Saturday, April 28, 2007

「昇官発財」 郷学研究会の講義(下)

寶田さんの「昇官発財」は、中国の歴史を材料に、エリートが国益に資するという純粋な動機ではなく、財力、性欲、地位といった欲望によって動機付けられ、難関をくぐりぬけ、国家権勢を握る。

つまり「手段と目的の逆転現象」が中国の歴史では既に発生していた事実を述べる。

「国益を任せるに耐えうる人材を選び抜く」試験という「手段」が、パスすれば栄達を得られる、つまり試験にパスすることが「目的化」しはじめる現象が古来中国にあり、教師もそのような欲望を駆り立てることによって勉強をさせていた、という実例が示されている。

そして、徐々にその指導層のおこないが国民の生き方にも反映されていく、ということの危険性に警鐘を鳴らした資料である。

「魚は頭から腐る」との諺のとおり、国を代表するものが利に溺れるようになれば、下の者もそれに倣う。

この状態を資料の漢文からぬきだせば、

「天下は壤々として(集り群がって)みな利のために往き、天下は熙々として(喜び勇んで)みな利のために来る」(六韜)

「ことごとく、仁義を去り、利を懐いて相い接わるなり。かくの如くにして、亡びざるものは、未だこれ有らざるなり」(孟子・告子)

「勢を以って変わる者は、勢傾けば別ち絶つ。利を以て交わる者は、利窮すれば則ち散ず」(文中子、礼楽)

今のエリート層に言えることは、幼稚園の頃から一般庶民と、スタート・ラインからことなるという事である。エリート層は、隔離された特別な社会の中で育ち、一般庶民との触れ合う機会がない。

私が日経新聞の「わたしの履歴書」を読んでいて驚かされたのが、住友の大番頭だった伊部恭之助さんが東大在学中に学徒動因でかりだされて、二等兵として上官の背中を流すことから始めていることである。

流し方が悪いとか言ってはブン殴られたりした、とアッケラカンと語っている。

戦後、住友の大番頭として采配が振るえたのも、こういった経験を経てきたため、下々のこころを慮る度量があったからであって、決して頭が良かったからだけではないのだと、私は思う。

伊部恭之助さんの善政も、寶田さんが大切にする言葉、視線は常に「下座視」であり、「常に立場の弱い一般庶民と同じ目線で」あったためである、と私は考える。人間、それでなければ感じ取ることができないものが数多く存在する。

蛇足であるが、小生が今精読中の”Japan's First Strategy For Economic Development"(Wrirtten by Ichiro Inukai)にも、明治維新の成功の要因として、

”successful implementation of conservative change depends primarily upon two factors: the elite's familiarity with social condition, and its ability to determine what elements of value structure are indispensable to the continuity of the culture"

意訳させていただきますと、

日本が国体を維持したまま改革に成功したのは二つの要因による。
一つは、エリート層の社会状況の十分な理解、もう一つは文化の継続性の為にはどのような価値体系が不可欠かを決める能力があったからである。

講義の最期は、寶田さんが尊敬する孫文の言葉でしめくくられた。

「日本はアジアの希望。日本民族は、西洋覇道の爪牙となるか、東洋王道の干城となるか、それはあなたがた日本国民が選択する道である」

最期に思ったのは、一般的に思想というものは危険なものとみなされるが、思想がなければ人間、機軸のない独楽のようなもので、方向性もなく常に軸が揺らぐ(私がそうである)

こういった啓蒙活動こそが、人間に機軸を与え、「人はパンのみに生きるに非ず」という乾ききった日常から救ってくれるのではないかと。

禅は自分自身をテーマにして、現実の自分の中に、もう一人の自分を探索する“自分探し”をおこない、そのために坐禅をします(坐禅と言う漢字は、人が二人座って坐禅となっています。現実の自己を「感性的自我」、もう一人の自己を「本来の自己」と呼びます)

郷学研究会にせよ、八木博さん率いるチーム・ヴァイタリジェンスにせよ、アプローチは異なるとはいえ、日常の雑踏の中で埋もれてしまっている本来の自己(セルフ)を発見させ、人を活性化させるところに変わりありません。

縦割りの社会ではなく、このような横断的な社会活動に参加することによって、人は一箇の独立した精神を持った人間としての尊厳と自覚を持ち、賢明なる市民に変貌してゆくキッカケをつかむのではないか、と考える。

ヘーゲルは、人が歴史的に意味のある仕事に情熱を持って取り組むときに、

「個人は一般理念のための犠牲者となる。
理念は存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱を持って支払うのです」

つまり、一般社会を変革するには、過酷な現実と対峙せず、宿命としておとなしく受け入れる日常ではイカン、情熱をもって立ち向かえ、という事である。

日本流ソーシャル・キャピタル構築の新潮流が胎動しつつあることを感じています。

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