Monday, March 12, 2007

自由化の時代に敢えて規制を唱える

関岡英之氏の『拒否できない日本』(文春新書)に触発されて、5年前に書いた雑文を公表する気になりました。

よろしければご一読下さい。


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  当初、日本人はグローバリゼーションという現象を、好意的に受け止めていたのではないだろうか。当時、日本経済停滞の要因は、閉鎖的な日本特有の経済システムにあるのではないか、と考えられていた。

株式市場の規制を緩和し、会計基準を国際化すれば、国際的な日本の会計不信を払拭することができ、対日直接投資も増加するだろう、と誰もが信じていた。外国企業との自由な競争は、日本企業に高コスト体質の改善や国際競争力の向上など、さまざまな副次的な効果をもたらすだろうとも考えられていた。そして、当時のサラリーマンはみな、この激しい経済戦争を耐えぬけば、再び以前のような繁栄が約束されている、信じていた。

 だが、グローバリゼーションは、日本人の経験則で予測できるような代物ではなかった。グローバリゼーションは、徐々にその恐ろしい牙を民衆に対してむき出すようになる。

ビジネスマンは、以前と比べて、より多くの業務をこなし、より大きな責任を負い、より激しい競争にさらされだした。そのうえ不安定化した雇用環境のもと、給料は下がり、、恒常的に重いストレスにさいなまれるようになった。人間らしい豊かな生活をおくる人々が大幅に減少し、経済システムから外れた人々には貧困ではなく、社会からの排除が待ちうける時代にかわった。

 統計によれば、最も豊かな国と最も貧しい国の経済格差は、1820年には3対1であったのが、1973年には44対1に、1992年には72対1に拡がったという。また、世界で最も豊かな国の中においても、富裕層と貧困層の所得格差が先進国の中で、最も大きいという。国が豊かになっても、ひとにぎりの人々しかその恩恵にあずかることができないというグローバル経済の矛盾が、この数字から浮かび上がってくる。  それにも関わらず、なぜ人々は未だにグローバリゼーションの掲げる、自由市場主義や規制緩和といったスローガンを信じているのであろうか。

米国社会におけるエスタブリシュメントでありながら、アメリカ型の開発を否定し、民衆中心の経済開発を唱える、ディビット・コーテンの指摘によれば、それは無限の資源がねむるフロンティアがひろがる時代に成功した理論を、そのまま現代に当てはめているからであるという。

たしかに、フロンティアの存在する時代であれば、人々が富を求めて自由に競争すれば、それは社会全体の利益となった。しかしながら、現代はもはや昔のように西部の開拓地や植民地のようなフロンティアが存在する時代ではない。人々は限られた資源をお互いに奪い合うしかなくなり、そのために多大なエネルギーを費やすこととなった。

 しかしながら、われわれが富をめぐる激しい攻防をおこなっても、豊かで明るい未来どころか、地盤沈下してゆく国際社会の姿しかみえないのは、なぜであろうか。

一般的に「国際経済」は国家ならびに諸国間の国際組織に規制された貿易や投資、「世界経済」は国家ならびに国家間の組織的な権力の及ばない越境的ネットワークにおいて行使される生産や金融組織に関わるもの、と区分して定義されているが、グローバリゼーションの進展に伴い、「世界経済」が占める割合は大幅に増加していると考えられる。

わたしは、その中でも、国家間の権力が及ばない世界経済の領域において、瞬時に富を収奪してゆく巨額な金融取引がおこなわれる世界金融市場の影響によるところが大きいと考える。   『貨幣の死』を著したダニエル・カーツマンは自著の中で、世界の金融市場における巨額の資金は、コンピューター・プログラムの中に書き込まれたある一定の条件に従って動いているのであって、株式や債券の国籍や銘柄のよしあしを人間が判断して投資しているのではないと語っている。

つまり、世界経済で最も影響力をもつ投機家にとって最も関心のあることは、国家や企業のおこなう有為な事業の発展ではなく、ただ貨幣という数字が増加しているという証拠だけなのである。

 金融の信用創造機能によって生み出されるグローバル・マネーの量は、生産部門を経由する資金の20倍とも50倍ともいわれる。市場化や規制緩和によって自由に国境を越えて活動しはじめた巨大なグローバル・マネーは生産経済を侵食しはじめた。

このような現象に危機感をいだいた一部の機関は、自由な金融取引を規制する方向に動きだしている。

 グローバル・マネーの急激かつ不安定な移動により、東アジアの金融危機が起こったことを問題として、国連貿易開発会議(UNCTAD)が「貿易開発報告書」の中で、途上国の経済を投機的攻撃から守る「金融セーフガード機構」の創設を提唱したのを契機に、世界の金融市場における巨額取引を規制する気運が盛り上がりはじめた。

 また1999年、カナダは、世界で初めてトービン税という投機目的の資金移動を抑止する税制を「早期に導入すべき」との決議を採択した。

2001年にフランス下院は、欧州連合諸国が足並みをそろえることを前提にトービン税の導入を法制化した。トービン税とは、アメリカの経済学者、ジェームズ・トービンによって考案された国際税制で、投機目的の世界金融取引に課税して、グローバル・マネーの暴走を抑えると共に、その税収を先進国の大量生産や大量消費の犠牲となっている開発途上国の貧困や環境破壊の対策資金にあてようという、南北の所得再配分方式である。トービン税は、通貨危機を未然に防ぎ、途上国の貧困脱出に活用できるものとして、関心をあつめている。

  さらに、投機家として名高いジョージ・ソロスまでが自著の中で、金融市場の崩壊を懸念し国際決済銀行(BIS)によるデリバティブ取引の規制や一部禁止を主張していることも、注目に値する。

 古代アステカ文明を視察した丸紅の鳥海元社長は古代の遺跡を前にしてこう言った。

「ああ、わかった。アステカ文明は文明を複雑にしすぎたんだ。だから滅びたんだ」

私はデリバティブなど高度な数学を使い、合理的な経済人にも理解が容易でない金融商品は、文字を複雑にしたがゆえに滅びたアステカ文明と同じように、高度に発達した経済社会を滅ぼすのではないのかとかねがね思ってた。(*1)


このような規制は、経済社会を守る上でも当然ではないかと思う。

 また、関岡氏の著書によると、自由市場経済の権化であるミルトン・フリードマンの言動をシカゴ大学内部で目撃した経済学者、宇沢弘文氏は、

「人間の尊厳を否定して自分たちだけがもうける自由を主張するというものです。・・・・・つまり彼らの考え方は、結局そのときどきの最も経済的な強者、あるいは大企業に利益を追求することを認めよ、ということです。これがかれらのいうデレギュレーション(規制緩和)の本音なのです」

  自由は行き過ぎると無秩序な状態に入る。

わたしは、グローバリゼーションの全てが悪いとは考えない。しかしながら、市場主義経済のもたらす弊害に対して、国際社会は自由化の推進のみならず、より積極的に規制の枠組みを構築する必要があるのではないかと考える。



(参考文献)「グローバリゼーションとは何か」(伊豫谷登土翁著;平凡社新書)
       「グローバル経済という怪物」(デビット・コーテン著;シュプリンガー・フェアラーク東京)
       「ソロス・オン・ソロス」 (ジョージ・ソロス著;七賢出版)


(*1)
デリヴァティブとは、貿易立国である日本国において輸出入食物および諸々のものを天秤にかけて計る、商品経済交換システムのことではないかと考えます。




(参考WEB)http://iisd1.iisd.ca/pcdf/
        http://www.globalissues.org/about.asp

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