Friday, August 24, 2007

近代資本主義に関する箴言(1)

先日、本ブログに経済哲学についてコメントがあったため、自分の書いたコメントに誤りがないか確かめるために、急いで『経済学をめぐる巨匠』(小室直樹著:ダイヤモンド社)という本を読みました。

その中に興味深い理論がありましたので紹介させていただきます。

シュンペーターの「資本主義はその成功故に滅びる」という言葉です。

近代資本主義は「私有財産制」と「自由契約制」という前提によって成り立ち、絶え間ない革新によって発達してゆきます。

しかしながら、アントレプレナーが大企業の官僚的経営者に変り、巨大企業の所有者が単なる株券の所有者になってしまうことによって

「当事者意識がどんどん希薄になってゆく」

という現象が起こるのです。

元来、企業家というものは、

「自分の工場およびその支配のために、経済的、肉体的、あるいは政治的にたたかい、必要とあらばそれを枕に討ち死にしようとするほどの意志」(シュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』東洋経済新報社ニニ一頁)

がなければ務まらない仕事なのです。

官僚的経営者は、事業に対する欲求よりもステイタスにひかれて経営を受託し、自分は法律にのっとって会社の所有者から経営を委託されている代理人に過ぎない、と割り切って企業の利害と個人的な利害とを天秤にかけて行動します(=革新性の欠如)

また、官僚的経営者は、創業者が会社の財産の増減に自己の財産の増減と同じように一喜一憂するといった感覚、事業イコール自分自身の投影といったかたちでの心理的な興奮や快感をおぼえることはないでしょう(=事業の私有財産権に対する心理的な関与の希薄化)

会社の契約も自分がマイホームのローンを締結するように主体的かつ自主的に判断し締結することは、ありえません。会社の経営者から出される命令とそれまでの慣習にしたがって締結されます(=契約者の主体性の欠如と制限および束縛)

会社の所有者たる株主も、株券の価値が上がるか否かに関心があるのであって、個人の利害を超えてまで会社にコミットメントすることはあり得ないでしょう(評論家の関岡英之氏は吉川元忠氏との対談『国富消尽』の中で「会社の所有者は株主である」というのは法律上の誤謬である、とまで断じています)

つまり、会社が公的なものになるにつれて、参加者個人の当事者意識が希薄化し、公(おほやけ)のモノという意識が、責任の所在をかえって曖昧模糊なものとし、結局、大規模な事業体のおこなったことに対して誰も責任をとらないという、構造になる訳です。

小室直樹先生は以下のように嘆じられています。

「このように近代資本主義の後期時代には、セイの法則(=市場に供給した商品はすべて消化される)が機能を止め、レッセ・フェール(自由放任)が資源の最適配分を停止する事に依って、所有権に対する意識も根本的に変わる。
それと共に、私的所有権の絶対性と抽象性も、契約絶対性の思想も意味を大きく変化する事にならざるを得ない」

これは、ケインズ政策(=政府が市場に介入し需要を創出する)の台頭によって近代資本主義の前提である私有財産制度が急速に失われつつあることに注意を喚起されたものです。

サッチャー政権もレーガン政権も共に「古典派」(=アダム・スミスを始祖とする自由放任の理論)はじめとする理論に基づき経済政策をおこないましたが大失敗、結局「ケインズ政策」によって経済状況が劇的に改善しました。

イギリスの首相、ロイド・ジョージに絶賛されたヒトラーのアウトバーン建設や、ルーズベルトのニューディール政策もケインズ経済学に基づいておこなわれました。

ルーズベルトのニューディール政策に伴う諸法案などは、経済活動の自由、私有財産の絶対性に抵触するということで、連邦最高裁によって片っ端から違憲とされた、という逸話があります。

小室先生は、近代資本主義の前提である「私有財産制度」を再考することが今後の資本主義の貴重な出発点になるであろう、という言葉を残して本稿を終えられています。

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