歩こう。君もだんだん目が悪くなっているようだが万一のことがあっても、決して乗りおくれまいと焦ってはならんぞ」

情のこもったまことにいい言葉である。それもそのはず、この友人とは、いまは亡き火野葦平氏。

(『打たれ強く生きる』(城山三郎著;新潮文庫)

火野葦平 (1907年1月25日~1960年1月24日)
火野葦平は『糞尿譚』で第六回芥川賞を受けた。火野はこのとき36歳で中国杭州で従軍中だった。文藝春秋社が派遣した小林秀雄の手から、“戦場の授賞式”で時計と副賞五百円を直接贈られている。
火野は沖仲士を業とする家の跡取りであったが、入隊し、中国戦線の経験から『麦と兵隊』などを書いて戦時中のベストセラー作家となった。戦後も新聞小説なので評判作を発表、一般には安定した作家活動を展開中と思われていたが、1960年1月24日自殺。庶民の善意・誠実が社会の巨大な力で翻弄され、打ちのめされていく彼の作中人物の姿は、作者そのものであったかもしれない。

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