Monday, August 27, 2007

真面目な文学部唯野教授 「第2講 新批評」

1920年代に貴族的な批評に反対して、ケンブリッジ大学にスクリューティニー(吟味)派という派閥が生まれました。

リーダーはリーヴィス(イギリス批評家)を中心とする地方のプチ・ブルジョア、つまり中産階級の人が多く参加して文学運動を始めました。1932年には『スクルーティニー』という批評誌もできました。

このスクリューティニー派は文学作品を解剖するのは人間のからだを切り刻むのと同じ行為だからというこれまでの禁忌(タブー)を破壊して、チョーサー(イギリス詩人)、シェイクスピア(イギリス劇作家・詩人)、ワーズワース(イギリス詩人)の作品を綿密に分析しはじめました。

同じケンブリッジで哲学を教えていたヴィトゲンシュタイン(オーストリア哲学)が「君ね、君のやっている文学批評ね、あれ、やめなさい。すぐ、やめなさい」と言ったという逸話があります。

この派閥は美学理論中心の閉鎖的な批評に反対して、歴史や心理学や文化人類学などを交えて分析を始めました。やがてその活動は資本主義を否定し経済共産主義を肯定するなど急進的(ラディカル)なものになり、英文学が学問の中で最も至上なものである、という認識に達しました。

「何故、文学を読むのか」という問いに対して、リービスは「本を読むといい人間になれる」という主張をしました。

彼らが支持した文学作品は炭鉱夫の息子であったD・H・ロレンス(イギリス作家詩人)の『チャタレイ夫人の恋人』等、階級意識と調和して創り出された『生(ライフ)』(=この派閥の造語)が見えるものです。

しかしながら、この批評は「小説のここだけ注意を向けなさい」と読者に限定を促したり、肝心な『生(ライフ)』の定義が曖昧であった、という欠点がありました。

結果、このリービスはケンブリッジの英文学批評とアメリカの新批評(ニュークリティシズム)の橋わたしをしました。

リービスが批評を思想にしたのと対照的に、リチャーズ(イギリス批評家)は数字で計ることのできる行動心理学を持ち込んで批評を科学にしました。

この手法がアメリカに伝播すると南部の伝統主義者、ジョン・クロウ・ランサム(アメリカ批評家詩人)が詩こそが文学の世界をあるがままに受け入れる姿勢をわれわれにおしえてくれる、と主張しました。

なぜならば、詩は文学作品ほど長くなく詳細に分析しやすいからです。

「緊張」「矛盾」「両価性(アンビバレンス)」などの言葉を用いて科学的合理主義の真似事をしはじめたわけです。

こうした事によって英文学は既存の学問(アカデミズム)の体系の中に組み込むことが可能になりました。

しかしながら、新批評(ニュークリティシズム)は詩を作者からも読者からも解き放つなどといって、現実の社会や歴史からも切り離してしまいました。

文学は否応なく人間に背負わされた国家や人類や民族、いわゆる種を失うことなしには成立しません。しかるに、新批評(ニュークリティシズム)はそういったものを抜きにして科学的に普遍化してしまった、という反省があるでしょう。

(『文学部唯野教授』(筒井康隆著:岩波書店)より要約抜粋、一部改悪)

次回は「第3講 ロシア・フォルマリズム」

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