Thursday, April 19, 2007

「個人主義とコジンシュギの違い」、『ひきこもりの国』(マイケル・ジーレンガー)(中)

まず、本書で紹介されている五木寛之さんの言葉を紹介します。

「これは国の危機であり、心の危機である。人々は自分の命を軽く見ている。自分の命を尊重しない日本人はお互いのことも尊重しない。自殺率が高いのは人々が心に神を持っていないからだ」

これは、世界に冠たる自殺大国として名をはせる日本の現状、そして責任のとりかたとして自殺を美徳とする社会の風潮に警鐘を鳴らす言葉です。

「人々は自分の命を軽く見ている。自分の命を尊重しない日本人は、お互いのことも尊重しない」

とあるのは、統計の数字にも表れている。

本書によると、日本は民族的、文化的に強い絆で結ばれているというが、アメリカで「他人を信用できる」という質問にアメリカ人が四十七パーセント、日本人は二十六パーセントが信用できると答えた。

また、「世の中に利他的な人が多いと思うか」という問いに対しては「思う」が、アメリカ人が四十七パーセント、日本人は十九パーセント。これほどまでに人間不信が強いというのはちょっと驚きである、と書いてある。

日本人は同じ民族でも他の人を信用できない、信用できないからお互いを尊重しない、というさみしい民族になってしまったのである。

「人々が心に神を持っていないからだ」

と、あるのは個人主義についても言えます。

河合隼雄さんは、

「欧米の個人主義はキリスト教に根ざした考え方で、いつも天からあなたを見下ろし、どんな好き勝手なことをしていても、なんらかの評価を下す神の存在をかたときも忘れなることはないでしょう」

という西欧人も(まあ、日本にも、お天道さまがみているよ、といって天地自然に手を合わす習慣はありますが)と日本のメディアからみて吸収して会得したつもりになっているコジンシュギは異なると厳しく峻別します。

日本のコジンシュギは、一家団欒がなく家族旅行もしない、自分の仕事ばかりを大切にする西欧の個人主義よりもさらにコジンシュギだ、と揶揄されるそうです。

私はなんとなく「愛」という言葉をきいただけで、背中がムズ痒くなるというか、愛されたいし、愛したいのだけれども、それを表沙汰にするのが恥ずかしいという、そんな感覚が根本にあります。

こういう感覚を持つ人は日本人に多くいると思います。そんな日本人の気質が、日本人の男性を家族愛やキリスト教の「愛」という精神から遠ざけているのではないか、と私は考察します。

欧米人には、国の憲法や法律、中世から近世に至るまでの市民か築き上げた「個人主義」が確立しており、歴史によって積み上げられた「普遍的価値基準」に基づく行動規範が存在しているという。

では、最終的に「個人主義」がなく「コジンシュギ」がある日本人の拠りどころとするのは何かというと、堺屋太一さんは、


「日本人はこのような相対主義的な信仰システムがあるため、絶対不可侵の神聖な教えとか、倫理原則の確固たる「指針」というものがない」

と言う。

「日本人にとって道徳的に正しいということは、きょうの日本人の大多数が正しいと考えていることなのです」

と言い、さらに

「日本人のよりどころになるものは相対的で、人間中心で、実際的だ。ある時代、ある局面で権力を握っている者が「よい」と考えているものだ、という。時の最高権力者は通常、多数派に属しているので、彼がよいと考えるものは他の者がよいと考えるものと合致している。会社の従業員を支配している者にとってよいことは、会社全体にとってもよいことなのである」

と結論づける。

これでは困るではないか、善悪の判断、社会的正義の執行といった行動をとるために一体われわれは何を規範とすればよいのか、ということである。

無宗教と名乗る人が(まあ、そういう人も密やかに仏教やキリスト教を信じているのだが)おおい日本人は法律を拠りどころとするしかないのか、という問題にぶち当たります。

また本論がらズレますが、日本人は信仰心がありながらも、自らの宗教を明らかにせず、何故、無宗教と名乗るのか、そこら辺も不可解なところです。

中江兆民は、学校教育に必要なのは徳性の涵養であるとし、いかに外国語を教えても、人格が高くならなくては教育とはいえない、西洋ではキリスト教をもって徳育の根本としている、日本としては孔孟の教えを教えるべきと、文部省に掛け合ったそうです。

今後、何を日本の「普遍的価値基準」にするかが大きな問題となるでしょう。

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