Monday, March 12, 2007

『拒否できない日本』(関岡英之著:文春新書)

この本を読了して心底思ったのは、「ああ、日本は明治期にドイツとフランスの法体系の流れを汲む大陸法を採用してよかった」ということである。

日本の法律家は日本の法律がヨーロッパの法を受け継いだことから、ローマ法に由来し、イタリア、フランスやスペインやドイツの法律家と、ラテン語で書かれた法律用語で相互理解が容易であるそうである。

法律を既習の方には当たり前のことかもしれないが、アングロ・サクソン系の流れを汲むコモン・ロー、つまり判例主義を採用するイギリスには素人でも調べられるような六法全書のようなものがないそうである。

これでは一般の人々は何をもとに自己の正当性を訴えればよいのか、その端緒さえわからないではないか、と思った。

したがって、裁判官や弁護士が、ひとつの裁判を担当すると膨大な判例の中から人海戦術で似たようなケースをさがして、弁護方法や判決を考えるのだという。本書によると狡猾な弁護士は、恣意的に自分の案件に有利な過去の判例解釈をひろいだしてきて裁判に勝つそうである。

また、英米法には「エクイティ」という「超法規的」な法の伝統もあるそうである。関岡氏はアメリカはこの法理によって「法律的判断」と「道徳的判断」を混同しているのだと言う。これは由々しき事態である。

「法は倫理の最低限」とイェーリングというドイツの法学者が言ったそうだが、法律がその枠組みを超えて、アローワンスの広い道徳的な領域までその足を踏み入れるとは容易ならざることである。司法の判断に容易に善悪決めがたいモラルの問題が加わる。そのような事態が近いうちに到来するであろう。

ただ、私は市民がいたずらに六法全書をふりまわして何でも訴えるというような社会を望んでいたわけではない。

私は塩野七生さんの『ローマ人物語』を読んで、ローマ人が前5世紀半に成文法をつくるまで、ローマに法がなく、ローマの民衆の意識の中に善悪の明確な基準が共有され社会が運営されていたという事実に感銘をおぼえた。

そして私は日本人がなるべく法律に頼らず、これまで各個人の良識に従って穏便に話し合いによって問題を解決してきたことに誇りに思っていたので、今回の司法改革で、アメリカなみの何でも司法に訴えるなどという事態だけはなるべく避けてほしいものだと思っていた。

ところが、『アメリカの法文化』(藤倉皓一郎著;日本国際問題研究所)によると、アメリカ人は日本人がどうして司法に頼ることなく秩序を維持し利害を調整しながら、経済大国になりえたのが不思議でならず、「司法に頼ることなくして社会的公正が保てるはずがない」と常々疑惑の眼を向けられてきたのだという。

アメリカは「年次改革要望書」によって、強引に司法の分野も改革しようとしている。大陸法中心につくられた日本の法体系をアングロ・サクソン流、英米法に変えようとしているのだという。

司法が一般人に身近なものになるのはよいことだが、反対に考えれば、これはそれだけ人のこころがあれてきた証拠ではないか。

そして、この現象は関岡氏の唱える、個人主義を徹底させ弱肉強食の社会を作り出すグローバリゼーションの波が、徐々に日本社会にも浸透してきたことに起因すると筆者も考える。

この事実を前に、私は法律に関しては全くの門外漢であるが、大陸法と英米法の混合した法体系をもつ日本の司法がグローバルスタンダードの波に飲み込まれず、日本人の良識に基づいたあたらな地平線を切り拓いていってもらいたいものである。

No comments: